王のいない悲しみの歌

エゼキエル書講解29

王のいない悲しみの歌

エゼキエル書 19:1-14

1 イスラエルの君侯たちのために、あなたは悲しみの歌をうたって、2 言いなさい。お前の母は獅子たちの中にあって/どんな雌獅子だったろうか。お前の母は子獅子の間に伏し/若獅子たちを育てた。3 お前の母は子獅子の中から一頭を取り上げた。その子獅子は若獅子に成長し/獲物を取ることを覚え/人々を餌食とした。4 しかし、諸国の民は子獅子について聞いた。罠に捕らえられ、鉤にかけられて/エジプトの地へ連れて行かれたと。5 お前の母は期待が破れ、望みがうせたのを見て/別の子獅子を取り、若獅子に育てた。6 この子獅子は獅子たちの間を歩き回り/若獅子に成長し/獲物を取ることを覚え/人々を餌食とした。7 彼は彼らの城郭を破壊し、町々を荒廃させた。そのほえたける声に/地と地を満たすものはおびえた。8 諸国民は周囲の国々から彼に立ち向かい/彼の上に網を広げ/彼は罠に捕らえられた。9 彼は鉤にかけられ、籠に入れられ/バビロンの王のもとに連れて行かれた。彼らは獄に彼を閉じ込め/二度とその声が、イスラエルの山々に/聞こえないようにした。10 お前の母は水のほとりに植えられた/園のぶどうの木のようだ。多くの水のゆえに/豊かに実を結ぶ枝を張った。11 その木には/支配者たちの杖となる強い枝があった。丈は雲間に届くほど高くなり/丈高く、枝が多いゆえに際立って見えた。12 怒りによって、木は引き抜かれ/地に投げ捨てられた。東風はその実を枯らし/強い枝はもぎ取られて枯れ/火がそれを焼き尽くした。13 今や、その木は/荒れ野に、乾いた水なき地に/移し植えられた。14 また、若枝の茂る太い枝から/火が出て、実を焼き尽くした。それゆえ、この木には/支配者の杖となる強い枝はなくなった。この歌は悲しみの歌。悲しみの歌としてうたわれた。

周りの人を苦しめる正義観

 私の高校の同級生が大衆演劇の劇団に入りました。その劇団が舘山寺に来ているというので、見に行ってきました。
 江戸時代の侠客の話です。清水の次郎長みたいな人たちです。彼らには彼らなりの正義があります。時には国の法律に背くことがあっても、彼らの正義を貫く人たちです。
 京都で侠客の集まりがありました。若い侠客の上坂(こうさか)仙吉は、侠客の親分たちに挨拶をしに行きました。
 京都一の侠客の親分である鉛屋のところに挨拶をしに行くと、「お前のような若造が俺のところに来るのは10年早い」と相手にされません。仙吉は多くの人が集まっている前で、侮辱されてしまいました。
 自分の名前が汚されてしまいました。汚名はすすがなければなりません。
 そこで仙吉は鉛屋に決闘を申し出ました。生きるか死ぬかの真剣勝負です。
 初めは全く歯が立ちません。一緒に来てくれた弟分は死んでしまい、仙吉も小指を切られてしまいます。
 実は仙吉には、目の見えない妻がいました。もし自分にもしものことがあれば、妻はどうなるのだろうという心配がありました。そのことを知った妻は、死ぬ気で戦って来いと仙吉を励まし、自殺します。
 後に残すものを失った仙吉は再び鉛屋と決闘します。そして復讐を果たしました。
 斬られた鉛屋は、「よかった」と言いました。実は鉛屋は、最初に仙吉を見たとき、その目に将来性を感じていました。そして自分が見込んだ通りの男かどうかを試すために、わざと侮辱したのです。仙吉は汚名をすすぐために見事自分を斬ってくれた。見込んだ通りの男で安心したのだと鉛屋は言います。
 仙吉は侠客の世界の正義を全うしたわけです。そういう世界観を理解すれば、いい話だったなと思えます。
 しかし、自分なりの正義を守るために、3人も人が死んでいるわけです。素直によかったなとは言えないです。
 次世代の若者に可能性を感じたなら、もっと違う道があったのではないかと思います。

