自立した信仰者

歴代誌講解61

自立した信仰者

歴代誌下 24:15-27

15 ヨヤダは年老い、長寿を全うして死んだ。死んだとき、彼は百三十歳であった。16 その遺体はダビデの町に諸王と共に葬られた。彼はイスラエルにおいて神とその神殿のために著しい貢献をしたからである。17 ヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。そのとき、王は彼らの言うことを聞き入れた。18 彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪悪のゆえに、神の怒りがユダとエルサレムに下った。19 彼らを主に立ち帰らせるため、預言者が次々と遣わされた。しかし、彼らは戒められても耳を貸さなかった。20 神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」21 ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。22 ヨアシュ王も、彼の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」23 年が改まるころ、アラムの軍隊がヨアシュに向かって攻め上った。彼らはユダとエルサレムに攻めて来て、民の中の高官をすべて殺し、戦利品をことごとくダマスコの王のもとに送った。24 攻めて来たアラム軍の兵士は少数だったが、ユダとエルサレムの人々が先祖の神、主を捨てたので、主は極めて大きな軍隊をアラム軍の手に渡された。こうして彼らはヨアシュに裁きを行った。25 彼らがヨアシュに重傷を負わせて去ると、家臣たちは、祭司ヨヤダの息子の血のゆえに、共謀し、ヨアシュを寝床で殺した。彼は死んで、ダビデの町に葬られたが、王の墓には葬られなかった。26 共謀者は、アンモンの女シムアトの子ザバドと、モアブの女シムリトの子ヨザバドであった。27 ヨアシュの王子たち、王に向けられた数々の託宣、それに神殿の修復については、『列王の書の解説』に記されている。その子アマツヤがヨアシュに代わって王となった。

自立

 自立した人とはどのような人でしょうか。
 自分のことは自分でできる人。自分を律することができる人。
 たとえば夏休みの宿題を親に言われなくてもできる人など。

依存した積み木
自立した積み木

 積み木の棒を立たせてみます。
 他の積み木に寄りかかって立っているなら、この積み木は依存した状態にあります。
 1本だけで立っていられるなら、自立していると言えます。

3本の自立した柱で家を建てる
3本のうち1本でも倒れれば家は崩れる

 これらの積み木で柱を立て、家を作ってみます。
 高さが同じ3本の柱(同一直線上にない)を立てれば、屋根を乗せられます。
 この内の1本でも倒れれば、屋根が落ち家は崩れます。

 この積み木の家を私たちの人生に見立てるなら、身体的、精神的、経済的な柱がそれぞれ自立していないと、その人の人生は自立した状態にないと言えるのではないでしょうか。
 身体的に自立している人は、自分で自分の生活を営むことができる人です。食事をいつも他人任せで自分で作れない人は、自立できていません。
 精神的な自立は、自分の頭で考えて行動できるということです。いつもママ頼みでは困ります。進路選択、就職、結婚、夫婦間のトラブルまでママ頼みではダメです。
 経済的な自立は、自分の手で働いて正当な収入を得るということです。親のスネをかじり続けることはできません。
 これら身体的、精神的、経済的な柱が1つでも倒れれば、生活全体が崩れます。

霊的な柱も存在する?

 そこにもう1つの柱を加えることもできるかもしれません。霊的な柱です。
 霊的な柱、つまり信仰生活も誰かに依存したままではいけません。
 依存していた相手がいなくなると、自分の信仰まで倒れてしまいます。

信仰は人生の土台

 今日の本文は南ユダ王国7代目ヨアシュ王の最期です。
 ヨアシュは赤ちゃんの時に助け出され、神殿で大祭司ヨヤダの教育を受けました。そして7歳の時に王になります。
 その後もヨヤダが摂政として王を支えました。
 ヨアシュはヨヤダが生きている間は主の目にかなう正しいことを行います。

ヨアシュを支えたヨヤダの死

 そのヨヤダが130歳で亡くなりました。
 アタルヤによって南ユダ王国にバアル崇拝、アシェラ崇拝が持ち込まれましたが、ヨヤダはアタルヤを倒し、民には神の民となる契約を結ばせ、バアル崇拝を駆逐しました。
 神殿の修復にも貢献し、神が定めた通りの礼拝が回復しました。
 神とその神殿のために著しい貢献をしたヨヤダは、かつての王たちと並んで葬られました。
 祭司でありながら王の墓に葬られるのは異例の扱いです。

