自分の道を思い起こす

エゼキエル書講解26

自分の道を思い起こす

エゼキエル書 16:59-63

59 主なる神はこう言われる。お前が行ったように、わたしもお前に対して行う。お前は誓いを軽んじ、契約を破った。60 だが、わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。61 お前は自分の道を思い起こし、姉たちと妹たちを受け入れるとき、恥を負うであろう。わたしは、彼女たちを娘としてお前に与える。しかしお前が契約を守ったからではない。62 わたしがお前と契約を立てるとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。63 こうして、お前が行ったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを思い起こして恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる」と主なる神は言われる。

道を踏み外す

 〇〇道と呼ばれるものがいくつかあります。柔道、剣道、合気道、弓道、書道、茶道、テコンドー、…。
 これらはただ強さや技術を求めるのではなく、礼儀作法を大事にします。
 挨拶をすること。相手を尊敬すること。感情を制御すること。
 これらの作法の中には、古くなって形だけ残っているものもあります。
 たとえば畳の端を踏んではいけないとか、移動するときに人の前を横切ってはいけないとかです。
 何のためにそうするのでしょうか。
 もし畳の下に忍者がいたり横切った相手が忍者だったりしたら危ないからです。
 サムライの時代には意味があったかもしれませんが、現代はそんなこと気にする必要はありません。
 また相撲で女性が土俵の上に上がってはいけないという掟があります。
 これは神道に由来するものだそうですが、差別的で問題視されています。
 また武道では感情を表に出すことを慎みます。
 負けて悔しくても泣いてはいけないし、勝ってうれしくてもガッツポーズをしてはいけません。
 剣道の試合でガッツポーズをしたために勝利を取り消されたこともあります。

 これは日本的な道徳観から来ています。
 日本では感情を表に出すことを恥ずかしいことだと考えます。喜びも怒りも悲しみも楽しさも心に隠しておかなければなりません。
 それは苦しいです。うれしくても喜べない。悲しくても泣けない。
 道を究めた人を見るとその沈黙の中に相手への尊敬など愛があることがわかります。
 しかし道を究めるのは難しいです。道から外れることもあります。
 外れたらどうするのか。外れたところに戻り、そこからやり直せばいいです。
 そのために教えてくれる先生、師範がいます。師範の模範に従う中で、身についていきます。
 道を究めていくと、技術的にも人格的にも素晴らしい技が身についていきます。

 主の道も難しいです。すぐに外れてしまいます。
 外れたところから立ち直らせ、完全な模範を示してくださる方がいます。
 その方の愛の模範に従っていくとき、私たちは素晴らしい主の御業を目撃することになります。

救われた人の歩むべき道

 今日の本文は主がエルサレムと永遠の契約を結ぶと約束する場面です。
 エルサレムを一人の娘の成長にたとえています。血の中でもがいていた彼女を主はありのままで愛し、生きよと言われました。
 主はエルサレムちゃんと契約を結びます。
 しかしエルサレムちゃんは主を捨て、姦淫の罪を犯しました。そこで主は恐ろしい裁きを下します。
 それでも主はエルサレムちゃんを見捨てず、永遠の契約を結んでくださいます。
 恵みで救われたエルサレムちゃんには、これから歩むべき道があります。
 私たちは罪を犯して滅びるべき存在ですが、イエス・キリストの仲介によって新しい契約が結ばれています。
 私たちは救われて終わりではなく、これから歩むべき道があります。
 主を信頼し従うとき、私たちは偉大な主の御業を目撃します。

新しい契約

 まず今日の本文の59節60節で『59 主なる神はこう言われる。お前が行ったように、わたしもお前に対して行う。お前は誓いを軽んじ、契約を破った。60 だが、わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。』 とあります。
 私たちはイエス・キリストを仲介者として新しい契約、永遠の契約を結んでいます。

