語り続けよ、黙っているな

エゼキエル書講解42

語り続けよ、黙っているな

エゼキエル書 33:21-33

21 我々の捕囚の第十二年十月五日に、エルサレムから逃れた者がわたしのもとに来て言った。「都は陥落した」と。22 その逃れた者が来る前の晩、主の手がわたしの上に置かれ、翌朝、彼がわたしのもとに来る前に、主はわたしの口を開かれた。口が開かれて、わたしはもはや黙していなかった。23 主の言葉がわたしに臨んで言った。24 「人の子よ、イスラエルの土地のこれらの廃虚に住む者は言っている。『アブラハムはただひとりのとき、この土地を所有していた。我々の数は多い。我々にこの土地は所有として与えられている』と。25 それゆえ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。お前たちは血のついたまま肉を食べ、偶像に向かって目を上げ、人の血を流している。それでも、お前たちはこの土地を所有できるのか。26 お前たちは剣を頼みとし、忌まわしいことを行い、おのおの隣人の妻を犯している。それでも、お前たちはこの土地を所有できるのか。27 それゆえ、彼らにこう言いなさい。主なる神はこう言われる。わたしは生きている。廃虚にいる者たちは必ず剣に倒れる。野にいる者はすべて、獣に餌食として与え、砦と洞穴にいる者たちは疫病によって死ぬ。28 わたしはこの土地を荒れ地とし、荒廃した土地とする。この土地が誇った力はうせ、イスラエルの山々は荒れ果て、そこを通る者はなくなる。29 彼らが行ったすべての忌まわしいことのゆえに、わたしがこの土地を荒れ地とし、荒廃した地にするとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。30 人の子よ、あなたの同胞は城壁の傍らや家の戸口に立ってあなたのことを語り、互いに語り合っている。『さあ、行って、どんな言葉が主から出るのか、聞こうではないか』と。31 そして、彼らはあなたのもとに来る。民は来て、あなたの前に座り、あなたの言葉を聞きはするが、それを行いはしない。彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている。32 見よ、あなたは彼らにとって、楽器にあわせて美しい声でうたうみだらな歌の歌い手のようだ。彼らはあなたの語ることを聞くが、それを行いはしない。33 しかし、そのことが起こるとき――見よ、それは近づいている――彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる。」

警告より自分の利益を優先する

 8月14日、イタリアのジェノバから衝撃的なニュースが入ってきました。
 高架橋が崩落し、車数十台を巻き込み、43人が亡くなりました。

焦点:イタリアの橋崩落、なぜ防げなかったか

モランディ橋

 この橋は完成してから51年になります。鉄筋コンクリートで造られ、ワイヤーで吊り下げられる構造の吊り橋です。ジェノバ港と他の地域を結ぶ高速道路の一部であり、交通量の多い重要な橋でした。
 この橋は海から近く、塩を含んだ風にさらされています。重いコンテナを積んだ大型トラックが絶えず走っています。このような状況で長く使っていれば、当然橋は傷んできます。それで1980年代には既に橋からコンクリートの破片が落ちて来ていました。去年行われた定期点検では、道路を支えるワイヤーの10~20%が腐食していることが明らかになりました。
 危険性は認識されていました。補修工事が日夜を問わず続いていました。しかし交通制限や閉鎖することはありませんでした。重要な橋なので、閉鎖することで生じる経済的損失を気にしたのでしょうか。
 橋の周辺で生活する人は、橋が崩落するなどとは思っていませんでした。むしろ、補修工事がうるさくてうんざりしていました。
 専門家が危険性を訴えていながら、利益を優先する。コンクリート片が落ちていながら、それに慣れて平気で暮らせる。その結果、多くの人の命が奪われました。近くの住民もしばらく避難生活をしなければならなくなりました。

 これはイタリアで起きた特殊な事故でしょうか。いいえ、人間の本質的な姿です。
 危険だと言われても、利益を優先してしまう。慣れてしまい、自分は関係ないと思ってしまう。
 いつかその危険が現実のものになったとき、私たちを愛し、危険を訴え続けてくれていた人の存在に気付きます。
 しかしそれでは遅いのです。

