破滅に向かう人々の間にいる神

歴代誌講解77

破滅に向かう人々の間にいる神

歴代誌下 36:1-10

1 国の民はヨシヤの子ヨアハズを選び、エルサレムで父の代わりに王とした。2 ヨアハズは二十三歳で王となり、三か月間エルサレムで王位にあった。 3 しかし、エジプトの王はエルサレムで彼を退位させ、その国には科料として銀百キカル、金一キカルを課した。4 他方、エジプトの王はヨアハズの兄弟エルヤキムをユダとエルサレムの王とし、その名をヨヤキムと改めさせた。兄弟のヨアハズはネコに捕らえられ、エジプトに連れて行かれた。 5 ヨヤキムは二十五歳で王となり、十一年間エルサレムで王位にあった。彼は自分の神、主の目に悪とされることを行った。6 その彼をバビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、青銅の足枷をはめ、バビロンに引いて行った。7 ネブカドネツァルは主の神殿の祭具類もバビロンに持ち帰り、バビロンにある彼の宮殿に納めた。8 ヨヤキムの他の事績、彼の行った数々の忌むべきことおよび彼に起こったことは、『イスラエルとユダの列王の書』に記されている。その子ヨヤキンがヨヤキムに代わって王となった。9 ヨヤキンは八歳で王となり、三か月と十日間エルサレムで王位にあった。彼は主の目に悪とされることを行った。10 年が改まるころ、ネブカドネツァル王は人を遣わし、彼を主の神殿の貴重な祭具類と共にバビロンに行かせ、その兄弟ゼデキヤをユダとエルサレムの王とした。

人々の間で共に生きる

 パキスタンとアフガニスタンで医者として働いた中村哲さんが亡くなって3年になりました。
 中村哲さんは西南学院中学校在学中に洗礼を受けてクリスチャンになり、日本キリスト教海外医療協力会から派遣されてパキスタンのペシャワールに入ります。そこでハンセン病患者などへの医療活動を行います。その後アフガニスタンに入り、用水路を掘って砂漠を緑に変え、10万人以上が生活できるようにしました。 

 彼の活動を記録したドキュメンタリー映画が公開されたので見てきました。

荒野に希望の灯をともす

 中村さんはアフガニスタンに入って診療所を建設しようとします。そこで現地の村人たちと対話を行います。
 村人たちは、あなたもすぐ去ってしまうのだろうと心配を口にします。
 これまでも様々な支援があったけれど、物を送ったり建物を造ったりした後、人はすぐ去ってしまう。あなたも診療所を建てたら安全な自分の国に帰ってしまうのではありませんか。そのような心配があったのでしょう。
 しかし中村さんは「たとえ私が死んでも残る診療所を建てます」と言います。私たちはずっとあなたたちと共にいますという約束です。
 この約束は村人たちにとって大きな慰めになったことでしょう。

 映画の中で衝撃を受けたのは、中村さんの次男のことです。
 アフガニスタンでは水不足による飢饉が起こり、子どもたちを含む多くの命が失われました。その上、アメリカなど多国籍軍がアフガニスタン紛争を起こし、多くの人が難民になりました。
 そのような時、中村さんの次男が脳腫瘍で亡くなります。10歳くらいだったと思います。
 中村さんはその悲しみの中で、自分の子を失うアフガニスタンの親の気持ちがやっとわかったと言っていました。
 医者として多くの人の死を目にしてきたと思いますが、子を失う悲しみを身をもって知りました。
 中村さんは現地の人々の間に住み、彼らの痛み、悩み、苦しみを共に生きました。
 これこそ平和を作る神の子の生き方なのだと思います。

神は人を送って救う

 今日の本文は南ユダ王国17代目ヨアハズ王、18代目ヨヤキム王、19代目ヨヤキン王の話です。

破滅に向かう南ユダ王国

 メギドの戦いでヨシヤ王が戦死したため、民はヨシヤの息子ヨアハズを王にしました。
 彼がどのような王だったか、ほとんど記されていません。列王記によると母はハムタルで、悪い王でした。それ以上はわかりません。統治期間が短すぎるからです。
 エジプトのファラオ・ネコに敗れたばかりだったので、エジプトはヨアハズをわずか3ヶ月で退位させ、その兄エルヤキムを王にします。

 このときネコは、エルヤキムの名をヨヤキムに変えさせます。
 「エルヤキムと言うのかい。ぜいたくな名だね。今からお前の名はヨヤキムだ。」
 名前を奪うというのは、他の民族を支配するときに度々行われることです。現代でも日本がアジアを侵略するときに行いました。

 この時はまだエジプトが力を持っていました。
 しかしその4年後、カルケミシュの戦いが起こります。アッシリアとエジプトの連合軍が新バビロニア軍に敗れます。そしてネブカドネザルが新バビロニアの王になりました。