契約違反

 主はエルサレムちゃんを救い、契約を結んで花嫁としました。
 どのような契約だったのでしょうか。その内容までは聖書に書かれていません。
 結婚式の誓約を考えてみればいいです。
 夫は妻に、病める時も健やかなる時も貧しい時も富める時も死が二人を分かつ時まで変わらない愛で愛し続けること、そのためにどんな犠牲を惜しまないことを約束します。妻は夫に、病める時も健やかなる時も貧しい時も富める時も死が二人を分かつ時まで変わらない愛で愛し続けること、そのために夫を頭として立てて従うことを約束します。
 実際に主はエルサレムちゃんを愛し、必要なものを充分に与えました。美しく着飾らせ、豊かな食物で養いました。
 ところがエルサレムちゃんは主から与えられたプレゼントを間違った方向に使ってしまいます。姦淫の道具にして、他の男たちを求めたのです。契約違反です。
 そこで主は「お前が行ったように、わたしもお前に対して行う。」と言われます。
 エルサレムちゃんが主を捨てたように、主もエルサレムちゃんを捨て、他の男たちに渡します。
 つまりイスラエルが周りの国々によって攻め滅ぼされるという恐ろしい裁きを予告しています。
 私たちも主の愛を受けており、必要なものは十分に与えられています。
 ですから私たちは主に従い、主の栄光を表すべき者です。
 ところが人は主との約束を破り、罪を犯しました。
 こうして人は永遠の命を失い、死ぬべき存在になってしまいました。

キリストの贖い

 契約に違反したとき、誰かが間に入って助けてくれたらいいです。
 家を契約するとき、家賃を払えなくなってしまったら大変です。そこで保証人を立てます。もし万が一、契約した本人が家賃を支払えなくなった場合、保証人に請求が行くことになります。保証人が家賃を支払ってくれれば、継続して住むことができます。
 このように契約違反の罰を代理人が引き受け、代わりに弁償してくれたなら、相手も約束を思い起こしてくれます。
 私も神学生のときに奨学金の返還ができなくて、父と父の兄に請求が生きました。代わりに払ってくれず、叱られました。自分で働いて返すべきなので、当然です。
 私たちの背きの罰は自分では負いきれません。そこで主はご自身の独り子であるイエス・キリストを私たちに与えてくださいました。
 イエス・キリストは十字架で神の怒りと呪いを引き受けました。また十字架に至るまで主に従いました。
 このイエス・キリストの贖いによって、私たちは罪赦され、義とされています。
 主は私たちへの変わらない愛を思い起こしてくださいます。
 これは永遠の契約です。

耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。

イザヤ書55:3

信じる

 契約関係を整理しましょう。
 主と私たちの間に結ばれた契約内容は、主の義務は私たちに永遠の命を与えること、人の義務は主に従うことでした。
 しかし人は主に従えませんでした。
 契約違反の罰として、人は死ぬべき存在になりました。
 そこで仲介者として主はイエス・キリストを与えてくださいました。
 イエス・キリストは主に従い通し、死の刑罰を引き受けました。
 後は何が必要ですか。私たちがこのイエス・キリストのしてくださったことを信じることです。
 新しい契約が結ばれたことを知り、この契約関係に帰って来ることです。
 そのとき主の約束された永遠の命が与えられます。信じれば救われるのです。
 もう神に受け入れてもらおうと空しい努力をする必要はありません。
 ありのままで愛されていることを信じるのです。

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

エフェソの信徒への手紙2:8

 これは永遠の契約です。
 私たちは相変わらず罪を犯します。主に従えないときはあります。失敗することはあります。
 そのとき、やっぱりダメだ。私はクリスチャンとしてふさわしくない。こんな弱い姿は見せられない。このような思いが湧いてくることがあります。
 これは嘘です。偽物の声に惑わされてはいけません。
 忘れないでください。私たちが正しいから救われたのではありません。
 ただイエス・キリストの贖いの業によって救われたのです。
 失敗してもいい。間違えてもいい。足りなくてもいい。ありのままで愛されている。
 私たちはただ信じれば救われます。

自分の歩むべき道

 また今日の本文の61節62節に『61 お前は自分の道を思い起こし、姉たちと妹たちを受け入れるとき、恥を負うであろう。わたしは、彼女たちを娘としてお前に与える。しかしお前が契約を守ったからではない。62 わたしがお前と契約を立てるとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。』 とあります。
 救われたものには歩むべき道があります。

主を愛する

 私たちは信じるだけで救われます。
 救われて終わりではありません。救われてからの人生があります。
 私たちはどのように生きるべきでしょうか。
 主がエルサレムちゃんに願ったことは何だったでしょうか。
 主は「生きよ、生きよ」と繰り返して言われました。
 ただ生存しているということではありません。主との愛の交わりの中で生きよと命じたのです。
 完璧じゃなくてもいい。足りなくてもいい。不器用でもいいから主の愛を受け、主を愛して生きてほしい。

