神にすべてを賭ける

創立17周年感謝礼拝

神にすべてを賭ける

列王記上 17:8-16

8 また主の言葉がエリヤに臨んだ。9 「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」10 彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」13 エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。14 なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」15 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。16 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

賭け事は危険だが役に立つ

ブレーズ・パスカル(1623-1662)

 哲学者、数学者として知られるブレーズ・パスカルは1623年6月19日に生まれました。明日で生誕400年になります。
 パスカルは同時代の数学者ピエール・ド・フェルマーと交友があり、手紙のやり取りをしていました。
 今で言うとLINEでやり取りする仲という感じでしょうか。個人的な手紙やLINEの内容を盗み見るのはとても醜いことだと思いますが、パスカルとフェルマーの手紙には数学の歴史における重要な価値があります。確率論が始まるきっかけになったと言われているからです。
 あるギャンブラーがパスカルに、ギャンブルの場で生じた問題を持ち込みました。それはこのような問題です。

AB二人がおのおの32ピストル(当時のお金の単位)の金を賭けて勝負したとする。そしてどちらかが先に3点を得たものを勝ちとし、勝った方がかけ金の総額64ピストルをもらえるとする。ところがAが2点、Bが1点を得たとき、勝負が中止になってしまった。このとき、二人のかけ金の総額64ピストルをAとBにどのように分配すればよいだろうか。ただし二人の力は互角で、勝つ確率はそれぞれ1/2ずつだとする。

 高校で学ぶ期待値の考えで解くことができますね。
 パスカルはこのように解きました。あと1試合したとき、Aが勝てば3点となり、64ピストルもらえる。Aが負けると2点同士の引き分けだから32ピストルずつ分ければよい。勝つ確率も負ける確率も1/2だから、64×1/2+32×1/2=48。すなわちAが48ピストル、Bが残りの16ピストルもらえばよい。
 このような賭け事の問題からも数学は発展してきました。
 賭け事は人生を破壊してしまうこともあるので注意が必要です。しかし人生の中には伸るか反るか、思い切って勝負をしなければならない場面もあります。
 今日は神様にすべてを賭けたギャンブラーたちの話です。

壺の粉は尽きず瓶の油はなくならない

 エリヤは旧約聖書の時代に北イスラエル王国で活動した預言者です。
 北イスラエルにはアハブという王様がいました。アハブは主なる神様を信じないで、バアルという神を信じています。バアルは雨を降らせて豊かな実りを与えてくれる神だと考えられていました。
 そこでエリヤはアハブに言います。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
 雨を降らせる神を信じる王に、雨が降らないと宣言する。完全にケンカ売っています。
 すると本当に雨が降らなくなりました。
 主なる神様はエリヤを川の近くに避難させます。エリヤは川の水を飲み、食べ物はカラスが運んできてくれました。
 しかしずっと雨が降らないので、とうとう川の水も涸れてしまいました。
 この地域の農業は大打撃です。小麦もオリーブも育たないので、小麦粉も油も生産できません。
 それでも大丈夫。神様はシドンのサレプタという町で一人のやもめにエリヤを養わせると約束します。
 やもめというのは夫を亡くした女性のことです。やもめでありながらエリヤを養えるということは、よほど裕福な方なのでしょうね。

やもめへのエリヤの要求

 エリヤは神様に言われた通りサレプタに行きます。
 町の入口で一人の女性が薪を拾っていました。第一村人発見です。
 聖書はいきなりこの女性がやもめだと言っています。なぜやもめだとわかったのでしょう。
 見るからに夫を亡くして生活に困っている感じだったわけです。私だったら、この人は私を養えないなと思いますね。

 しかしエリヤの考えは違いました。
 エリヤは彼女に、水を飲ませてくださいとお願いします。雨が降らないのはこの地域も同じ。水は貴重です。
 彼女がその貴重な水を取りに行こうとするのを見て、エリヤは当然のようにパンも要求します。
 ちょっとエリヤさん、遠慮ってものを知らないのね。

 エリヤのこの要求を受け、彼女は自分の身の上を話し出しました。
 彼女の家には壺の中に一握りの小麦粉と瓶の中にわずかな油があるだけ。薪を拾いに来たのは、たったこれだけの小麦粉でパンを焼き、息子と最後の食事をするためでした。それを食べたら後は飢え死にするのを待つだけだと。
 エリヤさん、完全に声かける相手間違えましたね。しかも彼女らの最後のパンまで要求するなんて。

 エリヤは「恐れてはならない」と慰めの言葉をかけます。
 この悲惨な生活を聞いたら、どう声をかけていいか悩みますよね…。

 ここでエリヤは驚くべきことを言います。
 「帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。」
 おい!最後の食事だと言うのに、まずパン菓子を作って持って来いと。
 よく言えるな。人の心がないのか。

人間の考えを超越した神の約束を握る

 もちろんエリヤには人間の心があります。
 王様にケンカ売ったり貧しいやもめに追い打ちをかけたりする大胆さを見せてはいますが、繊細で傷つきやすいハートの持ち主です。
 そんなエリヤがこんなことを言えるのは、人間の心がないからではなく、人間の考えを超越した神様の約束を握っているからです。

