私は人であり神でない

エゼキエル書講解37

私は人であり神でない

エゼキエル書 28:1-10

1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。3 お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。4 お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。5 お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。6 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。7 それゆえ、わたしはお前に対して諸国の中でも最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、8 お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。9 お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。10 お前は割礼のない者として、外国人の手にかかって死ぬ。まことにわたしがこのことを語った」と主なる神は言われる。

神から人に委ねられた裁き

 人が人の命を奪うことを正当化できるでしょうか。
 死んだ方がいい人間や、生きる価値のない人間などいるのでしょうか。生産性という言葉で人間を評価していいのでしょうか。
 人を裁くこと、命を与え、奪うことは、本来は神の領域です。
 神はその役割の一部を人に委ねました。
 この世の裁判官は被告人の罪を裁き、刑を宣告します。今でも世界の半分の国では死刑制度があります。死刑になった人は国の命令で刑が執行されます。
 制度はあるが実際には執行していなかったり、特別な場合に限定されている国もあるため、国の数で言うと死刑は少数派です。
 しかし中国、インド、アメリカ、インドネシア、日本など、人口の多い国で死刑が執行されています。ですから人口で言うと死刑によって国に命を奪われる可能性がある人の方が多数派です。

 今月、日本では13人もの人に死刑が執行されました。オウム真理教の教祖と幹部たちです。
 彼らがしたことは確かに凶悪な犯罪です。罪を犯したならその罰を受けなければなりません。
 だとしても、その人の命を奪うことがふさわしい罰なのでしょうか。死刑によって何が解決するのでしょうか。

 オウム真理教の信者の中には優秀な人も多くいました。
 先週金曜日に死刑が執行された広瀬健一元死刑囚もその一人です。
 彼は早稲田大学理工学部応用物理学科を首席で卒業しました。その後大学院に進学し、超電導の研究で業績を残しています。
 生きる目的は何かを探求していた彼は麻原彰晃の書いた本を読み、宗教体験をします。一種の幻覚なのですが、これで広瀬健一は、オウムは本物だと錯覚してしまいます。
 それから入念な洗脳を受け、その優秀な頭脳を利用されていきます。自動小銃の密造などに関わりました。
 そして地下鉄の車内でサリンの入ったビニール袋に傘を突き刺しました。
 地下鉄サリン事件の実行犯として逮捕、起訴され、死刑判決を受けました。
 獄中で彼は徐々に洗脳を解かれていきます。そしてオウムを脱会しました。
 後に彼は手記を残しています。なぜオウム真理教というカルト団体に入ってしまったのか。なぜ空中浮遊のような物理法則に反することを信じたのか。なぜ凶悪な犯罪に手を染めたのか。広瀬健一はとても詳細に書き残しています。
 これはとても貴重な証言です。オウムだけではなく、あらゆるカルト団体を知る上で重要な資料になります。
 彼の持っていた優秀な頭脳を、カルトの被害を撲滅するために用いる道もあったはずです。
 しかしそのような優秀な人材と彼の持っていた可能性は日本政府によって奪われました。
 果たしてこれが最善の選択肢だったのでしょうか。

 私たちは忘れてはいけません。人を裁くこと、人に命を与え、奪うことは本来は神の領域です。
 そして私たちは人であって、神ではありません。

ティルスへの預言

 今日の本文はティルスへの預言です。
 海上貿易で繁栄し、海に囲まれた要塞に住んでいたティルスの王は、「私は神だ」と思いました。
 しかし彼の持っていた知恵も富も、彼を本当に幸福にするものではありません。割礼のない者として滅ぼされます。

知恵によって神を捨てる

 まず今日の本文の1節から4節で『1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。3 お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。4 お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。』 とあります。
 ティルスは知恵によって神を捨てました。

ダニエルより知恵がある

 ティルスはフェニキア人が建設した都市国家の一つです。海上貿易で繁栄しました。
 ダビデ王の時代に、ティルスの王ヒラムは神殿建築のためにレバノン杉や石を提供しています。
 そのヒラム王は陸から1㎞ほど離れた島に街を作り、島全体を要塞化しました。まさに海の中に住んでいました。
 繁栄を極め、誰も手出しできない要塞に住んでいたティルスの王はこう言いました。
 『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』。
 フェニキア人は海を支配し繁栄した民族ですが、ただの野蛮な海賊というわけではありませんでした。彼らは知恵をもって経済活動をした商人でした。
 主なる神様もその知恵を評価しています。ダニエルよりも賢いとまで言っています。
 ダニエルといえば、エゼキエルと同じ時代に活躍していたユダヤ人です。捕囚の身分でありながら、ネブカドネザル大王の夢を解き明かしました。そしてバビロンの全ての知者の長官にまで出世しました。
 そのようなユダヤ人の英雄より、ティルスは知恵があると言っています。

