死の力を破る神の言葉

エゼキエル書講解47

死の力を破る神の言葉

エゼキエル書 37:1-14

1 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。3 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」4 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」7 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。8 わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。9 主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」10 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。11 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。12 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

枯れかけたサルビアの復活

 教会の入り口に赤いサルビアの鉢が置いてあります。これは義母からいただいたものです。
 7月くらいにサルビアとマリーゴールドをいただきました。マリーゴールドの方は既に花がたくさん咲いていて、サルビアもつぼみがついていました。
 浜松に持って帰って来てから、花がどんどん咲き始めました。よかった。またお義母さんが来たときに見てもらおう。
 そう安心していたところ、急に枯れ始めてしまいました。
 猛暑のせいかと思って日陰に置きましたが、もう手遅れです。あっという間にマリーゴールドは枯れ果ててしまいました。
 サルビアはまだ生き残り、花が咲き始めていました。ところがサルビアも葉が枯れ、落ち始めてしまいました。そして茎だけの状態になってしまいました。
 もう枯れ果てる寸前です。お相撲さんのように豊かだった人が骨だけになってしまったかのようです。絶望的です。
 もう花は咲かないだろう。枯れるのは時間の問題か。そして、お義母さんに合わせる顔がないな。あんな立派な鉢植えをいただいておいて、こんなにすぐ枯らしてしまうなんてあり得ない。やばい。妻の実家との関係が悪化する危険性もある。
 もうダメかと思ったとき、ふと落ちたサルビアの葉っぱを見ると、裏側に小さい虫がついています。ダニだ!
 調べてみると、ハダニという種類のようです。葉の裏側にくっつき、そこから養分を吸い取ってしまいます。繁殖力が強く、大量発生すると花を咲かせなくさせ、ひどいときは枯らしてしまうそうです。症状が完全に一致しています。
 ハダニは湿気に弱く、霧吹きなどで簡単に駆除できるということを知りました。それから毎日霧吹きをするようにしました。
 相変わらず茎だけでしたが、枯れ果てはしませんでした。
 その状態が1ヶ月ほど続いたとき、ようやく小さな葉っぱが出てきました。それから次々に葉っぱが茂ってきました。
 そして10月に入って、また花を咲かせてくれました。

 もうダメだという絶望的な状況でも希望があります。
 私たちの人生には絶望の谷底に落とされたようなときもありますが、主はそこにも共にいて、聖霊の力で立ち上がらせます。
 神の言葉は、死の力も打ち破ります。

枯れた骨の復活

 今日の本文は枯れた骨の復活です。
 主の霊はエゼキエルを枯れた骨の谷に連れて行きました。
 御言葉が語られるとき、骨に肉が付き、霊の力で立ち上がりました。

枯れた骨

 まず今日の本文の1節から3節で『1 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。3 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」』 とあります。
 私たちは枯れた骨のように絶望の谷底にいることがありますが、主はそこに共にいます。

絶望の谷底

ドレ「枯れた骨の谷の幻」

 主の霊がエゼキエルをある谷に連れて行きました。
 8章から11章でも主の霊に髪の毛をつかまれ、幻の中でエルサレムに行く話がありました。今回も幻でしょう。
 その谷には枯れた骨がいっぱいでした。

 そもそも谷というのは暗いところですね。太陽の光が届きにくいところです。
 また谷はゴミ捨て場のようにも使われていました。
 エルサレムの南には陶片の門というのがあり、その外にはトフェトとかベンヒノムの谷と呼ばれる谷がありました。
 そこはゴミ捨て場になっていて、灰や割れた陶器を捨てていました。
 エレミヤ書31章ではこの谷のことを死体と灰の谷と呼んでいます。事情があって墓に葬られない人の死体もその谷に置かれたのでしょうか。
 ユダヤ人にとって谷というものはかなり暗いイメージだというのがわかります。

 日本語も「人生山あり谷あり」という表現があります。山とは幸せなときのこと。谷というのは不幸なときのことです。
 私たちの中にもそういうつらいところを通らされている人がいるかもしれません。
 仕事や勉強、人間関係、健康や経済、うまく行かず、希望が見えない。
 人生の中では絶望の谷底に突き落とされてしまったように感じることがあります。

殺された者たち

 主は9節で、これらの骨が殺された者たちの骨だと言っています。彼らには敵がいたのです。
 エゼキエルたち自身、バビロンによって捕囚にされ、とうとう国も滅んでしまいました。バビロン、そしてネブカドネザル王という強大な敵がいました。彼らによって、エルサレムに残した家族も殺されてしまったかもしれません。