見張りは無視されても語り続ける

 今日の本文は主がエルサレムから逃げてきた人に語る場面です。
 エゼキエルはしばらく声を出して悲しむことができませんでした。
 エルサレムが陥落し、逃げ延びてきた人がバビロンに到着しました。そこでエゼキエルは再び口を開きます。
 エルサレムには、変わらずその地に住み続ける人もいました。エルサレムは罪のために滅ぼされたのに、同じ罪を平気で犯し続ける人もいました。
 捕囚の民の中にはエゼキエルが語る言葉に興味を持つ人もいましたが、聞くだけで従うことはありませんでした。
 いくら語っても変わらない。語ることが無駄に思えてきます。
 しかし見張りは、人々に無視されても語り続けるべきです。黙っていてはいけません。
 いつか愛をもって真理を語った人がいたことが明らかになります。

悲しみに寄り添う

 まず今日の本文の21節22節で『21 我々の捕囚の第十二年十月五日に、エルサレムから逃れた者がわたしのもとに来て言った。「都は陥落した」と。22 その逃れた者が来る前の晩、主の手がわたしの上に置かれ、翌朝、彼がわたしのもとに来る前に、主はわたしの口を開かれた。口が開かれて、わたしはもはや黙していなかった。』 とあります。
 悲しみに寄り添うとき、私たちは黙っていられなくなります。

預言者の沈黙

 今日の本文は捕囚の12年10月5日の話です。この前に何の話があったか覚えていますか。
 エゼキエル書33章は後半の始まりです。25章から32章はエゼキエルが後で挿入した部分で、時代が前後しています。ですから今日の本文は時間の流れからいうと24章の続きです。
 では24章で何があったのでしょうか。
 エゼキエルの妻が亡くなりました。しかしエゼキエルはこのとき、声を上げて悲しむことが禁じられていました。
 いつかエルサレムから逃れてきた人が来るまで、エゼキエルは沈黙していなければなりませんでした。

都の陥落

 11年の5月7日にバビロンの王ネブカドネザルはエルサレムに侵攻しました。
 城壁は崩され、町は火に焼かれ、神殿も破壊されました。人々は火に焼かれ、逃げようとした人も剣で殺されました。
 ゼデキヤ王は夜中に脱出しましたが捕えられ、目の前で子どもたちを殺され、目を潰されます。
 その中でほんのわずかな人々が、ひとつかみの髪の毛ほどの人々が生き延びてバビロンにやってきました。
 それが12年10月5日です。
 彼らは教えてくれました。
 「都は陥落した」と。

神は共に悲しんでいる

 ユダヤ人にとって、これはどれほど大きな悲しみだったでしょうか。
 彼らは12年前に捕囚になりましたが、これはすぐ終わるものだと思っていました。長くても2年だと思っていたのです。
 主はダビデに、その王座が永遠につづくと約束した。ユダ王国は滅びない。エルサレムには主がその名を置くと約束した神殿がある。神殿の方を向いて祈れば、必ず実現する。だからすぐ助けが来て、エルサレムに帰ることができる。そう信じていました。
 ところが誰もユダ王国を助けてくれませんでした。
 9年目にエルサレムは包囲され、そしてとうとう都は陥落した。もう帰る場所はない。エルサレムに残してきた息子や娘には会えない。もう何の希望もない。何を信じたらいいのだろう。悲しみのどん底です。
 エルサレムから逃げて来た人々も同じです。彼らは最後まで、エルサレムは大丈夫だと思っていました。
 エルサレムに残っている自分たちは大切な存在だ。エルサレムは鍋で、自分たちは肉。外からどんな攻撃が来ても平気だ。いざとなればエジプトが助けてくれる。しかしそのような期待は全て裏切られました。
 2年の包囲の間、多くの人が飢え死にしました。そして家族も財産も希望も全て失い、バビロンまで来たのです。
 どうしてこのような悲しみが存在するのか。神は本当にいるのだろうか。そのような思いにさせられます。