知恵によって富を得る

 ティルスがどのような国々と貿易していたのかは27章に詳しく書かれています。
 ペルシア、エジプト、アラビア、タルシシュなど、色々な地名が出てきます。今の国名で言うと、イランからスペインまでです。
 ティルスはそれぞれの地域の特産物を運びました。
 ある地域でよく取れる物というのは、安く仕入れることができます。しかし別の地域では珍しく、高く売ることができます。
 日本のお菓子や薬を杏林堂で爆買いして、中国に持っていくと高く売れるようなものです。
 ティルスの人々はこのように知恵によって富を蓄えていきました。

神は死んだ

ブリューゲル「バベルの塔」

 人は中途半端に知恵を持つと危険です。
 ニムロドの時代にシンアルの地に定住した人々は知恵がありました。建築に革命を起こし、巨大な塔を建築しました。
 彼らは天まで届く塔を建てよう。神に邪魔されない世界を造ろうと考えました。
 知恵によって彼らは、もう神などいなくていいと思ったのです。

 現代も同じです。
 科学技術が発達してくると、それまで神秘とされていたものが人間の知恵によって説明されるようになりました。そして科学者たちはあらゆるものを神なしに説明しようとしてきました。
 この世界は神が計画を持って創造したのではない。偶然ビッグバンが起き、偶然星ができ、偶然生き物ができ、それが偶然進化し、人間になった。
 私たちは偶然生まれた。あなたがいてもいなくても世界には何の影響もない。生きる目的、存在する理由などない。
 そして哲学者ニーチェは言いました。

ニーチェ

 「神は死んだ。」

 神が死んだのなら、誰が道徳観を決めるのでしょうか。

 小学校で道徳が教科になり、学校の先生が子どもの道徳観に点数をつけなければならなくなりました。
 点数をつける基準は頭のいい人たちが決めます。では知恵ある人たちが神に代わる正しい道徳観を持っていると言えるでしょうか。
 少しだけ昔、優生思想という考えが世界中で研究されていました。
 日本でも頭のいい人たちが優生思想を研究し、それを政治に反映していました。
 そこで何が行われていたかというと、知能に障害を持った人やハンセン病の人は子どもを産めないように、強制的に手術をしました。
 優秀な子どもを作るために、遺伝子をデザインしようと考えたのです。
 これは昔の話ではありません。今でも日本のある政治家は、LGBTのような生産性のない人に税金を使うのは合理的でないと言っています。
 こうして知恵ある人々が神の座につきました。中途半端に知恵を持った結果です。

 パウロは当時の最高の学問を学んだエリートでした。
 彼が自分の知恵で出した答えは、クリスチャンは女性や子どもでも投獄するというものでした。
 しかしこのときパウロは自分が盲目であることを知りませんでした。
 後に復活のイエスに出会ったパウロは、目から鱗のようなものが落ちます。
 自分に知恵があると思い込んでいる人は要注意です。その人はまだ本当に知らなければならないことを知りません。

 ソクラテスは無知の知を唱えました。
 ダニエルより、ティルス人より知恵のあったソロモンはこう言っています。

主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

箴言1:7

富に支配される

 次に今日の本文の5節に『5 お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。』 とあります。
 私たちはこの世の不完全な満足を追い求め、その奴隷になります。

富を求める

 ティルスは多くの富を得ました。
 ティルスは宝石で囲まれ、まるで神の園であるエデンのように美しいと主が言っています。
 エデンの園はどういうところだったでしょうか。こっちにブドウ、あっちにリンゴ、そっちにはミカン、モモ、メロン、いちご、食べ物がそこらじゅうにありました。
 幸せですね。
 ティルスは富を追い求め、富によって満足を得ようとしました。
 世界中の珍しい物やおいしい物に囲まれていたら幸せそうですよね。

不完全な満足

 しかしそれは本当の満足ではありません。
 富があることで苦しまなければならないことも出てきます。富をどのように使おうか、どのように管理しようか。富がなければそんな心配しなくていいです。富があるから心配が増え、そして隣のあいつよりもっと富を得てやろうと競争させられます。
 富を追い求めている間は、そのようなリスクは考えません。とにかく富を得よう。富があれば幸せだと思い込まされます。富に誘惑されているのです。
 他にも酒、タバコ、ドラッグ、ギャンブル、ゲーム、セックス、恋愛などが私たちに幸せを提供するように思わせてきます。
 これらは実際には不完全な満足です。

 私が最近出会ったある人は、神様がいるとしたら叶えてほしい願いがあると言いました。
 何かというと、アニメの番組数を増やしてほしいというのです。
 30代後半くらいのおじさんでしたが、アニメを見れば幸せになると言います。
 アニメそのものが悪いとは言いません。しかしアニメを見れば幸せになる、アニメが自分を幸せにしてくれるというのは大きな勘違いです。

 私たちはこの世が提供する不完全な満足に誘惑され、中毒になっていきます。
 これから日本でカジノが始まることになりそうですが、勘違いしないように注意が必要です。

富が主人になる

 イエス・キリストは山上の垂訓で富について警告しています。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

マタイによる福音書6:24

 ここで富という言葉はギリシア語でμαμμωνας(マンモーナス)という単語が使われています。
 富を人格を持った存在のように語っています。
 これを神と対比して語ることで、富が偶像となりうることを警告しています。
 富を追い求めれば、富が主人になり、私たちは富の奴隷になってしまうのです。

