神に従い備える礼拝

歴代誌講解75

神に従い備える礼拝

歴代誌下 35:1-6, 10-18

1 ヨシヤはエルサレムにおいて主の過越祭を祝い、第一の月の十四日に過越のいけにえを屠った。2 彼は祭司たちを任務に就かせ、彼らを励まして主の神殿の奉仕を行わせた。3 すべてのイスラエルの教師であり、主のために聖別されたレビ人に、王はこう言った。「イスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた神殿に、聖なる箱を納めよ。あなたたちはもはやそれを担う必要がない。あなたたちの神、主とその民イスラエルに奉仕せよ。4 あなたたちはイスラエルの王ダビデの書とその子ソロモンの文書にのっとり、組分けどおりに家系ごとに準備を整え、5 兄弟である民の家系の区分に従い、またレビ人の家系の組ごとに聖所に立て。6 過越のいけにえを屠り、自分を聖別し、あなたたちの兄弟が、モーセを通して伝えられた主の言葉に従って祝いができるように整えよ。」

10 奉仕の準備は整った。王の指示に従って、祭司はその持ち場に、レビ人はその組ごとに立った。11 彼らは過越のいけにえを屠り、祭司は血を受け取って振りかけ、レビ人はいけにえの皮をはいだ。12 彼らは焼き尽くす献げ物とする部分を別にして、それを民の家系の区分に従って与え、モーセの書に記されているとおり主にささげさせた。牛についても同様にした。13 彼らは定められているように、過越のいけにえを火で焼き、他の聖なる物は鍋や釜や平鍋で煮て、急いで民の全員に配った。14 その後、彼らは自分と祭司のために準備した。アロンの子らである祭司たちは夜になるまで焼き尽くす献げ物や脂肪をささげるのに追われていたからである。レビ人は自分とアロンの子孫である祭司のために準備した。15 アサフの一族である詠唱者たちは、ダビデおよび王の先見者アサフ、ヘマン、エドトンの指示に従って自分の持ち場につき、門衛もそれぞれの門に立っていた。兄弟であるレビ人が彼らのために準備してくれたので、彼らの中のだれも、自分の奉仕を離れる必要がなかった。16 ヨシヤ王の指示に従って過越祭を祝い、主の祭壇に焼き尽くす献げ物をささげるために、主に対する奉仕の準備は、その日にすべて整った。17 こうしてその時、そこにいたイスラエルの人々は過越祭を祝い、除酵祭を七日間にわたって祝った。18 預言者サムエルの時代以来、イスラエルにおいてこのような過越祭が祝われたことはなく、ヨシヤが祭司、レビ人、そこに居合わせたすべてのユダとイスラエルの人々、およびエルサレムの住民と共に祝ったような過越祭を行った者は、イスラエルの歴代の王の中に一人もいなかった。

備えるために手放す

 今日は第2アドベント。クリスマスが近づいてきました。クリスマスを迎える準備は進んでいますか。また、一年を締めくくる準備は進んでいますか。
 やり残したことはありませんか。今年の最初に立てた計画などを見直してみると、成し遂げられなかったものもあったでしょう。
 私は去年買ったジグソーパズルに一切手を付けられなかったことが無念です。忙しかったわけではないのですが、やり始める覚悟が足りませんでした。
 自分のしたいことで考えると、いつまでも未練が残ります。年を越す前に自分のしたいことをしようと思っていたら、いつまでも年を越せません。
 自分のしたいこと、自分の計画を1つ1つ手放していくことで、年を越す準備ができます。
 備えるために手放すことが必要なことがあります。

自分の考えを手放すことで神の導きに従う

 今日の本文は南ユダ王国16代目ヨシヤ王の話その3、ヨシヤの過越祭です。
 ヨシヤ王の治世第18年、彼が25~26歳の時に神殿の修復が行われました。その目的の1つに、大規模な過越祭を行うことがあったかもしれません。
 ヒゼキヤ王の時代にも過越祭が行われました。神から離れ死ぬべき状態にあった民が神の民として再出発することを象徴する儀式でした。
 ヒゼキヤの場合は即位してすぐに行ったため準備が不十分で、律法の規定より1ヶ月遅れて行われました。
 ヨシヤも過越祭が重要な意味を持つ祭りであることを認識しています。
 だからこそ焦ってすぐ行うのではなく、神殿の修復などよく準備して行うことにしました。
 南ユダだけでなく北イスラエルの住民にも前もって招待状を送ります。