 私たちの人生の中で、目の前に立ちはだかる大きな問題が私たちを絶望の谷底に突き落とします。
 恐れや不安によって谷底に転がり落ちることもあります。
 サタンが私たちの弱みにつけこみ、希望を奪い、立ち上がれなくさせることもあります。
 そして人間関係の中でも、誰かの冷たい一言、無関心によって生きる力を奪われることもあります。
 この世界が私たちを殺そうとします。
 捨てられ、放置され、枯れた骨になっていくのです。

生き返ることができるか

 主はエゼキエルに問いました。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」
 エゼキエルは即答します。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」
 エゼキエルは明確に答えるのを避けました。わからなかったのでしょうか。いいえ、答えるまでもないということです。
 当たり前でしょう。骨が生き返ることがあり得ますか。
 サンマを頭からしっぽまできれいに食べた後、骨を塩水につけたら、また泳ぎ出した。しばらくエサをあげたらまた肉がついてきたので釣って食べた。そんなことができたらいいですよね。
 あり得ないんです。骨が生き返るなんて。
 もう無理。もう希望がない。生きていけない。
 人の子、つまり人間にはそういう力の及ばないところ、無理なところがあるのです。

 去年、日本の自殺者数は警察の公式発表では約21,000人でした。
 1日当たりだいたい60人です。24分に1人です。
 日本のどこかで、24分に1人が、生きるという選択肢を諦めています。
 これは明確に自殺だと言えるケースだけです。実際はもっと多いでしょう。
 さらに15歳から39歳までで見ると、死因の1位が自殺です。20代では、亡くなった方の半分が自殺です。
 今朝のニュースでは、去年小学生から高校生までで自殺した子が250人いて、過去30年で最多になりました。
 次世代を担う若者たちが、自ら命を絶たなければならないのがこの国です。
 20代で亡くなった人のうち半分は、死ななくてもよかったのに死を選ぶしかなかった人たちです。
 希望がない国になってしまいました。
 誰かが彼らを死に追いやっています。
 それは私たちの無関心かもしれません。
 私たちの周りにも、もしかすると自死を選んだ人がいるかもしれません。
 私も親戚と職場の元同僚に自死した方がいます。どちらも若く、まじめで素晴らしい人でした。しかし人間関係で悩み、死を選びました。

 主はエゼキエルに、人の子よと呼びかけます。
 私たちは人の子です。人の子には、この絶望の谷底で立ち上がる力がありません。枯れた骨のように絶望した人を立ち上がらせる力はありません。
 しかし主に不可能はありません。
 私たちと同じ人の子であり神の子であるイエス・キリストは墓に下りましたが、そこから再び立ち上がりました。
 これだけは忘れてはいけません。
 私たちがどんな絶望の谷底にいるとしても、イエス・キリストは共にいます。

聖霊の力

 次に今日の本文の4節から10節に『4 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」7 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。8 わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。9 主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」10 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。』 とあります。
 聖霊が私たちを立たせます。

肉がつく

 主はエゼキエルに、骨に向かって預言しなさいと言います。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と。
 また主はおかしなことを言っていますね。骨に命令する人がいますか。
 牛の骨を煮込むとき、おいしくなれ!と命じたらおいしいスープができるのでしょうか。骨に耳はありません。
 ところがエゼキエルが命じられたように預言していると、カタカタと音がしました。

 神の言葉が宣言されるとき、それは現実になります。
 荒れ狂う海に黙れ静まれと言えば静かになる。山も動く。そして無から有を創造します。
 エゼキエルが預言すると、骨がカタカタと動き、くっつき始めました。骨の上に筋肉が生じ、皮膚が覆いました。
 人間の形になったのです。

 これで生き返ったと言っていいでしょうか。
 いいえ、これは死体と同じです。
 フランケンシュタイン博士の造った人造人間のように、骨の上に肉をつけただけで生き返ったら恐いですね。

霊が入る

 人が生きるために忘れてはならない重要なポイントがあります。

 次に主は、霊に向かって預言せよと言いました。
 すると霊が風のように吹いてきて、死体の中に入っていきました。
 そのとき彼らは生き返り、自分の足で立ち上がりました。

 人の生と死を区別する重要なポイントは、霊があるかどうかです。
 キリストの十字架上の最後の言葉は、「父よ、わたしの霊をあなたの御手に委ねます」でした。そして息を引き取ったと書いてあります。
 霊、そして息というのが大事です。
 特に神の霊、神の息です。

