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炭火を都の上に

エゼキエル書講解13

炭火を都の上に

エゼキエル書 10:1-4,12-14

1 わたしが見ていると、ケルビムの頭上の大空の上に、サファイアの石のようで、形は王座のように見えるものがあるではないか。それはケルビムの上に見えた。2 主は亜麻布をまとった者に向かって言われた。「ケルビムの下の回転するものの間に入れ。そして、ケルビムの間にある燃える炭火を両手に満たし、それを都の上にまき散らせ」と。彼は、わたしの目の前で入って行った。3 その人が入って行ったとき、ケルビムは神殿の南側に止まっており、雲が中庭を満たしていた。4 主の栄光はケルビムの上から立ち上がり、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、庭は主の栄光の輝きで満たされた。

12 ケルビムの全身、すなわち、背中、両手、翼と、車輪にはその周囲一面に目がつけられていた。ケルビムの車輪は四つともそうであった。13 それらの車輪は「回転するもの」と呼ばれているのが、わたしの耳に聞こえた。14 ケルビムにはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、そして第四の顔は鷲の顔であった。

熱によって悪いものと戦う人体

 この時期は風邪が流行りやすいです。お気を付けください。
 先週は息子も熱が出ました。食欲は相変わらずあったので、寝たら元気になりました。
 しかし子どもが熱を出してぐったりしているのを見るのは辛いですね。つい熱を下げて楽にしてあげたいという思いが出てきます。
 しかし熱そのものが悪いのではありません。体が熱を出すのはウィルスと戦っている証拠です。のどなどから侵入してきたウイルスに対して、体は抗体を作ります。その抗体を作る間に熱を出してウイルスの活動を抑えます。熱が出すぎるのも危ないですが、熱を下げすぎてウイルスが増えてしまうのも危ないです。ウイルスが脳まで入って脳炎になってしまうと大変です。と小児科の先生が言っていました。
 私はそれを聞きながら、人間の体は本当によくできているなと感動しました。このような免疫システムを造られた主は本当に素晴らしいお方です。熱によって悪いものの働きを抑えます。
 主はこの世の悪に対しても、火をもって戦います。天からの火でこの世の悪を焼き払うのです。

炭火を都の上にまき散らせ

 今日の本文はエゼキエルが捕囚になって6年目の6月5日、エルサレムの幻の続きです。
 エルサレムの中であらゆる忌まわしいことが行われていました。エルサレムの住民は破壊する者たちによって打ち殺されてしまいます。しかしその中で主と共に嘆く者には、亜麻布を着た者が額に印をつけていました。破壊する者は印を見て過越していきました。
 主は亜麻布を着た者に、ケルビムの間から炭火を取って都の上にまき散らせと命じます。炭火は破壊力を持った炎とは違います。その熱は悪を焼き払い、新しい命を生み出す温かさを持っています。
 神殿は雲に覆われました。雲は神の臨在を象徴します。神の臨在に出会う時、私たちは栄光から栄光へと変えられていきます。
 そこにはケルビムがいました。聖所にある像ではなく、霊としてのケルビムです。その姿は創造主の素晴らしさを反映していました。
 神が願っていることは私たちを滅ぼすことではありません。悪を焼き払い、新しい命に生きてほしいと願っています。そして栄光から栄光へと変えられ、神の栄光を表す者であってほしいと願っています。
 今日の本文を通して私たちの悪を焼き、私たちと共におられ、私たちを素晴らしいものとして造られた主に出会う私たちになることを期待します。

ケルビムと火

 まず今日の本文の1節2節で『1 わたしが見ていると、ケルビムの頭上の大空の上に、サファイアの石のようで、形は王座のように見えるものがあるではないか。それはケルビムの上に見えた。2 主は亜麻布をまとった者に向かって言われた。「ケルビムの下の回転するものの間に入れ。そして、ケルビムの間にある燃える炭火を両手に満たし、それを都の上にまき散らせ」と。彼は、わたしの目の前で入って行った。』 とあります。
 主は私たちの悪を焼き払います。

エデンの東

 エゼキエルはエルサレムの幻の中でケルビムに出会います。それは聖所の中に置かれた像ではなく、本物のケルビム、霊としてのケルビムでした。
 聖書の中にはケルビムが出てくる箇所が何か所かあります。ケルビムが出てくるときにはよく火が関わっています。

10 主は天を傾けて降り/密雲を足もとに従え 11 ケルビムを駆って飛び/風の翼に乗って現れる。12 周りに闇を置き/暗い雨雲、立ち込める霧を幕屋とされる。13 御前の輝きの中から炭火が燃え上がる。