 聖書の中には様々な掟があります。旧約聖書だけで613個です。
 その全ての掟はたった一言で要約できます。
 それは愛です。

29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

マルコによる福音書12:29-31

 またイエス・キリストは

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネによる福音書13:34

と命じました。
 愛すること。それが私たちの生きる道です。

和解する

 主はエルサレムちゃんに、姉と妹を受け入れるようにと勧めています。姉はサマリアさん、妹はソドムちゃんです。
 エルサレムにとってサマリアは最も近くにあって最も憎い存在です。元は同じ民族です。
 しかしレハブアム王の時代に10の部族が反逆し、イスラエルは北と南に分断されてしまいました。エルサレムはサマリアを汚れた民族として憎み続けました。
 このように愛すべき存在が一番の敵になることがあります。
 殺人事件が最も起こりやすいのは、家族や親戚の間です。
 遠い国にいるテロリストのことはテレビを消せば忘れますが、家族から受けた心の傷は何年も忘れられません。

 どうしたらそんな相手を受け入れることができるでしょうか。
 主の愛を思い起こすのです。
 主は、私たちの罪は憎みましたが、私たちの存在はありのままで受け入れています。
 相手の罪を忘れることができなくても、相手を愛することを選択するのです。最も愛することが難しい存在を愛するのです。
 家族に対して苦い思いがある人もいるでしょう。親を憎み続けて生きる人もいます。教会の兄弟姉妹の中にどうしても受け入れられない人がいることもあります。
 相手が変わるのを待っていては、いつまでたっても憎しみの奴隷のままです。
 まずこちらから歩み寄るのです。イエスが愛したように愛することを選択しましょう。
 最近北朝鮮もついに限界が来たようで、色々な変化が見られます。
 色々な苦い思いを持っている方々がいると思いますが、和解が進んで行けばいいと思います。

 一方、ソドムはずっと昔に滅んだ町です。
 彼らは高慢になり、恵みの賜物を無駄使いし、貧しい人々を苦しめ、みだらな行いにふけりました。
 そこで主は火と硫黄の雨をもってソドムを滅ぼし尽しました。
 エルサレムは自分のことは棚に上げ、ソドムの悪口を言いました。
 ソドムはひどい町だった。私たちの中にもソドムの影響がある。私たちは悪くないが、ソドムのせいで乱れてしまった。
 私たちはこのように自分の問題を他の人や環境のせいにしてしまうことがあります。
 こうして自分の問題と向き合うことから逃げてしまいます。
 親が悪い。教会が悪い。社会が悪い。病気のせいで。神様がこうしたから。責任転嫁し続けます。
 罪を犯したのは自分です。自由意思をもって、自分で選択してきたのです。
 悪いのはソドムではありません。自分です。
 自分の問題と向き合うところから治療が始まります。
 過去の傷は癒され、過ぎ去っていきます。

神の子とされる

 こうしてサマリア姉さんやソドムちゃんを受け入れるとき、主は彼女たちを娘として与えると約束します。主とエルサレムちゃんの家に養子として入るわけです。
 誰の子どもですか。主の子どもです。滅びるべき彼女たちも神の子になるのです。
 私たちが主の愛を実践していくとき、私たちの周りに変化が起こります。

 1974年、豊田龍彦という伝道者が天に召されました。
 ある夏の夜に山に徹夜祈りに行き、祈りの姿勢のまま亡くなっていました。33歳でした。
 豊田先生には5人の息子がいましたが、5番目の献児くんは生まれてまだ9日でした。
 母親1人で育てることは難しく、生後半年のとき、献児くんは有賀喜一先生の養子になることになります。
 献児くんは自分が養子であることは大きくなるまで知りませんでしたが、子どもの頃にある夢をよく見たそうです。自分が爆弾に入れられ、吹き飛ばされる夢です。
 生後半年で養子に出されましたが、心のどこかで自分は捨てられたのだという思いがあったのかもしれません。
 17歳のときに実は養子で、血のつながった兄が4人もいるということを聞かされますが、会うことには大きな抵抗がありました。
 当然です。献児くんの心には大きな傷がありました。
 献児くんは23歳になって、結婚を前にお兄さんに会おうという思いが与えられました。そして長男の信行さんが牧会している教会を訪ねました。
 そこで自分が養子に出された経緯、また9歳だった信行さんが車で連れられていく自分を家から飛び出して追いかけてくれたことを聞きました。
 そのとき献児さんの目からは自然に大粒の涙がこぼれていました。
 自分を捨てたと思っていた家族に会いに行ったとき、兄弟の和解が生まれました。
 私たちが愛することを決断するとき、家族が変えられ、学校が変えられ、職場が変えられ、この町が変えられていきます。
 決して私たちがよい行いをしたから人が変わるということではありません。私たちには人を救う力はありません。
 私たちがキリストの愛の模範に従うとき、主の栄光が表されます。
 こうして人々は主に出会い、救いへ導かれていきます。
 愛すること。それが私たちの生きる道です。