 私たちの周りにも、そのような悲しみの中にいる人たちがいます。
 事故で家族を失う。大雨で家を失う。病気で自由を奪われる。

 先週水曜日に、鳥人間コンテストがテレビで放送されました。手作りのグライダーや人力飛行機で飛行距離を競う大会です。
 静大ヒコーキ部も出場したので、テレビの前で応援するつもりでした。
 実際に競技が行われたのは7月。ちょうど台風が近づいているときでした。会場では朝まで雨が降り、風が強く吹いている。
 この悪天候の中で、多くのチームが苦戦していました。足を滑らせてしまったり、飛行機の羽が折れてしまったり。
 徐々に風が強まり、とうとう大会は中止になってしまいました。しかも、静大の出番の直前に。
 静大ヒコーキ部は久しぶりの出場で、この日のために準備を続けてきました。
 ついに手作りの飛行機が飛ぶ。夢が実現する。そしてプラットホームまで上がったのに。
 どれほど悔しかったでしょうか。
 そのような悲しみの中にいる学生たちに、何と声をかけたらいいでしょうか。

 主は、エゼキエルを通して語ります。
 あなたが愛する者を失う悲しみを、神は知っている。
 エゼキエルはエルサレムから逃げてきた人たちに何と言ったのでしょうか。
 話した内容までは記録されていません。むしろ言葉にならなかったかもしれません。
 「大変だったね、頑張ったね。」
 ただ一緒に涙を流すだけだったかもしれません。

 エゼキエル自身、愛する妻を失いました。しかしその大きな悲しみを、ずっと表現できなかった。それをようやく口を開いて表現できる。
 何と言っていいか、言葉が見つからない。ただ一緒に涙を流す。
 それでいいです。
 そのとき悲しみの中にいる人たちは慰められます。「ああ、この悲しみを理解してくれる人がいるんだ。」

 神はエルサレムをバビロンの手に渡しました。
 しかしその地に住む人々は神にとって、愛する民なのです。愛するからこそ手放さなければならない。
 エルサレムが滅びて悲しいのは、神も同じ。
 そして神は私たちを愛して、その独り子を十字架につけた。
 愛する者を失う悲しみを誰よりも知っているのは、神です。
 その神が私たちの口を開き、語らせます。
 何と言うべきかはわかりません。泣く人と共に泣く。それだけしかできないかもしれません。
 それだけでも、神が共に悲しんでおられることが伝わるかもしれません。
 悲しみに寄り添う私たちになることを主は願っています。

平然と滅びへ向かう人々

 次に今日の本文の23節から29節に『23 主の言葉がわたしに臨んで言った。24 「人の子よ、イスラエルの土地のこれらの廃虚に住む者は言っている。『アブラハムはただひとりのとき、この土地を所有していた。我々の数は多い。我々にこの土地は所有として与えられている』と。25 それゆえ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。お前たちは血のついたまま肉を食べ、偶像に向かって目を上げ、人の血を流している。それでも、お前たちはこの土地を所有できるのか。26 お前たちは剣を頼みとし、忌まわしいことを行い、おのおの隣人の妻を犯している。それでも、お前たちはこの土地を所有できるのか。27 それゆえ、彼らにこう言いなさい。主なる神はこう言われる。わたしは生きている。廃虚にいる者たちは必ず剣に倒れる。野にいる者はすべて、獣に餌食として与え、砦と洞穴にいる者たちは疫病によって死ぬ。28 わたしはこの土地を荒れ地とし、荒廃した土地とする。この土地が誇った力はうせ、イスラエルの山々は荒れ果て、そこを通る者はなくなる。29 彼らが行ったすべての忌まわしいことのゆえに、わたしがこの土地を荒れ地とし、荒廃した地にするとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。』 とあります。
 同じ罪を犯し続ける人に主は繰り返し警告を与えます。