 神は6日目に地上の動物と人を造りました。動物と人間は区別されて造られました。
 人間が他の被造物と明確に違うのは、人間には神の息が入れられたということです。
 この息という言葉は、ヘブライ語では霊と同じルーアハという単語です。
 人は神の霊、聖霊によって本当に生きる者になります。
 逆に言えば、聖霊がなければ人は霊的に死んでいるのです。

自分の足で立つ

 エゼキエルの召命のときに立ち上がらせたのも神の霊でした。
 神の霊によって、人は自分の足で立つことができます。
 自分の力では絶望するしかない状況でも、神の霊は立つ力を与えます。
 聖霊に操られるのでもなく、自分の足で立ちます。
 今までの人生、能力、経験の全てが失敗でもなく無駄でもなく、新たに立つ力へと変えられます。

 私たちが御言葉に従うとき、神の霊が共に働きます。
 聖霊は人をどう用いるかを知っています。
 私たちは聖霊の力で立ち上がり、他の人と共に大きな集団となって立ち上がります。

墓を開く

 最後に今日の本文の11節から14節に『11 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。12 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。』 とあります。

墓に向かい命じる神

 絶望の谷底にいる人にとって、慰めの言葉は聞きたくないものかもしれません。
 枯れた骨のようになり、生きる望みを失ってしまった。そこで神の約束の言葉を聞いても、目の前の現実がすぐに変わるわけではありません。

 アブラハムは神から、大いなる国民の父になると約束されました。
 しかしこのとき75歳のアブラハムに子はいません。自分も妻も既に子を産めない年齢になっています。
 神の言葉が宣言されたら現実になる。とは言っても子どもがすぐに生まれるわけではありません。
 10ヶ月待っても生まれない。1年経っても2年経っても生まれない。
 数年後、家畜の子たちはたくさん生まれましたが、アブラハムの子はまだ生まれません。
 そこでアブラハムは、しもべのエリエゼルに跡を継いでもらおうかと考えました。
 すると神は再びアブラハムに語ります。

4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

創世記15:4-5

 神は繰り返し約束の言葉を語ります。
 そして、跡を継ぐのはしもべではなく、アブラハム自身の子なのだと明確に語ります。
 目の前の現実は変わりません。まだ子どもはいません。
 それでも神の言葉を聞き続ける時に、見えない事実を確信するようになります。

 イスラエルの全家が捕囚となり、枯れた骨のようになっている現実は変わりません。
 しかし神は、絶望の谷底に向かって声をかけ続けます。
 墓に向かって神の言葉を宣言します。
 その言葉を聞き続ける時、目に見える現実を超えた真理を見出します。

墓を開く神

 アブラハムは星を数えたでしょうか。
 現代なら1つ、2つ、…と数えるかもしれません。
 数千年前の人は星を数えようと思わなかったでしょう。あまりにも多いからです。
 「あなたの子孫はこのようになる」それは計り知れないほど大きな祝福の約束です。

 今はまだ子どもが1人もいないのに、そこから子孫がどうやって空の星のように増えることができるのだろう。
 具体的にどうなるのか、人間の頭では理解できません。
 それでも神がそう言うなら、そうなるのです。
 神は命の神ですから。

ピエロ・デラ・フランチェスカ「キリストの復活」

 神は墓を開くと言います。
 生きる望みを失った枯れた骨に新しい命を与えます。
 どうやってそれが実現するのだろう。具体的にはわかりません。
 しかし前例がないわけではありません。
 イエス・キリストは十字架で死んで墓に葬られました。
 それが3日目に新しい命をもって復活しました。
 命の神は、イエス・キリストを信じる者に新しい命を与えます。

帰らせる

 主はイスラエルの民を自分たちの土地に住まわせると語ります。
 これが実現するのは捕囚になってから70年後のことでした。

 アブラハムに息子イサクが生まれたのは100歳の時。約束が与えられてから25年後でした。
 長い時間はかかりましたが、約束は実現しました。

 神の約束の言葉を握り続けてください。
 目の前の現実が変わらなくても、神の言葉は真実です。
 自分の世代では約束の実現を目撃できないかもしれません。
 それでもこの希望は失望に終わりません。
 神様が定めた時に必ず実現する神の約束を待ち続けてください。

見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

ハバクク書2:4

 この世が私たちから生きる希望を奪い、絶望の谷底に突き落とすことがあっても、私たちは枯れ果てません。
 そのどん底にもイエス・キリストが共にいます。
 そして神の息吹、聖霊によって私たちを生かすからです。

 「霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
 御言葉を聞き続け、復活の主と共に新しい命をもって生きていきましょう。
 そして共に立ち上がり、絶望の谷底にいる人々に御言葉を届けるのです。

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