口を開かない

 最後に今日の本文の42節で『63 こうして、お前が行ったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを思い起こして恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる」と主なる神は言われる。』 とあります。
 信じる者は主の前に静まり、主の偉大な御業を目撃します。

正義を行う

 私たちは赦されています。過去、現在だけではなく未来に犯す罪まで赦されています。
 では何をしてもいいのでしょうか。
 自分のしたこと、自分の不名誉を忘れてはなりません。
 ありのままの私たちは罪の中でもがき、死ぬべき存在でした。それを主が愛し、生きよと言ってくださいました。
 私たちを生かすために主がどれほど大きな犠牲を払ってくださったのでしょうか。独り子イエス・キリストを与えるほどの愛です。
 だとすれば私たちは滅びへ向かっていた古い自分を脱ぎ捨て、正しく清い人を身に付けるのです。
 正しい人は余計なことを言いません。
 不安な時ほど、口から言葉が漏れ出してきます。
 自分が正しく扱われると確信しているなら、静かに待っていられます。

心休まる

 主は正しいお方です。正しく裁きます。
 私たちが主を信じるとき、その正しい裁きに身を委ねます。
 イエス・キリストは十字架につけられる前に裁判を受けました。それは不正な裁判でした。夜中に逮捕され、そのまま裁判にかけられます。何人かの証人が立ちますが、誰もイエス・キリストの罪を指摘できませんでした。有罪にする証拠がなければ無罪にするべきです。しかしこの裁判は初めからイエス・キリストを死刑にするために開かれた裁判でした。
 イエス・キリストはこの裁判の不正を指摘することもできましたし、自分の身の潔白を主張することもできました。しかしイエス・キリストは何も答えませんでした。
 まるで屠り場に引かれる小羊のように沈黙しました。
 この世の人間の罪の中にあっても、父なる神の正しい裁きを信頼し、委ねていたからです。

もう怒らない

 私たちは試練にあうとき、「なぜ?」と言いたくなります。
 なぜかと聞いても主は答えてくれません。神の計画は人の理解を超えているからです。知らなくていいことは教えません。
 それで私たちは「なぜですかー!」と主に対して怒ることもあります。
 私たちが取るべき態度は、この試練を通して神は何をしようとしておられるのか、主の御心に焦点を合わせることです。

信仰で開かれる道

 ヨセフは苦難を受けました。兄たちから捨てられ、奴隷になります。忠実に働きましたが、主人の妻の陰謀で囚人になってしまいます。
 なぜこんなことになってしまうのでしょうか。
 ヨセフはそこで、どんな状況でも忠実に従うことを学びました。
 そして外国人の奴隷でありながら、囚人の中のリーダーにもなりました。そしてそのどん底から、エジプトの総理大臣になります。
 奴隷の軛を負わせ、囚人の足かせをはめたのが主であることを知りました。
 そして主が人の悪を善に変えるお方であることを信頼したのです。
 たとえ道が見えないことがあるとしても、主は道を開くことを信頼するのです。

 目の前に海が立ちはだかり、背後からエジプト軍が迫って来たとき、モーセはこう言いました。

13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

出エジプト記14:13-14

 正しい人の生きる道は信仰で開かれます。

 私たちは主を信頼します。この世がどんなに罪に汚れていても、私たちは主の真実を信頼します。
 主を信じ、主の愛に生きることが私たちの生きる道です。
 そのとき、私たちの人生を通してなされる主の偉大な救いを目撃します。

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