ビジョンと使命6
次世代を育てる
テモテへの手紙ニ 2:1-2
1 そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。2 そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。
新年度が始まりました。新社会人、新入学生として新生活をスタートした方々もいます。
学生たちは新しい学校に進み、色々なことを学んでいきます。新社会人も新しい職場で、色々なことを学んでいきます。
社会人になってからも学ぶことがたくさんあります。冠婚葬祭に関することやお金に関することなど、社会で生きていく上で大切なことを学んでいきます。
恋愛や結婚生活についても学んでおく必要があります。モテるテクニックを学ぶというのもあるかもしれませんが、異性への配慮を学ぶことも大事です。男性と女性で考え方が違う傾向がありますし、体の仕組みも違います。
相手の目を見て話すとか、相槌を打つとかいう話し方のテクニックがあります。私も若い頃に本を読んで勉強しました。今でも人と話すのは苦手ですが、少しはマシになったと思います。
親になってからも、私たちは色々なことを学んでいきます。子どもと接する中で自分が成長させていただいているのを感じます。
信仰においても、私たちは常に神様の言葉を聞いて学び成長していきます。
そう考えると、人生は学びの連続です。
そして学ぶことがあるということは、それを教える人がいるということです。
その教える人も、学んできたことを教えます。
学び、教え、学び、教える。このような教育のバトン、教師のバトンが受け継がれてきました。
今日は教会のビジョンと使命の6つ目「若者たち、子どもたちが健全な人生を歩めるよう、信仰を継承していく。」です。
私たちは教会の中で一致し、地域に調和していく。そして世界に向けて、次世代に向けて宣教していきます。
今日は次世代を育てることについて見ていきます。
信仰の子を育てる
今日の本文はパウロがテモテにあてて送った手紙です。
パウロはテモテのことを「わたしの子」と呼んでいます。
ああ、親子なんですね。
いやいや、使徒言行録を読んできましたから、そうではないとわかりますよね。テモテのお父さんはギリシア人です。それにパウロは独身でした。
テモテはパウロの子どもではなく、弟子です。「わたしの子」と呼んでいるのは、信仰の子どもだということです。
世を去る時が近づいたパウロが、信仰の子テモテに信仰のバトンを渡す。それがこのテモテへの手紙だと言えます。
受け継がれてきた信仰のバトン
聖書を見てみると信仰のバトンが世代を超えて受け継がれてきたことがわかります。
神様はアブラハムを選び、祝福を約束しました。その祝福が子のイサク、孫のヤコブへと受け継がれていきます。
モーセを通してイスラエルの第1世代が救い出され、ヨシュアたち第2世代が約束の地カナンに入りました。
第2世代に向けて書かれた申命記には、教育の大切さが教えられています。
6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
申命記6:6-7
イエス様も弟子たちを選び、彼らを教育しました。
こうして信仰のバトンが受け継がれています。
聖書はモーセの時代から新約の時代まで1500年間に渡って書かれてきました。先月、死海写本の新しい断片が見つかったというニュースがありました。ゼカリヤ書の断片も見つかっています。聖書の存在そのものが、イスラエルの民が確かに信仰のバトンを受け継いできた証拠です。
そして現代に至るまで、世界の東の果ての島国に住む私たちのところにまで信仰のバトンが受け継がれてきました。
神様は信仰のバトンを次世代に送ること、次世代を育てることを願っています。
1人の信仰の子を生み出すことを願う
だから私たちも次世代を育てることを願っていきましょう。それが主の御心です。
自分には子どもがいないから関係ないと思わないでください。自分の子どもは既に信仰があるから大丈夫という人もいるかもしれません。
そういう人も、信仰の子どもを育てていってほしいです。若者たちや子どもたちを、信仰の子どもとして一緒に育てていってほしいのです。
難しく考える必要はありません。たとえば青年たちを連れてどこかに遊びに行くとかでもいいです。