君侯のための悲しみの歌を歌え

 今日の本文は主がエゼキエルに、君侯のための悲しみの歌を歌うように命じる場面です。
 主はこの歌の中でユダの王をライオンにたとえています。大きく成長したライオンは強くなり、人を食べました。そのためライオンは捕まえられてしまいます。
 王は国を治め、人を生かすべき存在です。しかしユダの王は偶像崇拝で人を神から離し、苦しめていました。
 主はエジプトやバビロンを用いて王を連れ去ります。人々は王がいなくなり悲しみます。王がいないことは悲しいのです。
 しかし私たちには王の王、主の主であるイエス・キリストがいます。

人を苦しめる王

 まず今日の本文の1節から9節で『1 イスラエルの君侯たちのために、あなたは悲しみの歌をうたって、2 言いなさい。お前の母は獅子たちの中にあって/どんな雌獅子だったろうか。お前の母は子獅子の間に伏し/若獅子たちを育てた。3 お前の母は子獅子の中から一頭を取り上げた。その子獅子は若獅子に成長し/獲物を取ることを覚え/人々を餌食とした。4 しかし、諸国の民は子獅子について聞いた。罠に捕らえられ、鉤にかけられて/エジプトの地へ連れて行かれたと。5 お前の母は期待が破れ、望みがうせたのを見て/別の子獅子を取り、若獅子に育てた。6 この子獅子は獅子たちの間を歩き回り/若獅子に成長し/獲物を取ることを覚え/人々を餌食とした。7 彼は彼らの城郭を破壊し、町々を荒廃させた。そのほえたける声に/地と地を満たすものはおびえた。8 諸国民は周囲の国々から彼に立ち向かい/彼の上に網を広げ/彼は罠に捕らえられた。9 彼は鉤にかけられ、籠に入れられ/バビロンの王のもとに連れて行かれた。彼らは獄に彼を閉じ込め/二度とその声が、イスラエルの山々に/聞こえないようにした。』 とあります。

人食いライオン

 あるライオンの家族がいました。
 お母さんライオンは子どもライオンの中から一頭を選び、育てました。そのお兄さんライオンは大きくなり、人を食べるようになりました。
 人を食べるライオンがいたらどうしますか。危ないですよね。エジプト人が来て、そのライオンを捕まえて連れて行きました。
 お母さんライオンは弟ライオンを育てました。大きくなり、人を食べました。そして町を破壊しました。
 こんな危ないライオンは放っておけません。今度はバビロンが来て連れて行きました。

人を神から離す王

 お母さんライオンはユダの王家を表しています。
 ヤコブは12人の息子たちを祝福するとき、ユダをライオンにたとえました。

9 ユダは獅子の子。わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。彼は雄獅子のようにうずくまり/雌獅子のように身を伏せる。誰がこれを起こすことができようか。10 王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。

創世記49:9-10

 ユダの子の中からイスラエル全体を治める王が出るという預言的な祝福です。
 事実、ユダ族の中からダビデ王が立てられます。
 そして後にイエス・キリストもユダ族の家系として生まれます。

 お兄さんライオンはヨアハズ王です。ヨシヤ王の子どもです。
 ヨシヤ王と言えば宗教改革を行ったよい王様として知られています。最期はエジプトの王ネコと戦って死んでしまいます。ユダの国民はヨシヤの子ヨアハズを王にしました。
 ところがヨアハズは父と違い、偶像崇拝をして人々を惑わしました。
 ヨアハズが王になって数か月後、ネコが再び来てヨアハズをエジプトに連れて行ってしまいました。

