棕櫚の主日
教会のビジョン3
私たちは人を愛する
ヨハネによる福音書 13:34-35
34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
受難週
今日はイースターの1週間前、棕櫚の主日です。イエス様がエルサレムに入られたことを記念する日です。
これから受難週が始まります。
イエス様は金曜日に十字架につけられ、死なれました。
その前日の夜、イエス様は最後の晩餐をします。
このときイエス様は自ら弟子たちの足を洗いました。
そして弟子たちの中に裏切り者がいることを予告します。
イエス様がパンを裂いてイスカリオテのユダに渡すと、ユダは出て行きました。イエス様は誰が裏切り者か知っていたのです。
他の弟子たちも逃げ出すことを知っていました。
それでもイエス様は弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれました。
イエスの愛を受けて人を愛する者になる
今日は教会のビジョンの3回目です。
これまで神を愛することと自分を愛することを見てきました。
イエス様が最も重要な掟として語られたのは、「神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」でした。
今日は人を愛することについて見ていきます。
人を愛さずに神を愛することはできない
どんなに神を愛すると言う人がいても、その人が人を愛していないなら、その愛は偽物です。
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
ヨハネの手紙一4:20
当然ですね。目に見える人を愛せない人が見えない神様を愛せるわけがありません。
かく言うヨハネは人への愛がなかった
この手紙を書いたのは使徒ヨハネだと伝えられています。
このように愛について書き記すヨハネは、どれほど愛の人だったのでしょうか。
福音書を見てみると、ヨハネは決して愛の人ではありませんでした。
イエスの名で悪霊を追い出す人を見かけたヨハネは、彼が自分たちに従わないので止めさせました。サマリアの村で歓迎されなかったとき、ヨハネと兄のヤコブは「天から火を降らせて滅ぼしましょうか」と言いました。
寛容さがなく激しい性格だということが伝わります。
イエス様はこの兄弟に「ボアネルゲス(雷の子どもたち)」というあだ名をつけました。
そんなヨハネがなぜ人を愛することを教えられるのか。
お前が言う?という感じです。
私こそイエスの愛しておられた者
ヨハネによる福音書を見ると「イエスの愛しておられた者」という弟子が出てきます。
正体は明かされませんが、文脈からヨハネのことだとわかります。著者であるヨハネ自身が、福音書の中で自分のことを「イエスの愛しておられた者」と呼んでいるのです。
他の弟子たちもイエス様から愛されています。それでも、私こそイエス様から愛されているのだと言うことができる。
自己肯定感が高いというか自意識過剰というか…。
イエスの愛を受けて変えられた
このヨハネはイエス様が十字架につけられた時、母マリアのことを任されます。そしてエフェソで共に暮らしながら年老いたマリアの世話をしたと伝えられています。
ヨハネは愛の人になっていました。かつてはボアネルゲスと呼ばれた激しい性格のヨハネが愛の人に変えられました。
それは自分こそイエスに愛されている者だと胸を張って言えるほど、イエスの愛を受け取ったからです。
イエス・キリストの愛を受け取るとき、人は変えられます。
皆さんも宣言しましょう。「私はイエス様に愛されている!」
愛される資格のない者がイエスに愛された
今日の本文でイエス様は、私たちが互いに愛し合うことを命じています。
それは「わたしがあなたがたを愛したように」です。
イエス様はどのように私たちを愛されたのでしょうか。
愛する弟子から裏切られても愛を貫いた
イエス様は弟子たちと3年半、寝食を共にしました。
時間は過ぎてしまうと人間には取り返すことができません。時間を一緒に過ごすというのは、かけがえのないものを相手と共有する愛の行為です。
その愛する弟子に、イエス様は裏切られます。
もし皆さんが愛する人から裏切られたらどうしますか。信頼していた友だちが陰で自分の悪口を言っていた。夫や妻が不倫をしていた。
滅茶苦茶傷つきます。もうその人とは一緒にいられません。
復讐してやりたい気持ちも湧いてきます。
イエス様はイスカリオテのユダが裏切ることを知っていました。
ユダだけではありません。ペトロが「知らない」と言うこと、他の弟子たちも逃げ出すということを知っていました。
最後の晩餐の席で自分の周りにいる全員が、この数時間後に裏切るのです。
「お前ら俺が3年間どんだけ愛を注いだと思ってんだ」とブチ切れそうになりませんか。
イエス様はおもむろに立ち上がり、水の入ったタライを持って来ました。
そのタライをユダの頭に・・・いえ、床に置きました。
そしてイエス様は弟子たちの足を洗いました。
ホコリだらけで汚く、あるいは臭い足を、イエス様は自ら洗われたのです。
彼らがどのような者かは関係ありません。自分を裏切る者だとしても、彼らに仕えました。
人間の素直な感情では、このようなことはできません。
愛は感情ではなく、意思を持った行動です。
この人を愛すると決意したなら、病める時も健やかなるときも、最後まで愛を貫くのです。
愛することが難しい相手を愛せるか
自分によくしてくれる人を愛することは簡単です。
しかし本当に相手を愛しているかどうかが問われるのは、愛することが難しい状況になったときです。自分の素直な感情ではどうしても好きになれない相手、自分の敵のような相手さえ愛そうとするとき、私たちの愛が試されます。
イエス様が最も重要な掟の2つ目として挙げたのは、レビ記からの引用です。
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
レビ記19:18
ここで言う隣人とは誰のことでしょう。
家族や友人、近所の人など身近な人はもちろん隣人です。
それだけではありません。復讐したくなる相手や、恨めしい相手。このような愛することが難しい人こそ、この律法で言われている隣人です。
どうしてこのような人を愛せますか。
まずは私たち自身がイエス様の愛を受け取る必要があります。
罪人の私もあの人もイエスに愛されている
私たちは神を捨て、イエス様を無視して生きてきました。神様から愛される資格などありません。
それなのにイエス様は天の栄光を捨てて私たちのところに来られ、十字架で命を捨てて私たちを救い出しました。
このイエス様の愛を受け取ってください。
そうすると人に対する見方が変わります。
自分は神に愛されている者。
そしてあの人もこの人も神に愛されている者。あの野郎のためにも、イエス様は十字架で死なれたのだ。
そのことを知ると、どの人も神様の傑作品であり、尊い存在であることがわかります。
誰の隣人になるのか
誰が私の隣人ですか?