高官の言うままに主を捨てたヨアシュ

 ヨアシュについて歴代誌は「ヨヤダが生きている間は主の目にかなう正しいことを行った」と記します。言い換えると「ヨヤダが亡くなると主の目にかなう正しいことを行わなかった」ということです。
 ヨヤダが死ぬと、ユダの高官たちはアシェラ崇拝を取り入れるよう王に勧めました。王は簡単に彼らの言うことを聞き入れます。
 ヨアシュは幼少期から大切に育てられてきたことでしょう。ダビデ王家の最後の生き残り。この子に何かあったらダビデ王朝は断絶する。何が何でも守り通さなければならない。それで周りの人はいつも先回りして問題を解決してあげたかもしれません。
 そうやって過剰に守られた人は、自分で悩む必要がなくなります。他の人に任せておけば済むのだから、他人任せの依存した人生になってしまいます。
 そしてユダの高官たちの言うがまま、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えることを認めてしまうのです。
 ユダの高官たちにとってヨヤダは邪魔者だったかもしれません。ヨヤダのせいでアシェラ崇拝ができなくなって自由を奪われた、多様性が認められていないと感じていたのかもしれません。
 自由や多様性を認めることは大事ですが、ヨアシュはそれで主を捨ててしまいます。

信仰が揺らいだところから破滅に向かう

 聖書は「この罪悪のゆえに、神の怒りがユダとエルサレムに下った。」と言います。
 神様は、神を捨てたヨアシュを見捨てはしません。ヨアシュや高官たちが神に立ち帰ることができるように預言者たちを遣わします。しかし彼らは耳を貸しません。
 それまでヨアシュは他の人の言うことをよく聞いていました。ところが信仰が揺らぎ神を捨てると、ヨアシュは耳を閉ざして預言者たちの言葉を聞かなくなります。
 信仰が揺らぐと人生全体が揺らぎます。

 神はヨアシュのためにある預言者を遣わします。ヨヤダの子ゼカルヤです。ヨアシュを赤ちゃんの頃から支えてきたあのヨヤダの息子です。
 聖霊を受けたゼカルヤは「なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。」と神の警告を告げます。
 ところが高官たちは共謀し、王の命令により神殿の庭でゼカルヤを殺害します。
 ゼカルヤの告げる神の言葉は無視し、高官たちの話を聞き入れ、王は間違った決断を下しました。
 自分を愛し育ててくれたヨヤダの息子を殺す。自分が油を注がれ王になった、主の神殿の庭で。
 アタルヤを処刑するときには血で汚されることを避けたのに、そこで血を流させる。
 何重にも間違った決断です。

 間違った人生を歩むヨアシュに追い打ちをかけるように、アラム軍が攻め上ってきます。ハザエル率いる少数の部隊です。
 ヨアシュは大軍で迎え撃ちます。
 聖書にはギデオンと300人の勇士がミディアンの13万5千人を打ち破るなど、少数の神の民が敵の大軍を打ち破る話をいくつも記録しています。今回はユダの方が大軍ですから楽勝でしょう。
 ところがヨアシュは敗北し重傷を負います。
 そして家臣たちは共謀し、異邦人の女性たちの手でヨアシュを殺させます。
 民はヨアシュが主を捨てたのでこのような惨めな最期になったと理解し、ヨアシュを王の墓には葬りませんでした。王族ではないのに王の墓に葬られたヨヤダとは対照的です。

信仰の自立を目指す

 信仰が揺らいだところから、ヨアシュの人生は崩れ始めます。
 だから信仰という柱、霊的な柱を立てる必要があります。
 誰でも最初は他の人に支えられて信仰に入ります。他の人から優しい霊の乳を飲ませてもらう赤ちゃんの信仰からスタートします。
 そこから一人前の自立した信仰を目指していきます。

13 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。14 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。

ヘブライ人への手紙5:13-14

 霊の乳とは、誰もが受け取りやすい「あなたは愛されています」とか「祝福します」というような言葉です。
 義の言葉とは、「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」のような献身を要求する言葉です。このような言葉は赤ちゃんの信仰者には受け入れられません。
 だから成熟した信仰者を目指すようにと、ヘブライ人の手紙の著者は勧めます。

信仰は柱の一つではなく土台そのもの

 神の言葉が私たちを養います。
 固い食物である義の言葉に聞き従うことで人生の堅固な土台が築かれます。
 最初に4本の柱を立てる話をしましたが、身体的、精神的、経済的な柱の他に霊的という柱があるのではありません。
 霊的、つまり信仰生活は人生の土台です。
 信仰生活という土台の上に身体的、精神的、経済的な柱が立ち、人生という家を支えています。

 王という立場の人間でも信仰が揺らげば人生が倒れてしまいます。
 ピラトはローマ帝国から遣わされた総督でした。よほど自立した人間でなければ任せられない立場です。
 ピラト自身はしっかりと自分の考えを持ち、イエスに罪はないと認めていました。
 しかしピラトはイエスを主と認められませんでした。
 この霊的な部分が揺らいでしまったので、それまで自立できていた人生も揺らいでしまいます。
 ついに群衆の声に流されてイエスを十字架刑にし殺してしまいます。