 弟ライオンはヨヤキンかゼデキヤのことでしょうか。
 ヨヤキンはヨシヤ王の孫です。彼も偶像崇拝し、バビロンに連れて行かれます。エゼキエルはこのとき一緒に捕囚になりました。
 ネブカドネザルはヨヤキンのおじのマタンヤをゼデキヤと改名し王にします。
 ところがゼデキヤはエジプトに使者を送り、助けを求めました。
 怒ったネブカドネザルはゼデキヤを捕らえ、エルサレムの街も神殿も徹底的に破壊してしまいます。
 こうしてユダ王国は滅亡してしまいます。

 王たちは国を滅ぼそうとしたわけではありません。自分なりに正しいことをしようとした結果選んだのが偶像崇拝でした。
 結果として人々を神から離してしまい、民を苦しめてしまいました。
 ご自分の民が苦しむことを、主なる神は放っておきません。
 そこで主はエジプトやバビロンを用いて王を連れて行ってしまいます。

正しさが人を苦しめる

 私たちが正しいと思っていることが他の人を苦しめてしまうことがあります。
 私たちは皆違いがあります。違う考えを持ち、違う文化を持ち、違う行動をします。
 もし自分を基準に考えれば、自分と違う人は間違っている人ということになります。
 こうして私たちは多様性を受け入れることができず、人を裁いてしまうということがあります。
 私たちは人と話をするときに、相手の話をよく聞かず自分の話に持っていったり、こうしなさいと指示をしたり、それは違うと否定したりすることがあります。
 自分が中心にいるわけです。自分が王様です。私の話を聞きなさい。私が正しい。私と違うあなたは間違っている。
 自分を王にする高慢さは周りの人を苦しめてしまいます。

 臨床心理学者のカール・ロジャース博士は相談者中心のカウンセリングという相談手法を提唱しました。
 指示や否定をせず、相手の話に注意深く耳を傾ける。
 話を聞いてもらっているうちに相談者自身が答えを見つけていきます。

 もちろん相手が本当に間違っているということもあります。
 その間違いは指摘してあげるべきですが、言い方には気をつけなければなりません。
 「違う」「何言ってるの」と言って全面的に否定してしまうと、何がどう間違ったのかわからず、自分という存在そのものが拒否されたとさえ感じてしまうことがあります。
 何がどう問題なのか、よく話して聞かせてあげることが大切です。
 自分と違う人に出会ったとき、自分が正しくて相手が間違っていると思ってはいけません。
 人を裁くのではなく、違いを多様性として受け入れていけたらいいです。
 私たちは自分の正しさのために他の人を苦しめてはいないでしょうか。

水のほとりのぶどうの木

 また今日の本文の10節11節に『10 お前の母は水のほとりに植えられた/園のぶどうの木のようだ。多くの水のゆえに/豊かに実を結ぶ枝を張った。11 その木には/支配者たちの杖となる強い枝があった。丈は雲間に届くほど高くなり/丈高く、枝が多いゆえに際立って見えた。』 とあります。

人を喜ばせるぶどうの木

ぶどうの木

 主は悲しみの歌の中でユダの王家をぶどうの木にもたとえています。
 水のほとりに植えられたぶどうの木です。命に満ち溢れ、時が来て実を結びます。
 人はその実を食べて喜びます。
 ぶどうの木は大きくなり、その強い枝は支配者の杖になって国を治めました。

王の役割

 王の役割は本来、そこにあります。国をよく治め、人を生かすことです。
 人が安心して住むことができ、食べる物がある。外敵から守られる。
 そのために、主の御心に従って治めるのが王の役割でした。