律法学者はイエス様に聞きました。そこでイエス様が語ったのはよいサマリア人のたとえ。
よいサマリア人は、長年敵対していたユダヤ人の隣人になりました。
イエス様は行ってあなたも同じようにしなさいと言います。
愛することが難しいあの人のところに行って、隣人になるのです。
皆さんは誰の隣人になりますか。
愛することが難しい相手の隣人になってみてください。
互いに愛し合うことが弟子の生き方
今日の本文でイエス様は「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 と言いました。
互いに愛し合うことが弟子の生き方です。
クリスチャンの愛はイエス様から来るので、人間の愛を超えています。だから人々は私たちが互いに愛し合う姿を見て驚きます。そして私たちがキリストの弟子であることに気づきます。
愛することがキリストの弟子である私たちのアイデンティティになります。
行って弟子とせよ
イエス様は私たちが弟子になることを求めます。ただ救われてハッピーで終わるのではなく、従う弟子になるのです。
そして弟子たちには、人々のところに行って弟子を作るようにと命じます。
18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書28:18-20
これはイエス様が天に上げられる前に話した言葉です。遺言のようなものです。
行って弟子とせよ。これは至上命令とも言われます。私たちに命じられた最大最高の命令です。
まずは私たちがイエスの愛を受け取る。すると隣人を愛する人になる。
その愛を受け取った人は私たちがキリストの弟子であることを知る。
そしてその人もまたキリストの弟子になる。
私たちが人を愛するとき、新たなキリストの弟子が生まれます。
愛を表現する
愛は表現しなければ伝わりません。心の中であの人を愛そうと決意しても、それが相手に伝わらなければ愛したことになりません。
色々な愛の表現方法があります。直接言葉で伝える。プレゼントを贈る。時間を一緒に過ごす。
相手との関係が難しいと、場合によっては警戒心を生じさせてしまうこともあります。「こいつがこんなに優しくするのはおかしい。何か裏があるんじゃないか」と。
まず私たちにできる愛の表現は、あいさつ、ほほえみ、祈りです。
笑顔であいさつをしてみてください。
それが無理でも祈りはできます。
相手の祝福を祈ってください。祈るといつか和解のチャンスが来ます。
1杯の水でも愛を表現できる
愛する相手に敬意を持つことも大事です。
私たちが相手をどのように扱うかによって、相手から受けるものが変わってきます。
相手を敵だと思っていれば、相手から敵意を受け取ります。
相手を神の傑作品だと思っていると、相手の素晴らしいところが見えてきます。そうすると愛の実践をしやすくなりますね。
はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
マタイによる福音書10:42
相手が貧しく弱い小さな者であっても、相手をキリストの弟子として扱うなら、イエス様からの恵みを受け取れます。
相手への敬意の表現は、冷たい水1杯でも大丈夫です。
1杯の水で愛を表現する。難しくないですね。やってみてください。
価なしに水を飲ませてくれる天の国
私も子どもの頃にこのような愛を経験しました。
小学校の帰りに冷たいものを飲ませてくれる場所がありました。
暑い夏の日、重たいランドセルを背負いながら帰る。
その途中にあったオアシス。
そこは誰でも入れます。冷房が効いています。
そして冷たい水が湧き出す冷水器がありました。渇いている者はだれでも価なしに飲むことができます。
私はそこが天国のように思えました。
その場所の名は、郵便局。
残念ながら教会ではありませんでしたが、冷たい水1杯を飲ませてくれる場所があれば、そこはもう天の国です。神の愛がそこに行われているのですから。
水1杯飲ませるだけでいい。小さな愛の実践をやってみてください。
私たちは人を愛する教会。誰もがここに来て休むことができる。水1杯を飲んで力づけられる。そのように人を受け入れる教会でありたいです。
私たちはイエス様の愛を受け取り、神を愛する者、自分を愛する者、そして隣人を愛する者になっていきます。
私たちは神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する教会です。