サムエル記下22:10-13

 主は密雲を足もとに従えて来る。まるで馬車に乗るように、ケルビムがその先を飛ぶ。主の御前には炭火が燃えています。
 今日の本文で大空に王座のようなものが見えていますが、そこには王座だけがあり、主の姿は見えません。主はケルビムと共に神殿に来ています。そしてケルビムの下には燃える炭火の入った車輪があります。
 ケルビムが最初に出てくるのは創世記3章です。

こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

創世記3:24

 罪を犯したアダムはエデンの園から追放されてしまいました。主はエデンの東にケルビムときらめく剣の炎を置き、人が近づけないようにしました。
 ケルビムというのも不思議な存在ですが、火というものも不思議ですね。
 火とは何でしょうか。私たちの日常の中にある物質はだいたい固体、液体、気体に分類することができます。土は固体、水は液体、空気は気体です。火はそのどれとも違うような気がします。
 昔の人はこの土、水、空気、火をこの世界の四大元素だと考えていました。これは科学的な考えではなく、哲学的なものです。
 化学では物質が酸素と急激に結びつく反応を燃焼といいますが、燃焼中に発生するものが火です。燃えるものと酸素と、それを結びつけるエネルギーがあれば火が起こります。
 しかし地球上の普通の環境では、火を起こすには温度が低すぎます。落雷や火山の噴火のような大きなエネルギーを持った災害でも起こらない限り、自然に火が起こることはありません。
 ですから火というのは恐ろしいもの、神秘的なものでした。ゾロアスター教や日本の秋葉神社のように火を神として崇める宗教も多くあります。神格化しないとしても火は宗教儀式に欠かせないものです。
 主がエデンの東にケルビムと共に置いたきらめく炎の剣は、神が人間の近づくことのできない超越した存在であることを示していました。

火の雨を降らせる

 主は火を天から降らせます。
 ヤコブとヨハネはサマリアの町に行ったとき、天から火を降らせましょうかと言いました。これはかつて主がなさったことをふまえた発言でした。
 主は罪によって汚れたソドムとゴモラの町を、天からの硫黄の火で焼き滅ぼしてしまいました。火による裁きです。
 黙示録においても7番目の封印が開かれたとき、天使が香炉に火を満たして地上に投げつけます。
 火というのは恐ろしい破壊力を持っています。火は一度着火してしまうと、そのエネルギーによって周りの燃えるものに燃え広がっていきます。燃え上がった炎は簡単に制御することができません。タバコのような小さな火種が大きな森を焼き尽くしてしまうこともあります。火事によって生活を破壊されてしまうこともあります。火は戦争の道具としても利用されてきました。
 都に火がまかれるなら、忌まわしいことをしていた者たちは焼き尽くされてしまうでしょう。
 実際にバビロンのネブカドネザル王はエルサレムに火を放ち、神殿も家屋も焼き滅ぼしてしまいました。

不義を焼き払う

 亜麻布を着た人はケルビムの間から燃える炭火を取り出しました。
 火は確かに恐ろしいものですが、それを制御できれば多くの恩恵を受けることができます。
 火は私たちを暗闇から解放する灯火になります。また体を温める暖房になります。そして火を通すことによってごはんをおいしく食べることができます。
 特に火を使って調理ができるということは偉大なことです。動物の肉の中には寄生虫が住んでいることがあります。しかし焼くことで寄生虫を殺し、安全に食べることができます。また米、麦、豆、イモ、トウモロコシなどは、生のままでは硬くて食べられませんし、消化できなくてお腹を壊します。しかし水と一緒に加熱することで、ふっくらおいしく食べることができます。そして体や脳に効率よくエネルギーを送ることができるのです。パスカルは「人間は考える葦である」と言いましたが、その考える力は加熱したごはんから来ているのです。いつも教会のおいしいごはんを準備してくださっている方たちに感謝ですね。
 その他にも火によって粘土を焼いて土器にし、青銅や鉄の加工を可能にしました。火を制御することで、人間は人間らしく生きられるようになったと言ってもいいでしょう。
 火を制御できるようにした典型的な例が、炭です。激しい炎は出さなくても、火を消さずに保つことができます。炭火は私たちを破壊する火ではなく、私たちを生かす火だと言えます。
 イザヤは主の栄光を見たとき、死ぬと思いました。口先だけで主を愛さない、汚れた唇の民だからです。するとセラフィムの1人が炭火を持ってきました。

彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

イザヤ書6:7

 セラフィムは火によってイザヤを滅ぼすことはしませんでした。彼が炭火で焼き滅ぼしたのは、イザヤの罪です。
 今日の本文で主はエルサレムの上に炭火をまこうとしています。あらゆる忌まわしいことを行って汚れた都は炭火によって焼かれます。それは滅ぼすためではなく、清めるためです。
 主が願っていることは破壊ではありません。体に熱が出るのはウィルスを殺して人を生かすためです。森は燃えた後に新しい芽を出して再生します。
 イエス・キリストは十字架で死にました。父なる神様はイエス・キリストを新しい命をもって復活させました。
 それは私たちの罪をも滅ぼし、新しい命に生かすためです。
 主は私たちの不義を焼き払い、新しい命に生きる者になることを願っています。

雲に覆われる

 また今日の本文の3節4節で『3 その人が入って行ったとき、ケルビムは神殿の南側に止まっており、雲が中庭を満たしていた。4 主の栄光はケルビムの上から立ち上がり、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、庭は主の栄光の輝きで満たされた。』 とあります。
 主は私たちの間に臨在されます。

臨在の幕屋

 亜麻布を着た人がケルビムの下の回転するものの中に入って行ったとき、ケルビムは神殿の南側にいました。そして雲が中庭を満たしていました。主の栄光がケルビムの上から神殿の敷居に移動すると、雲は神殿を満たしました。
 雲が神殿を満たすというのは、ソロモンの時代にもありました。ソロモンが神殿と全ての備品の製作を終えたとき、雲が神殿を満たしました。
 この雲は神の臨在を象徴するものです。イスラエルの民は雲に導かれて荒野を旅しました。エジプトを出るときに民とエジプト軍の間に雲が立ちはだかり守りました。雲が動くときに民も動き、雲が止まるときに民も止まりました。
 荒野の生活は、昼は灼熱、夜は極寒の過酷な環境です。しかし昼は雲が影を作り、夜は火の雲が温めました。
 モーセが臨在の幕屋を建てたときも、雲が幕屋を満たしました。モーセはそこで主と親しく語り合いました。

変ぼうの山

 これは旧約時代だけの話ではありません。
 イエス・キリストは3人の弟子を連れて高い山に登りました。そこでイエス・キリストは栄光の姿に変わりました。弟子たちはそこで雲に包まれ、主の声を聞きました。
 このように雲の中で主の臨在が現れる場面が出てきます。神秘的なものとして雲が出てきます。
 雲は色々と想像力をかき立ててくれます。時々、雲を見ながらイエス・キリストに出会ったと言う人がいます。確かに雲が人の形や顔のように見えることもありますね。
 イエス・キリストはやがて再び雲に乗って来られます。
 雲を見ながら、これは再臨のしるしだ!などと思ってはいけません。雲によって主が新しい啓示を伝えているわけではありません。私は雲を見ながら、から揚げが見えます。主は私にから揚げを食べなさいと命じているのでしょうか。
 雲の中に主の臨在が現れるというのは、そういうことではありません。

栄光の主が来られる

 変ぼうの山で弟子たちが出会ったように、私たちは主の臨在の中で栄光の主に出会います。イエス・キリストをありのままに見ます。
 イエス・キリストに出会うと、鏡のように主の栄光を反映することになります。そして栄光から栄光へと、主の似姿に変えられていきます。
 主が臨在されるなら、私たちはもはや形式的な礼拝をささげられなくなります。
 神殿が雲で覆われたときも、祭司たちは奉仕を続けられませんでした。モーセのようにありのままで主と語り合う、真実な礼拝が捧げられるからです。
 今日の本文の前の箇所で、神殿は殺された者たちの死体で汚されていました。しかし主は炭火によって汚れを焼き払います。そして再び神殿に臨在します。
 主は今日もこの場に臨在しています。雲は満ちていませんが、私たちと共におられます。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

マタイによる福音書18:20

 私たちが集まるとき、イエス・キリストは共にいると約束しました。
 クリスチャンが集まるどこにおいても、主の臨在を見ることができます。
 職場でも学校でも家庭でもこの町の中でも、私たちが主の栄光を現わすとき、主は今も生きておられ、私たちと共におられることを知ることができます。
 主は今日も私たちの間に臨在し、栄光を現わすものになることを願っています。