人を生かす

 救われた私たちは王の系統を引く祭司です。
 私たちが国の真ん中で政治をすることはないかもしれませんが、人を生かす役割は同じです。
 神の国の大使として、この地に遣わされています。
 パウロは愛をもって互いに真実を語りなさいとか塩で味付けされた快い言葉で語りなさいとか、言葉で人を生かすことを繰り返し教えています。
 私たちの言葉や態度によって、人々は愛を感じ、力を得ることもあります。
 「あなたは大切な存在だよ」という受容の言葉や、「あなたはできると信じているよ」と可能性を認める言葉を使っていきたいものです。
 イエス・キリストは弟子たちを愛しました。
 彼らがどんなに足りなくて、裏切ることがあったとしても、受け入れました。
 そして実を結ぶことを約束しました。
 失敗だらけの弟子たちでしたが、イエス・キリストは彼らの可能性に注目していました。
 まことのぶどうの木であるイエス・キリストにつながるとき、私たちも実を結びます。
 祝福の源として人を生かす私たちとなることを願います。

強い枝がない

 最後に今日の本文の12節から14節で『12 怒りによって、木は引き抜かれ/地に投げ捨てられた。東風はその実を枯らし/強い枝はもぎ取られて枯れ/火がそれを焼き尽くした。13 今や、その木は/荒れ野に、乾いた水なき地に/移し植えられた。14 また、若枝の茂る太い枝から/火が出て、実を焼き尽くした。それゆえ、この木には/支配者の杖となる強い枝はなくなった。この歌は悲しみの歌。悲しみの歌としてうたわれた。』 とあります。

支配者の杖が出ない

 ぶどうの木は乾いた水のない地に移し植えられてしまいました。どうなりますか。
 枯れます。東風によって実は焼かれてしまいます。
 神を離れ自分なりの正しさで人々を苦しめたユダの王家は滅ぼされます。
 東風のように襲ってくるバビロンによってエルサレムは破壊され、王がいなくなってしまいます。
 これは悲しいことです。

王のいない悲しみ

 私たちを治める王がいなくなってしまうとどうなるでしょうか。
 そうなることを願う人もいますね。誰にも支配されたくない。この世から束縛されるのは嫌だ。
 こうして王を倒し、国民が主体になる国を作ろうという革命が歴史の中で繰り返し起こってきました。
 特に労働者が主体になって国を治めるのだという共産主義の思想が流行りました。
 王がいなくなった結果、理想的な社会、ユートピアができたでしょうか。
 王がいなくなれば、基準がなくなります。結局は自分が正しいと思うことをし始めます。それでは国がまとまりません。
 そこで自分と違う思想の人たちとの間で闘争が起こります。
 やがて強いリーダーが出てきて労働者を統率するようになります。自分に従わないものは敵として排除する、独裁者が登場します。
 王に支配されることを拒んだ結果、恐ろしい独裁者に支配されるという逆説的な結果になります。
 私たちはどうしても、王が必要なのです。

誰が王か

 では誰が王になるべきでしょうか。
 自分自身が王になってしまえば他の人を苦しめます。
 本当の王はイエス・キリストです。
 イエス・キリストが生まれたとき、東方博士たちが礼拝をささげに来ました。彼らはユダヤ人の王として生まれた方を探して来ました。
 イエス・キリストがエルサレムに入るとき、群衆は服を道に敷き、王の凱旋のように歓迎しました。
 イエス・キリストが十字架につけられるとき、その罪状書きには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。
 そしてイエス・キリストは死の力を打ち破り、復活されました。
 やがてイエス・キリストは再び帰って来ます。その時、全ての敵は滅ぼされ、神の国が完成します。
 イエス・キリストこそ王の王、主の主なのです。

 私たちの生活の中心に、イエス・キリストを王として迎えましょう。そこに神の国が臨みます。
 私たちの心の中心に、イエス・キリストを王として迎えましょう。私たちの人生を通して神の栄光が現れます。

 私たちは自分なりに正しさによって人を殺してしまいます。
 王の王、主の主であるキリストに支配されるとき、人を生かすことができます。

Leave a Reply

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.