 本当の喜びはどこにあるのでしょうか。
 それは主にあります。主が私たちを満たして下さいます。
 何を食べようか、何を着ようかと心配する必要はありません。必要は主が満たして下さいます。

 ある大学教授はタバコを止めることができませんでした。1日3箱も吸うヘビースモーカーでした。一番の楽しみは、夕食後にタバコを吸うことでした。
 ある日、教え子の紹介で教会に導かれました。彼はそこでイエス・キリストに出会います。
 そこで教え子は「先生、これからはタバコもやめようね」と軽い気持ちで言いました。
 教授も何気なく「ああ」と言いました。
 それから不思議なことが起こりました。
 家に帰って夕食を食べました。奥さんはいつも通り皿を片付け、灰皿を出しました。
 しかしその日は、ただ灰皿を見つめるだけでした。
 今まで一番の楽しみだったものが、何の感情も起こしません。
 1本口にくわえてライターの火を近づけてみましたが、何とも思いませんでした。
 もうタバコがいらなくなっていました。
 なぜでしょうか。イエス・キリストに出会ってしまったからです。
 この心を完全に満たす、本当の喜びを知ってしまったのです。
 それまではタバコという不完全な満足を追い求めていました。
 しかし完全なものが心にあるなら、不完全なものが心に入る余地はありません。
 私たちの心を満たすことができるのは、ただ主だけです。

心に割礼を受ける

 最後に今日の本文の6節から10節に『6 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。7 それゆえ、わたしはお前に対して諸国の中でも最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、8 お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。9 お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。10 お前は割礼のない者として、外国人の手にかかって死ぬ。まことにわたしがこのことを語った」と主なる神は言われる。』 とあります。
 私たちは心の包皮を切り捨てる必要があります。

知恵も富も頼れない

 知恵と富によって高慢になったティルスに、主は暴虐な人々を遣わします。バビロン人です。
 彼らは剣を持ち、ティルスを包囲します。

 戦争のときでも知恵や富はある程度役に立つでしょう。
 シラクサの市民だった数学者アルキメデスは、その知恵を用いて兵器を開発しました。島を守るための兵器です。
 島に近づいてきた敵の船を巨大なクレーンで転覆させたり、太陽の光を集めて船に火をつけたりしました。
 知恵と富を用いれば、不利な状況を逆転させることもできます。

アルキメデス

 しかしそんなアルキメデスも剣を持ったローマ兵の前では無力でした。
 ローマがシラクサに侵略したとき、一人の老人が地面に落書きをしていました。
 邪魔だったのでローマ兵はずかずかと近づき、その落書きを足で踏みつけました。
 ローマ兵はアルキメデスは生かしておけと命じられていたので、一応名前を聞きました。
 しかしその老人の答えは、「図を壊すな!」でした。
 怒ったローマ兵はその老人を斬り殺してしまいました。
 じつはこの老人こそ、アルキメデスだったのです。
 数学者としては誇り高い死に方ですが、あまりにあっけない最期でした。

 圧倒的な自然の前では科学技術も先進国の財力も無力です。
 そして死という人間の最大の問題の前に、知恵も富も無力です。

あなたは人

 果たして剣を持った者を前にしても、ティルスの王は「私は神だ」と言えるでしょうか。
 自分が何者かを知る必要があります。
 この心を覆う、高慢な思いを切り捨てなければなりません。

 アラムの将軍ナアマンは、アラムに大勝利をもたらした英雄でした。
 しかし彼は重い皮膚病になります。
 自分の力も、今までの輝かしい栄光も意味がありません。
 そのときナアマンは、一人の少女の声に耳を傾けました。
 「イスラエルにエリシャがいます。」
 その少女は自分が侵略したイスラエルの町から捕虜として連れて来て、奴隷として働かせていた女の子でした。将軍に意見できる立場ではありません。
 しかし重い皮膚病になったことでナアマンは全てのプライドを捨てなければなりませんでした。
 こうしてナアマンはエリシャに会い、癒されます。

真の神に立ち帰る

 私たちは割礼のない者として死んではいけません。心の包皮を切り捨てなければなりません。
 私たちが相変わらず高ぶるなら、私たちはポンテオ・ピラトの席に座ることになります。自分に何か権威があるかのように思い込み、人を裁きます。
 そしてイエス・キリストを十字架につけて殺すのです。
 しかし実際にはキリストこそ裁き主です。
 その方が天の栄光を捨て、私たちのところに来てくださいました。
 そして私たちのために死に、復活されたのです。
 だから私たちも自分の心の王座から降り、キリストを心に受け入れるのです。

あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。

申命記30:6

 私たちは自分の持っているもので高ぶり、自分を神にしてしまいます。
 真の神に立ち帰って命を得るために、心の包皮を捨てるのです。
 私たちは神ではなく人間です。キリストと共に死に、キリストと共に生きるべき人間です。
 イエスを主とするとき、本当の幸せで満たされます。

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