罪のために滅んだ

 主はイスラエルの地に住み続ける人々に語ります。
 イスラエルはなぜ滅んでしまったのでしょうか。
 それは人の罪のためでした。
 北イスラエルはベテルとダンに牛の像を置き、偶像崇拝をし続けました。その結果、アッシリアによって滅ぼされました。
 南ユダはマナセ王の時代に偶像崇拝が盛んに行われ、罪のない人の血が流されました。その結果、バビロンによって滅ぼされました。
 偶像に向かって目を上げ、人の血を流すような忌まわしい罪を犯したためにイスラエルの地は廃墟になってしまったのです。

罪の中に住み続ける

 そのイスラエルの地に住み続ける人たちがいました。彼らはこう言っていました。『アブラハムはただひとりのとき、この土地を所有していた。我々の数は多い。我々にこの土地は所有として与えられている』
 先祖アブラハムが一人でこの地を所有していたのだから、子孫である私たちがイスラエルの地を所有するのは当然だ。むしろ狭いくらいでしょ。それでイスラエルの地に平然と住み続ける人たちがいました。
 彼らは国が滅ぼされる前と同じように、血のついたまま肉を食べ、偶像に向かって目を上げ、人の血を流し、剣を頼みとし、忌まわしいことを行い、隣人の妻を犯していました。

滅びに定められている

 相変わらず罪を犯し続けていながら、彼らはイスラエルの地に住むことができるでしょうか。
 主は生きています。罪を放っておくことはありません。剣と獣と疫病によって滅ぼすと約束します。
 主なる神様は、私たちが滅びへ向かう姿を見て悲しんでいるのです。エルサレムを滅ぼしたときにも、主は心を痛めていたのです。
 それなのに再び罪を犯して主を苦しめることができるでしょうか。

 私たちは自由です。かつては罪の奴隷でしたが、今は神の子としての自由が与えられています。
 だから神に従うのも自由、罪を犯すのも自由です。何をしても、既に赦されている。
 だから何をしてもいいのでしょうか。
 ありのままで愛されている。確かにその通りです。
 ありのまま、罪人であった時のまま同じ罪を犯し続けていていいのでしょうか。

 私たちを自由にするために、神が何をしてくださったかを忘れてはいけません。
 キリストが十字架で死なれたから、私たちは奴隷の軛から解放されて自由になったのです。
 キリストが神から捨てられたので、私たちはありのままで愛されているのです。

 私たちを愛するゆえに、神がどれほど悲しまれたかを、決して忘れてはいけません。
 だから私たちは、これからはキリストの軛につながれ、キリストと共に歩む自由を選ぶべきです。
 ありのままの自分を愛することを知ったのなら、自分を愛するように隣人を愛する者に変えられていくべきです。
 もし私たちが相変わらず罪を犯し続けるなら、私たちは再び奴隷の軛につながれ、キリストを再び十字架につけるのです。
 神の悲しみを知ったなら、そのようなことはできません。

 だから預言者は語り続けます。
 見張りのように、危ない、そっちに行っちゃダメだ!あの山に逃げろ!救いはあそこにある!と叫び続けるのです。
 伝道し続けるのです。
 神の悲しみを知る人は、伝道を止めることができません。

語り続ける

 最後に今日の本文の30節から33節に『30 人の子よ、あなたの同胞は城壁の傍らや家の戸口に立ってあなたのことを語り、互いに語り合っている。『さあ、行って、どんな言葉が主から出るのか、聞こうではないか』と。31 そして、彼らはあなたのもとに来る。民は来て、あなたの前に座り、あなたの言葉を聞きはするが、それを行いはしない。彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている。32 見よ、あなたは彼らにとって、楽器にあわせて美しい声でうたうみだらな歌の歌い手のようだ。彼らはあなたの語ることを聞くが、それを行いはしない。33 しかし、そのことが起こるとき――見よ、それは近づいている――彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる。」』 とあります。
 人々に無視されても、語り続けなければなりません。