神が定めた通りに過越祭を準備する

 そこで基準にしたのは律法です。
 律法の規定通りに第1の月の14日に祝います。
 そしてレビ人たちにはこのように言います。「あなたたちはイスラエルの王ダビデの書とその子ソロモンの文書にのっとり、組分けどおりに家系ごとに準備を整え、兄弟である民の家系の区分に従い、またレビ人の家系の組ごとに聖所に立て。過越のいけにえを屠り、自分を聖別し、あなたたちの兄弟が、モーセを通して伝えられた主の言葉に従って祝いができるように整えよ。」
 過越祭はモーセを通して伝えられた主の言葉によって定められた祭りです。
 そこで奉仕する祭司とレビ人にも律法で役割が定められていました。ただし神の箱を運ぶ必要はなくなっています。なのでヨシヤは「主とその民に奉仕せよ」と呼びかけます。
 さらにダビデとソロモンの時代には祭司とレビ人の組分けが行われていました。
 モーセ、ダビデ、ソロモン、彼らを通して神が定めた通りに準備を整えよと命じています。
 実際に祭司とレビ人は王の指示に従い、神の言葉に従って祭りを祝いました。

神の言葉に従って準備したところでドラマが起こる

 準備は大事。特に大きなイベントを行おうとすれば事前の準備は欠かせません。
 今やクリスマスは毎年欠かさず祝われる重要なイベントになっています。
 イエス様の時代にも過越祭は毎年欠かさず祝われる重要なイベントでした。
 特に過越の食事は欠かせません。
 弟子たちは過越の食事を準備しようと思い、イエス様に相談しました。彼らには自分たちの計画があったかもしれません。メニューはこういう感じで、こういう飾りつけをして…。
 しかしイエス様は弟子たちの考えを聞くことなく言います。

13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』

マルコによる福音書14:13-14
レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』

 ちょっと何言ってるかわからないです。水がめを運んでいる男について行け?どういうこと?彼は何者?結局聖書は、彼が何者なのか明かしません。この指示にどのような意味があるのかわかりません。弟子たちも困ったでしょう。1年に1度のビッグイベントである過越の食事を、先行きの見えない指示に従って準備するなんて。
 しかし彼らはイエス様の言葉に従います。そしてイエス様が言った通りの男を見つけてついて行き、入った家の主人に話をし、2階の広間で準備をします。
 この2階の広間で、過越の食事が行われました。いわゆる最後の晩餐です。
 もしかすると復活のイエス様が現れた密室も、ペンテコステの事件が起こった上の部屋も、この部屋だったかもしれません。
 神の言葉に従って準備したその場所でドラマが起こります。

自分の思いでなく御心が行われますように

 イエス様は基本的には私たちの考えを聞いてくださいます。
 神様は人に自由意思を与えました。人が自分のしたいことを計画し行うことを許しています。あなたはどうしたいのか?どうなりたいのか?私たち一人一人の声に耳を傾けてくださいます。
 しかしこれまでの人生を振り返ってみてどうでしょう。神の導きを感じたのはどのような時でしたか。自分の願い通りになった時ですか。
 私は地元九州の大学に行きたかった。しかし行けなかった。大学の授業も楽勝だと思った。すると最初の講義から意味不明だった。宗教なんて不要だと思っていた。しかし勉強をしていると色々な数学者が神の話をしていた。国際交流のイベントに誘われて行ってみたら、そこは教会だった。
 自分が思い描いていた人生がありました。その1つ1つが閉ざされて、今の私がいます。
 振り返ってみると、これが神の導きだったなと思います。
 自分のしたいこと、自分の思い描いた理想、自分の考えを手放していった時に、これが神の導きだったとわかります。

人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。

箴言16:9
カール・ブロッホ『天使に慰められるイエス』

 自分の道を計画することを神は否定しません。むしろ神が与えてくださった思いとして、自分の意志は大事にしてください。
 その自分の道の一歩一歩を確かなものにするのは神です。
 だから自分のしたいことをするのではなく、神の御心が行われることを願うのです。

 イエス様も自分の思いがありました。「アバ父よ、この杯を取りのけてください。」 罪人のかしらとして十字架で死ぬのは嫌です。
 しかし続けて祈ります。「わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 自分の考えを手放した時、神が備えた道を歩むことができます。

毎週の礼拝を準備してささげる

 私たちは過越祭を行いません。私たちが過越の子羊を屠らなくても、すでに神の子羊が完全ないけにえとなって血を流し死なれたからです。
 そして十字架で死なれたイエス・キリストは3日目に復活されました。それを記念し私たちは毎週日曜日に礼拝をささげます。
 すると毎週日曜日の礼拝が私たちにとって過越祭のようなものだと言えます。
 ヨシヤが過越祭を神の言葉に従って準備したように、私たちも礼拝を準備してささげることが求められています。

 日曜日になって教会に行って席に着くだけでも礼拝はできます。
 前もって祈って準備してみてください。一週間の生活を振り返って悔い改め、神様の恵みに感謝と賛美をもって神様の前に進み出ます。
 神の言葉を聞く準備はできていますか。あれ?神の言葉ってどんなかんじだっけ?忘れないように耳を慣らしておく必要があります。日ごとに聖書を読んで羊飼いの声に聞き従う準備をしてください。
 礼拝の中には献金があります。その日の財布の状態でささげる額を決めていませんか。礼拝の前にいくらささげるか決めておいてください。お給料をいただいてすぐ分けておくのもいいです。月末余裕があったらささげるというのであれば、何もささげられません。
 また礼拝の中にはそれぞれの奉仕があります。今日の本文にも詠唱者という賛美の奉仕者たちが出てきますが、彼らは訓練を受け熟練した人たちでした。同様に私たちも自分の任された奉仕について責任をもって準備する必要があります。
 自分のしたいようにささげる礼拝は礼拝ではありません。
 神様の言葉に従って準備しささげてこそ、礼拝は礼拝になります。