青年たちもぜひ子どもたちと関わってほしいです。コロナの前に子どもたちとドッジボールや人狼ゲームをしていてよかったですね。一緒に遊ぶのが難しかったら、礼拝のときに小中学生に隣に座ってもらうのもいいです。
学校の友だちや職場の同僚が信仰の子になることもあります。
自分が卒業したり退職したら、学校や職場でクリスチャンが絶滅してしまうということもあるかもしれません。
1人でもいいです。信仰の子が与えられるように願いましょう。
スコットランドのある教会で、年をとった牧師がクビになりました。実がないからです。役員が聞きます。「あなたの在任中に洗礼を受けたのは何人でしたか?」「1人です。」
失意の中で教会を去る牧師に、一人の若者が声をかけました。「先生、ぼくは宣教師になるよ!」この牧師によるただ1人の受洗者です。
この若者の名前はロバート・モファットと言います。彼は後にアフリカ宣教に行きました。そしてアフリカのある地域に住む全ての民族を救いに導きました。
モファット宣教師の娘はデイビッドという若者と結婚しました。デイビッドも義理の父の影響でアフリカに医療宣教に行きます。彼はアフリカ探検で知られるデイビッド・リビングストンです。
さらにモファット宣教師の伝記を呼み、ランバスという少年が感銘を受けました。彼も中国や日本で宣教し、関西学院大学を設立しました。
スコットランドの牧師は信仰の子を1人しか生み出せませんでした。
しかし1人でも命の言葉を伝えるとき、そこから多くの命が生み出されていきます。
人を育てるのは愛
次世代を育てるというのは難しいことです。子育てや、後輩に何かを教えた経験がある人はわかると思います。
教育とは何でしょうか。
ある人は、自分の理想の枠に押し込めることが教育だと考えます。親の言いなりになる従順な子ども。学校という集団のルールに従う子ども。
集団に従わせるために多様性は認めず、個人を集団の中の1つの部分であるかのように扱います。部分に過ぎないのだから、理想の枠に押し込むために暴力を振るったり人格を否定したりして矯正します。
教育学者のデューイは、教育とは子どもの可能性を引き出すための環境を整えることだと考えました。そして子どもたちが自発的に考え行動すること、そして実際の体験の中で自ら発見することを重視しました。
大きな可能性を秘めた一人の存在として、子どもを扱うのです。
ムチの正しい使い方
箴言の中に、子を愛する親は子どもをムチで打つという言葉があります。
聖書は子どもをムチで打つことを命じているではないか。そう思う方もいるかもしれません。
このムチと訳されている言葉はヘブライ語でシェイベットと言います。
シェイベットは杖と訳すこともできます。詩編23編に出てくるような、羊飼いの杖です。
羊飼いの杖は傘の持つところのように曲がっています。迷い出た羊を滅びから救い出すための杖です。
そして狼や熊と戦います。
この杖で羊を叩き、過酷に力づくで群れを支配するような羊飼いは、偽物の羊飼いです。
子を愛する親は、子どもが間違った方に行ってしまわないように守ります。もし間違ったことをすれば、教え諭します。そして悪影響を与えるものを遠ざけます。
聖書は決して体罰を推奨するものではありません。
イエスが示した神の愛で強くなりなさい
パウロはテモテに「あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」と言っています。イエス・キリストが示した恵み、神の愛で強くなりなさいということです。
人を育てるのは、愛です。
痛い目にあわせてダメなことを教えたり、誰かと比較して恥ずかしい思いをさせたりする教育方法もあります。
そういう恐れや恥では、表面上はいい子になります。しかし恐れや恥を回避するずる賢い人間が育つだけです。
自分が愛されているという安心感を持つとき、愛してくれる方を悲しませるようなことはできなくなるし、安心して歩み出すことができるようになります。
愛しすぎると依存してよくないと思われるかもしれません。
むしろ愛されている確信があるからこそ、失敗を恐れず挑戦ができます。親元を離れて生きていけます。
天のお父さんは独り子イエスに言いました。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
マルコによる福音書1:11
この言葉を受けて、イエスの公の生涯が始まりました。
そして十字架の死に至るまで神に従います。
従わないとお父さんに叱られる!という恐れとか、従えなかったらメシアとして失格だという恥の思いで従ったのではありません。