神の栄光を表す生き物

 最後に今日の本文の12節から14節で『12 ケルビムの全身、すなわち、背中、両手、翼と、車輪にはその周囲一面に目がつけられていた。ケルビムの車輪は四つともそうであった。13 それらの車輪は「回転するもの」と呼ばれているのが、わたしの耳に聞こえた。14 ケルビムにはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、そして第四の顔は鷲の顔であった。』 とあります。
 主の栄光はその被造物を通して現されます。

多くの目

 エゼキエルはそこにいる生き物がケルビムであると分かりました。どうしてこの生き物がケルビムだと分かったのかはわかりません。とにかく何らかの理由で、神殿の南側にいる生き物がケルビムだと思ったわけです。
 それは壁に掘られた絵でも、人の手で作った像でもありません。主の造られた御使いとしてのケルビムでした。本物です。
 エゼキエルはその本物のケルビムを観察しました。よく見てみると、ケルビムの全身にも車輪にも多くの目がついています。これで周囲一面を見渡すことができそうです。主はよく見ているということです。
 エルサレムの長老たちは「主は我々をご覧にならない。主はこの地を見捨てられた」などと言いながら、隠れた部屋で偶像を礼拝していました。
 主が見捨てたのではありません。主は私たちを見守っていてくださいます。
 むしろ私たちが主を捨てたのです。私たちは主から離れて行きました。
 それでも主は見捨てていません。
 たとえ隠れたところで罪を犯したとしても、主は見ておられ、心を痛めています。そしてこの忌まわしい世界を見ながら密かに嘆いている人たちのことも、主は見ています。

4つの顔

 さらによく見てみると、ケルビムには4つの顔がありました。
 1つは聖所で見慣れたケルビムの顔です。そして鷲の顔、獅子の顔、人間の顔がついています。鷲は空の鳥の代表、獅子は獣の代表のような存在です。そして人間は神のかたちに似せて造られた、神の最高傑作品です。これら4つの顔は、天と地にある神の作品の代表とも言えます。
 作品は、その作者の品性を反映しています。
 先日、保育園で作品展がありました。1歳のクラスの子たちも画用紙の上でペンを動かしたり、手に絵の具をつけてスタンプを押したりして作品を作っていました。
 マイペースな息子は、画用紙の真ん中のところだけに線を引いていました。自分の世界はここだけで充分だという感じです。ボールが好きな男の子は、力強い線を描いていました。元気が伝わってきます。よく泣いている甘えん坊な子は、画用紙一杯に線を描いていました。私を見て!と主張しているようです。
 それぞれの作品に、作った子の性格が現れているようでした。
 神の作品にも創造主の品性が現れています。
 人間の体の免疫システムだけ見ても、それを理解し人工的に再現することは人間の最高の知恵を集めても難しいです。このような精密な生命を造られた神様はなんと知恵に満ちたお方なのでしょうか。
 空に浮かぶ雲を見ながら、私たちは想像力を働かせます。この美しい自然を造られた神様はなんと美しいお方なのでしょうか。
 この世界のあらゆる被造物が、神の素晴らしさを反映しています。

神の栄光を守る

 ケルビムはまさに神の栄光を現わす存在でした。
 エゼキエルがケルビムだと認識して見ている生き物には4つの顔があり、車輪があり、多くの目があります。どこかで会ったことがありますね。エゼキエルはこれがケバル川の河畔で最初に見た生き物であることに気付きます。
 最初はよくわかっていませんでした。読んでいる私たちも何が何だかよくわからなくなってきますね。しかしエゼキエルはよく観察しながら、この生き物が本物のケルビムであるとわかり、最初に見た生き物がケルビムだったと分かってきました。
 神の素晴らしさはすぐにわかるものではありません。
 聖書も読んですぐ理解できるものではありません。繰り返し繰り返し研究しながら、日々新しい発見をしていきます。聖書の宝は、決して掘りつくすことはできません。深く探るほど、素晴らしい宝に出会います。
 神の素晴らしさは被造物すべてに隠されています。

世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

ローマの信徒への手紙1:20

 この世の中もよく見ていけば、神の素晴らしさ、神の栄光が隠されていることに気付きます。
 この世界は人の罪のために壊れていますが、イエス・キリストの十字架を通して見るとき、隠された素晴らしさが見えてきます。
 その素晴らしさを反映する神の最高傑作品は、私たち一人一人です。
 主は私たちを通して、栄光を現わしたいと願っています。

 主は私たちの罪を焼き払います。日々の生活の中で私たちは、共におられる主の臨在に出会うことができます。
 この人生を通して創造主の栄光を現わす私たち一人一人になることを願います。

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