 ネブカドネザルは南ユダにも侵攻し、ヨヤキムを服従させます。
 ヨヤキムは3年間バビロンに従いますが、再びエジプトを頼ります。
 ヨヤキムにはエジプトに恩があります。元々民が選んだ王は弟のヨアハズでしたが、エジプトのおかげで王になれました。
 ヨヤキムはバビロンに背きます。それを知ったネブカドネザルは怒り、南ユダに攻めて来てヨヤキムに青銅の足かせをはめ連行します。
 こうしてヨヤキムが亡くなったため、息子のヨヤキンが王になりました。

 歴代誌には8歳とありますが列王記の18歳が正しいでしょう。いずれにしても若くして王になりました。
 このヨヤキンの時代にバビロン捕囚が起こります。
 その前のヨヤキムの時代にも小規模な捕囚があり、ダニエルたちが連れ去られていたようです。
 ヨヤキンの時代の捕囚では王族や祭司、役人など身分の高い人たちが連れ去られました。ヨヤキン王も捕囚になります。エゼキエルもこの時バビロンに連れて行かれました。

 まだ若いヨヤキン王に王子はいませんでした。ヨヤキンが捕囚になったことで、南ユダ王国から正統な王がいなくなります。
 民はヨヤキンのおじのマタンヤを王にします。
 マタンヤもハムタルが母です。ヨシヤ王の息子でヨアハズの弟になります。マタンヤはゼデキヤに改名します。

拒まれても神は語り続ける

 南ユダ王国が滅亡へ向かって行く末期の状態です。
 これまでも滅亡の危機は何度かありました。その度に神に立ち帰り、滅亡を免れてきました。
 しかしここではもう手の施しようがありません。まるでダムが決壊するように、これまでため込まれた神の怒りが一気に南ユダに注がれようとしています。

 このような状況で神も見捨てていたのかというと、そうではありません。
 神は繰り返し預言者たちを遣わしていました。
 この時代に活躍した預言者といえば、エレミヤがいます。
 この時代についてエレミヤ自身がこう語っています。

「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日に至るまで二十三年の間、主の言葉はわたしに臨み、わたしは倦むことなく語り聞かせたのに、お前たちは従わなかった。

エレミヤ書25:3

 エレミヤが若い頃から23年間神の言葉を語り続けても、民は無視し続けました。
 破滅に向かう中でも神は見捨てず、預言者を通して語り続けていました。
 しかし民は拒み続けました。

四面楚歌でも助けが来る

 特にヨヤキム王の時代は預言者たちが迫害されました。
 ヨヤキムは兄なのに民から王に選ばれなかったわけなので、どこかしら問題があったのでしょう。
 エレミヤ書36章で、エレミヤを通して語られた神の言葉が巻物に記され、ヨヤキム王の前で読まれました。ヨヤキムはその巻物を暖炉で燃やします。神の言葉をゴミのように捨てた王です。
 またヨヤキムは、エレミヤと同じ頃に活動した預言者ウリヤを処刑します。
 エレミヤも命を狙われます。

しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤを保護し、民の手に落ちて殺されることのないようにした。

エレミヤ書26:24

 エレミヤは、誰も自分の声に耳を傾けてくれず王からも命を狙われる四面楚歌の状態でした。
 しかしアヒカムという1人の民が保護してくれました。
 このアヒカムという人、ヨシヤ王が律法の書を発見した時に派遣した家臣のうちの1人、ヨシヤ王から神の言葉の大切さを学んだ人です。
 絶望的に見える状況でも、神様はエレミヤやアヒカムのような人を送って助けてくださいます。
 神様が見捨てることはありません。

神はあなたを用いたい

キリストの受肉

 神が人を送って助けてくださる。その究極的なかたちとして来られたのがイエス様です。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

マタイによる福音書1:23

 イエス・キリストは私たちを救うために、私たちの間に住んでくださいました。神が肉となって私たちの間に住まわれました。
 私たちと同じ人間として、人間の痛み、悩み、苦しみを共に生きました。
 だからどんなに絶望的な状況で生きる人がいたとしても、神に見捨てられることはありません。イエス・キリストは共にいます。
 そして人を送ってその人と共に生き、助け出してくださいます。

誰が受肉するのか

 私たちの周りにも困難な状況に置かれている人がいます。神様は人を送って助け出します。
 それを他人事にしてはいけません。
 神は問います。誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。

 神はまずご自分の民を遣わします。
 エレミヤやアヒカムのように、神の言葉に従う者を送ります。

 また神は世界中至るところを見渡し、ご自分と心を一つにする者を力づけようとしています。そこには異邦人も含まれます。
 たとえばネブカドネザルについて、エレミヤ書で神が「わたしの僕」と呼んでいます。異邦人ネブカドネザルも神の僕として用いられます。南ユダ王国に捕囚という神の裁きを下すのです。
 しかしその結末は悲惨です。多くの人が連れ去られ神殿の祭具が奪われていきました。
 神が異邦人を用いる時にはこのような悲惨さが伴います。
 だとすればまず用いられるべきは神の民です。