 14節「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」

 神様は既にカラスによってエリヤを養ってくださった。かつてイスラエルの先祖たちは荒野で天からのパン、マナで養われた。
 神様はやもめに養わせると約束した。
 それなら彼女がどんなに貧しく見えても、神様は約束通りこのやもめを通してでもわたしを養ってくれるはずだ。エリヤはそう信じています。
 そして壺の中に一握りの小麦粉と瓶の中にわずかな油があるだけだと聞いたとき、神様の約束の声を聞いたのです。

 「主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」

 神様は必ず必要を満たしてくださいます。
 エリヤを養うのに必要な食材は神様が与えてくださる。
 そして飢え死にするのを待つだけだと絶望していた彼女に、生きる希望を与えてくださいました。

 彼女は主の約束を信じ、エリヤの言う通りにします。
 すると不思議なことに壺の粉は尽きず、瓶の油はなくならず、何日も食べ物に事欠きませんでした。

すべてをささげるときに体験する尽きない恵み

 神様の約束に従うことは、ギャンブルのようです。
 本当にやもめが養ってくれるのだろうか。本当に壺の粉は尽きないのだろうか。確実な証拠はありません。
 それでも神様の約束を信頼し、一歩踏み出す。神様に賭けるのです。

神にすべてを賭けたエリヤとやもめ

 ここで大事なのは、すべてを賭けることです。
 本当にやもめが養ってくれると信じていなければ、第一村人の彼女では無理だろうと思ってしまいます。
 自分を養えそうな裕福なやもめを探していたら、そんな人には出会えなかったでしょう。するとこの奇跡は起こっていません。
 彼女が半信半疑で小麦粉をちょっと残しておいたら、恵みがわからなくなります。
 粉が残っているのは奇跡でも何でもなく、自分が残しておいたのですから。
 壺の粉を使い切ろうとしたとき、本当に尽きない恵みを体験します。

私たちのためにすべてをささげたキリスト

 イエス・キリストはすべてをささげ尽くしました。

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

フィリピの信徒への手紙2:6-8

 私たちを救うために天の栄光を捨てて完全な人間になりました。人に世話をしてもらえなければ生きていけない弱々しい赤ちゃんとして生まれ、冷たく汚い飼葉桶に寝かされました。
 そして十字架で私たちの罪を背負って死にます。
 もしイエス様が弱々しい赤ちゃんではなく、奇跡を起こすスーパー赤ちゃんとして天から降ってきていたら、違う宗教が誕生したでしょう。
 イエス様が十字架で「自分を救ってみろ」とののしられたとき、「やってやるよ!」と釘を吹き飛ばし十字架をへし折っていたら、私たちの救いは成し遂げられませんでした。
 イエス様が自分を無にするほどすべてを捨てて私たちと同じ人間になり、十字架の死に至るまで父なる神に従ったので、私たちの救いは成し遂げられました。
 そして神はキリストを復活させ、私たちに新しい命を与えてくださいました。

あなたはどうする

電車に乗るかどうか決断しなければならない

 考えてみてください。
 見知らぬ場所で電車に乗るとき、本当にこの電車で大丈夫だろうかと不安になったことはありませんか。この電車は目的地に連れて行ってくれるだろうか。それとも他の電車を待つのがいいだろうか。
 そこであなたは片方の足を電車に乗せ、もう片方の足をホームに残しておきました。
 どうなりますか?

 「ドア閉まります」

 プシュー…

 ガンッ!

 鼻血ブー。

 鼻血が出るだけならいいですが、絶対に逃してはいけない電車だとしたら。
 伸るか反るか決断が必要です。

 聖書はイエス・キリストが神に至る唯一の道だと言います。
 キリストは「神」行きの特別列車。ただ1本しかないこの電車に乗るか乗らないか。あなたはどうしますか。

パスカルの賭け

 パスカルの「パンセ」の中にパスカルの賭けという話が載っています。
 神を信じるか信じないかという賭けです。神を信じたとき、本当にその神がいれば勝ち、いなければ負けです。
 パスカルは言います。

ところが、ここでは、無限に幸福な無限の生命が得られるのである。限られた数の敗運に対して、勝運はひとつだけである。しかも、君の賭けるものは、有限なものである。これでは、どうするもこうするもあったものではない。無限なものがあるのだから、勝運に対して敗運は無限ではないのだから、こういう場合なら、どんなときでもあれこれ迷うことはいらない。すべてを投じるべきである。こんなふうに、賭けることが避けられない場合に、無に等しいものを失っても、無限のもうけが手に入ろうとしているとすれば、そのため自分の生命を思い切って投げ出そうとせず、あいかわらずつかんではなそうとしないでいるというのなら、理性なんてどこかへ捨ててしまった方がましではないか。(略)

 パスカルは神を信じることに人生の全てを賭けるべきだと言っています。
 私たちの人生は有限です。時間も能力も富も限りあるものです。
 この有限のものを失ったとしても、得られる無限の幸福の前では無に等しいです。
 もし神がいなかったとしても、信仰者としての人生は悪を避け、正しい人として歩ませてくれます。
 だったら神を信じる方に賭けるべきですね。

 神に何かをささげるとしても、必要は神が満たしてくださる。
 だったら神にすべてを賭けようではありませんか。
 そのとき、壺の粉は尽きず瓶の油はなくならない、尽きない神の恵みを体験します。

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