仕えることささげることを求める

 祭司とレビ人たちは神の言葉に従って過越祭を準備し、祭りを祝いました。
 やはり食事が大事でした。
 「彼らは定められているように、過越のいけにえを火で焼き、他の聖なる物は鍋や釜や平鍋で煮て、急いで民の全員に配った。」 アツアツのうちに急いで食事を提供しました。
 過越の食事はもともとエジプトから脱出するときにしたものなので、急いで提供するのは本来のあり方です。

給仕し仕えた奉仕者たち

 しかし奉仕者自身は食事を後回しにしました。
 「その後、彼らは自分と祭司のために準備した。アロンの子らである祭司たちは夜になるまで焼き尽くす献げ物や脂肪をささげるのに追われていたからである。レビ人は自分とアロンの子孫である祭司のために準備した。」
 焼肉やBBQでは、肉を焼いている人が一番アツアツのおいしい肉を食べる権利がありますよね。
 しかし彼らはそうしませんでした。

 士師時代の末、それはまさに人々が自分のしたいことを優先させていた時代です。
 エリという祭司がおり、その2人の息子たちも祭司をしていました。
 彼らは民がささげたいけにえの一番よい部分を自分たちのものにしていました。
 神様は彼らを撃ちます。

 それに対し今日の本文の祭司たちは自分のことを後回しにし、まず給仕する者、仕える者に徹しています。
 これが礼拝者に求められる姿です。

受け取ること仕えられることばかりを求めないで

 私たちは何を求めて礼拝に集うのでしょうか。
 自分が神様から受ける恵み、教会から受ける助け、そのように受けることばかりを求めてしまうことがあります。
 もちろん神様はあなたにたくさんの恵みを注いでいます。教会は互いに重荷を負い助け合います。それを求めること自体は悪くありません。
 しかし自分がいかに多く受け取れるか、どれほど仕えてもらえるかを追い求めてはいけません。

ご自分の肉と血さえささげられたイエス

 イエス様が命じた礼典は、プロテスタント教会においては洗礼式と聖餐式の2つです。
 聖餐式は過越の食事の場面でイエス様が、このように行いなさいと命じたことに由来します。それは、1つのパンを裂いて「これはわたしの体である」と言い、ぶどう酒の杯を回しながら「これはわたしの血である」と言われたことです。イエス様がご自分の肉と血をもささげられた。そのことを記念し聖餐式を行います。
 だからパンを裂く儀式、聖餐式ではささげること仕えることが求められます。

 ところがコリント教会ではパンを裂く儀式で問題が起こっていました。

あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。

コリントの信徒への手紙一11:21

 奴隷制度があった時代です。
 礼拝の中でパンを裂く儀式が行われ、ぶどう酒が飲まれました。
 余裕のある立場の人たちは早くパンを食べ、ぶどう酒を飲むことができました。酔っぱらう人までいます。
 それに対し仕える立場の人たちは自分たちの分は後回しで仕えます。彼らの奉仕が終った頃にはパンもぶどう酒も残っていません。
 イエス様がこのように行いなさいと言われた聖餐式とはかけ離れたありさまでした。

 私たちも神の教会を見くびり、自分がいかに受け取れるか仕えられるかを求めてしまってはいないでしょうか。
 むしろいかにささげられるか、仕えられるかを追い求めてほしいです。

仕える者になりなさい

43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

マルコによる福音書10:43-45

 2000年前の最初のクリスマス、イエス様は何のために来られたのか。それは仕えるためでした。
 自分のことばかりを考え、偉い人として扱われること、仕えられることばかりを追い求める自己中心的な私たちが、罪から離れて命を得るために、イエス様はご自分の命をささげました。そしてあの十字架で死なれました。
 この愛を受け取ったならば、私たちはもう自己中心に生きられません。
 イエス様はご自分のすべてをささげてくださいました。
 私たちはすべてとは言えないけれど、可能な限りささげる者仕える者でありたい。

御心に従うところに一致がある

 神の言葉に従って過越祭をささげたヨシヤ王。サムエルの時代以来祝われたことのないほどの規模でした。
 そこには南ユダだけでなく北イスラエルの民も共に礼拝をささげていました。
 自分を捨てて神の御心に従うとき、一致が生まれます。バラバラだった者が1つにされます。

 「天には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
 イエス様が何のために私たちのところに来られたのかを思い起こし、神様の御心に適ったクリスマスを備えていきましょう。

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