完全な愛の関係があったからこそ、イエスは自分の使命を果たしました。
次世代の若者たちや子どもたちは、大きな可能性を秘めています。
足りないところも見えてきますね。それは欠点なのではなく、可能性だと思ってください。
その可能性を引き出すのが大人の役割。そしてその可能性は愛によって引き出されていきます。
若者たち、子どもたちに愛を表していきましょう。
また、神を愛し、隣人を愛する模範を示していきましょう。私たちが礼拝する姿を、次世代が見ています。
教会は愛によって造り上げられていきます。
自分の頭で考え行動する
パウロは「多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」と言っています。
パウロからテモテへ、そしてテモテから忠実な人へ、忠実な人からほかの人々へ信仰のバトンが受け継がれていきます。
忠実な人とはどのような人でしょうか。
信仰のバトンを受け取ったら、次の人に渡せる人です。
自分の任されたことについて責任を持てる人だと言えます。
ロボットは命令を忠実に実行します。何かを作れと言われれば作ります。計算しろと言われたら文句を言わずに計算します。面倒くさいとかやりたくないとか言いません。
それなら私たちも、信仰のバトンを受け取ったのだから文句を言わずに次の人に渡せばいいのでしょうか。
しかし私たちは人間です。ロボットではありません。
そして神様は人間に、自由意思を与えてしまいました。人間は自分の頭で考え、選択し、行動します。
信仰のバトンを渡さないという選択も、受け取らないという選択もできてしまいます。
それでも神の命令に忠実に従うために、無理やりにでも子どもたちに信仰のバトンを押し付けるべきでしょうか。
どう受け取るかは自由
預言者エリヤにはエリシャという信仰の子がいました。
エリヤはエリシャを弟子にするとき、自分の着ていたコートを黙ってエリシャに投げかけました。
それを受け取ったエリシャは、牛を捨ててエリシャの後を追います。そして「両親に別れの挨拶をさせてください。それからあなたに従います。」と言いました。
エリヤは、両親を捨てて私に従いなさい!とは言いませんでした。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と答えたのです。
好きにしなさいという感じです。
確かにエリヤはコートを投げかけただけですからね。
それをどう受け取るかはエリシャの自由です。
考え、悩み、選び取ることで次世代が育つ
子どもたちには自分の頭で考え、選択し、行動する力があります。そしてその自由があります。
考える機会、悩む時間を奪ってはいけません。
信仰のある親は、子どもたちも同じ信仰を持ってほしいと願うでしょう。
しかし信仰を強制させたら、自分の信仰にはなりません。押さえつけられた反動で、いつか信仰を捨てます。
プロの卓球選手に英田(あいだ)理志(さとし)選手がいます。クリスチャンであることを公言しています。
彼のお父さんはSDA藤枝教会の英田先生。英田先生も卓球の選手でした。
スポーツの試合は土日に行われることが多いですね。
英田先生は学生時代に信仰か卓球か悩みました。それで礼拝を優先することを選びました。
そんな父の姿を見て、理志さんも卓球をするようになりました。
卓球の日程と礼拝が重なるときには、お父さんのように礼拝を優先していました。
しかし理志さんが高校生の時に、試合にも出たいという思いが強くなりました。
そのとき英田先生は、理志さんと一緒に悩みました。一緒に御言葉に聞き、祈りました。
そして理志さんは、卓球という賜物を神様のためにささげることも礼拝だと思い、試合に出ると決断をしました。
英田先生とは違う決断です。しかし英田先生は、息子が自分で悩みぬいて決断したことを尊重しました。
こうして信仰を公言するプロの卓球選手が誕生しました。
【卓球】オールラウンダーなクリスチャン、英田理志。 「ぼくを選んでほしいですね。ぼくは必ず活躍しますから」
自由を任されたエリシャは、エリヤが天に上げられるときにエリヤの2倍の霊を求めました。
自らが選び取ることで、その道を真剣に歩みます。
責任ある信仰者が育ちます。
前の世代を超えていくことをも願うようになります。
自分たちの世代より、次世代には素晴らしい信仰者が育っていくのです。
信仰の子を育てることで、次の世代には世界はよりよくなっていくでしょう。