 イエス様はこのように言います。

24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

マタイによる福音書7:24-25

 どのような土台の上に人生という家を建てるかが問われています。
 身体的、精神的、経済的な自立ももちろん大事です。生活力を身に着ける。自分の頭で考えて行動する。自分の手で働いて正当な収入を得る。
 それだけでなく、聖書を読み、祈り、御言葉を聞いて行う。この信仰の土台がないと家全体が崩れます。
 このメッセージも聞き流してはいけません。神様があなたに語る言葉を受け止め、それを生活の中で実践してください。
 信仰の土台がしっかりして初めて、本当に自立した人間になることができます。

自立した人は愛の交わりの中で生きる

 自立した人とは、孤独な人ではありません。
 何でも自分でできる。誰の助けも借りずに一人で生きていける。そう思い込んでいる人は孤立した人です。
 本当に自立した人は他の人との関わりの中で生きます。
 完全な人はいません。自立した人は自分の弱さを認め、助けを求めます。
 依存関係は人の成長を妨げます。自立した人は他の人の自立を支えます。
 他の人の成長を助けること。それこそが愛です。
 他の人と関わり誰かを愛することなしに、自立しているとは言えません。

愛の交わりの中で生きたイエス

 自立した人の究極の模範はイエス・キリストです。
 イエス様なら一人でも生きていけます。荒野で40日独りぼっちでした。私なら3日でも独りぼっちになると発狂します。
 しかしイエス様は独りぼっちで生きませんでした。むしろ弟子を呼び集め、人々に出会いに行きました。彼らと関わり、愛することを選びました。
 イエス様は最後の戒めとして互いに愛し合いなさいと命じました。

34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

ヨハネによる福音書13:34-35

 イエスが愛したように互いに愛し合う。イエス様の生き方が愛の模範です。
 イエスは神の愛の交わりの中で生きていました。三位一体の愛の交わりです。
 神ご自身なのだから自分一人で何でもできたはずです。
 しかしイエス様は何をするにも祈りで始まり祈りで終わりました。

人を神から遠ざけてはいけない

 他の人との関わりの中で、ある宗教は人々を束縛し、自立を妨げます。
 一人で生きていけないようにし、自分で考えられなくし、経済の自由も奪います。
 自分は罪人だから何をしても間違う。リーダーの言う通りにすれば正解が得られる。
 そうして神との交わりからも遠ざけていきます。
 イエス様はそのような人々を非難しました。律法の専門家たちが他の人をも神から遠ざけていたからです。

51 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。52 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」

ルカによる福音書11:51-52

 このゼカルヤは、今日の本文に出てきた預言者ゼカルヤです。
 神から離れたヨアシュ王を神に立ち帰らせようとしたゼカルヤ。しかし高官たちは彼を神殿の庭で殺しました。
 正しい人の血を流した責任が今問われます。
 あなたたちは人を神から遠ざけようとしてはいないか。人を束縛し、自立を妨げていないか。
 むしろ真理は私たちを自由にします。
 人々が神に近づくことができるように支え合うのが本物の宗教です。

信仰者の交わりが新たな信仰者を生み出す

 1898年の秋、アメリカ合衆国ウィスコンシン州ボスコベルの小さなホテルで相部屋になったニコルソンとヒルは、互いが実業家のクリスチャンであることを知りました。彼らは共に聖書を読み、祈りました。
 そこでクリスチャンの実業家たちが互いに交流を持ち、旅先で個人的にイエス・キリストを証しするというネットワークを作るというアイデアが与えられました。
 こうして誕生したのが国際ギデオン協会です。
 彼らは互いに自立した信仰者です。
 その自立した信仰者同士が互いに交流を持つことでネットワークが生まれ、世界中で多くの人に聖書が届けられることになりました。

 私たちは互いに関わりながら生きていきます。自立した信仰者は自分の信仰だけでなく他の人の信仰を支え励まします。皆さんは誰の信仰を支えますか。
 赤ちゃんのままではいけません。成熟し自立したクリスチャンを目指してください。
 誰かに依存した信仰になってはいけません。
 孤立したクリスチャンになってもいけません。
 互いに交わりを持ち、互いの信仰を励まし合うのです。
 誰かのために共に祈り合いましょう。
 自分の弱さや問題を打ち明け、自分のために祈って欲しいとお願いすることも必要です。
 一人一人が自立していくことで、堅固な土台の上に人生という家が建てられていきます。
 そのような家々が集まることで霊的な家、神の国が建て上げられていきます。

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