共に生きる人を神は求めている

 私たちの周りにいて助けを必要とする人に、手を差し伸べるべきは私たちです。
 いや、私たちのような一般人ではなく、公共の福祉サービスを利用するべきではないか。
 もちろん社会の中で助けを必要とする人を、社会全体で支えていくことも大事です。
 しかし公共のサービスからもれる人たちが必ず出てきます。
 そこはNPOなど民間団体の出番だ。その方が専門性があっていい。
 そうして色々と言い訳をしながら、彼らと距離を置こうとします。

 神はまず誰を用いようとしておられるのでしょうか。
 私たちの心に「あの人が助けを必要としている」という気づきが与えられた時、その思いはどこから来たのでしょうか。皆が同じように感じるわけではないのです。それは神が与えてくださった思いです。
 神があなたに見させた現実の悲惨さがあります。神があなたに聞かせた誰かの叫びがあります。
 神はあなたを用いようとしています。
 もちろん一人ですべての責任を負う必要はありません。適切な機関につなげるだけでもよいです。
 自分は関係ないと距離を置かないでください。
 彼らと共に生きる人を、神は求めています。

身分や人からの評価は関係ない

 エレミヤは神様から与えられた言葉を語り続けました。民はずっと無視し続けました。
 それでもエレミヤは、どうせ誰も聞いてくれないからと諦めることなく、民の間で神の言葉を伝え続けました。
 王がエレミヤの命を狙った時、アヒカムは王に仕える身でありながらエレミヤを助けました。
 あなたがどのような身分であるか、人からどう見られるかは関係ありません。
 神様はあなたを用いようとしています。

神の祝福の中で生きる日々

 ヨヤキン王はバビロンに連れて行かれた後もそこで生き続けました。

バビロンでも神は共にいる

 エルサレムから離れ、神殿からも遠く離れてしまった。バビロンでは神から見捨てられたのか。
 そうではありません。
 神はその捕囚の民の間にもいます。
 エゼキエルはバビロンのケバル川河畔で、全地を満たす神の栄光を見ます。捕囚の民の間にも神が共におられるということを知りました。
 インマヌエルの神は私たちの間にいます。

恵みで救われたヨヤキン

 ヨヤキン王はバビロンにおいても神の憐れみを受けます。

27 ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。28 バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた。29 ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。30 彼は生きている間、毎日、日々の糧を常に王から支給された。

列王記下25:27-30

 こうしてダビデの子孫であるヨヤキン王はバビロンの地で生き続けます。
 ヨヤキンがこのような扱いを受けたのは、彼の功績ではありません。戦って自分を救い出したわけでもないし、立派な働きで地位を得たわけでもありません。
 バビロン王の一方的な情け、ただ恵みです。
 ヨヤキンは何もしていないにも関わらず、獄中の衣を脱いで自由の身となり、王と共に食事をする身分になりました。ヨヤキンは恵みで救われました。
 ヨヤキンはバビロンで生き続け、エコンヤという名でマタイによる福音書の系図に記されます。
 そしてその系図はヨヤキンの子孫たちに続き、イエス様につながります。

滅びに向かう古い生き方を捨てる

 神様は決して私たちを見捨てず救い出します。
 それは私たちの功績ではなく一方的な神の恵みです。
 私たちは破滅に向かう罪の奴隷でした。
 十字架で死んで復活したイエス・キリストは私たちをあらゆる支配から解放します。
 滅びに向かう古い人を脱ぎ捨て、神にかたどって造られた新しい人を着させられます。
 義の衣を着させられた私たちは日々キリストと共に生き、王の食卓に招かれています。
 神様の祝福の中で生きる毎日です。

ずっとあなたと共にいるという約束

 マタイによる福音書は神が共にいるという話で始まり、最後も神が共にいるという話で締めくくられます。

あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

マタイによる福音書28:20

 イエス様は世の終わりまでいつも私たちと共にいると約束しています。
 だから私たちはどのような状況にいても喜ぶことができます。
 どのような痛み、悩み、悲しみの中にあるとしても、イエス・キリストはそこで共に生きています。
 イエス様は私たちの弱さをよく知っているので、時宜にかなった助けを与えてくださいます。

クリスマスを共に喜ぶ

 クリスマスはイエス様が私たちの間に住まわれたことを喜ぶ日です。
 インマヌエルの神様は今日も私たちの間で共に生きています。
 来週はクリスマス。イエス様は私たちと共にいます。そして私たちを通して働こうとしています。
 クリスマスの喜びが、私たちを通して周りの人々に広がっていきます。

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