口先で好意を示す

 次は捕囚民についての言葉です。
 彼らの間でエゼキエルは噂の的でした。「エゼキエルさん、今日も何かやっていたよ」「自分で自分の家に穴を開けていた」「レンガに何か書いて遊んでいた」「最近ずっと横になっている」「奥さん亡くなったけど、涙も流さない。非常な人ね。」「今日は何を語るんだろう」『さあ、行って、どんな言葉が主から出るのか、聞こうではないか』それで民はエゼキエルの家に集まり、主の言葉を求めました。

恋の歌

 彼らは主に聞き従うために主の言葉を求めたのではありません。
 一つのエンターテインメントとして、エゼキエルを見ていました。まるで恋の歌を聞くようです。

 小田和正さんの「ラブストーリーは突然に」の中で「君のために つばさになる 君を守りつづける やわらかく 君をつつむ あの風になる」という歌詞があります。ステキですね。
 ではこの歌を聞いた人たちは愛する妻をつばさのように守ってあげられるのでしょうか。そんなことはないです。
 いい言葉だなーと思って感動することはあっても、そのように生きるわけではありません。

 同じように人々は主の言葉を聞いていい言葉だなと思いました。
 「生きよ、生きよ。イスラエルの家よ、立ち帰れ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」ステキな約束だ。
 しかし人々は主に立ち返りません。

 これは私たちも同じです。
 賛美しながら感動します。キリストには代えられません!全てをささげ、従います!私を用いてください!
 礼拝でメッセージを聞き、心を痛めます。ああ、私たちにはこういう罪があるな。
 聖書を開いてよい言葉を見つけます。いい言葉だな、友だちにも紹介してあげたいな。
 しかしその通りに生きようとはしません。
 ほとんどの場合、心地よい言葉には耳を開きます。「あなたは愛されています。」「うん、うん、その通りだ。」
 しかし痛い言葉には耳を閉ざします。「悔い改めよ!神の国は近づいた。行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい!」「あー、あー、聞こえない。」

預言者がいたことを知る

 しかし神の言葉は生きていて力があります。宣言された神の言葉は、空しく地に落ちることはありません。必ず実現します。
 ですから主が約束した滅びがイスラエルの地に臨むとき、エゼキエルが語った言葉が本当だったと知るようになります。
 だから人が聞き従わなくても、無視されても、語り続けなければなりません。
 それは孤独なことですが、見張りの宿命です。
 しかし人が無視しても、主は見張りと共にいます。

 パウロは第2次宣教旅行の途中でコリントの街でユダヤ人に福音を伝えました。
 しかしコリントのユダヤ人はパウロを口汚くののしりました。コリントの街は罪で堕落しきっていて、ひどい有様でした。
 がっかりしたパウロは、服の塵を振り払って「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方に行く。」と宣言しました。
 しかしコリントにいたある夜、主が幻の中でパウロにこう言いました。

9 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。10 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

使徒言行録18:9-10

 人々は無視し、パウロに危害を加えようとする。
 それでも恐れるな。語り続けよ、黙っているな。
 このような堕落した街にも、主の民が大勢隠されているから。
 実際パウロはこの街でアキラとプリスキラに出会い、宣教の同役者が与えられます。
 コリントに立てられた教会は問題だらけでしたが、パウロは3回にわたって手紙を送りました。そしてコリントの人々は少しずつ少しずつ変えられていったのです。

 恐れるな。語り続けよ、黙っているな。
 この町には、この国には主の民が大勢いる。
 人々の表面的な反応に流されず、福音を語り続けるよう主は求めています。
 私たち自身、この主の御言葉を自分のものとして受け取らなければなりません。

 神は私たちと共に悲しんでいる。悲しむ人々に寄り添う。罪を犯し続ける人々に、主の悲しみをもって御言葉を語る。
 人々の反応に惑わされず語り続ける私たちになることを願います。
 人々はすぐにはわからないでしょう。
 しかしいつの日か、主の愛を語り続けてくれた人がいたことに気付くときが来ます。

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