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誰のための受難

受難1

誰のための受難

イザヤ書53:5

彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

受難節

 イースター(復活祭)は毎年、「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」に祝われます。2021年は4月4日(日)です。イースターの前日の46日前は、灰の水曜日と言います。2021年は2月17日(水)でした。この日から日曜日を除く40日間を受難節(レント)と言います。
 ややこしいですね。
 難しいことはさておき、受難節の期間はイエス様の受けた苦しみを覚えつつ、神様に立ち返る期間にしていきたいです。
 しかしイエス様はイエス様、私は私です。2000年前にイエス様が受けた苦しみと私たちと、いったい何の関りがあるのでしょうか。

誰がイエスを殺したのか

 イエス様はユダヤ人によって十字架につけられて殺されました。
 イエスの処刑を主導したのは祭司長たちでした。
 聖書はその動機をこのように説明しています。

祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。

マルコによる福音書15:10
Crucifixion of Jesus by Marco Palmezzano (Uffizi, Florence), painting c. 1490

 総督ピラトは、祭司長たちがイエスを妬んで殺そうとしていると見抜いていました。
 祭司長たちがイエスを妬んだのは、イエスが自分たちにないものを持っていたからです。
 それは正しさです。
 イエスの行いは正しく、人々を魅了していました。
 祭司長たちはイエスの言葉尻を捕らえて訴えようとしましたが、その語る言葉も正しいものでした。だから殺したのです。
 カインがアベルを殺したように、正しいからこそ殺す、という妬みによる殺人があります。

 ピラトは祭司長たちの妬みという動機だけで十字架刑を宣告するわけにはいきません。何とかしてイエスを釈放しようとしました。
 それで過越祭に1人の囚人を釈放するという慣例を適用しようとしました。
 人殺しのバラバか、正しい人イエスか、どちらを釈放して欲しいかと群衆に聞いたのです。
 普通に考えればイエスの方を釈放して欲しいと願うでしょう。人殺しより正しい人の方がいいです。それに群衆の一部は、日曜日にホサナと叫んでイエスを歓迎していたのです。
 しかし祭司長たちは自分たちの権威を利用し、群衆を扇動しました。バラバを釈放しろと言わせたのです。
 群衆は権威や周りの雰囲気に弱いです。祭司長たちの言うようにバラバを釈放しろと言わされ、周りの人がそう言うならつられてバラバを釈放しろと言ってしまいます。そしてイエスを十字架につけろと叫びだしました。

 その時弟子たちは何をしていたのでしょうか。

弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

マルコによる福音書14:50

 皆逃げ出していました。
 イエス様のことより、自分のことが大事です。自分だけは助かろうと思い、逃げ出してしまいました。
 そのような自己中心性が弟子たちにありました。

 では私たちがその場にいたらどうしたでしょうか。
 私たちの心には妬みもあるし、権威への弱さもあるし、自己中心性もあります。
 自分が祭司長の立場だったら、イエスに妬みを抱かなかっただろうか。自分が群衆だったら、権威ある人の声より自分が正しいと思う方を選択できただろうか。周りの99%と違う声を上げられただろうか。最後までイエス様に従えただろうか。
 そのように考えていくとき、自分の中にも彼らと同じ心があることがわかります。イエス様を殺したユダヤ人と同じ心です。
 自分がその場にいたら、自分もイエス様を殺したでしょう。

罪人の代表者

 十字架刑はローマの最も残虐な死刑の方法でした。肉体的にも精神的にも苦しみの極限を通って死んでいきます。罪人の頭、罪人の代表者のような人が受ける刑です。
 イエス・キリストが十字架で死にました。
 ではイエス様にはどのような罪があったのでしょうか。
 十字架につけられるような罪は何一つありませんでした。いやむしろ、イエス・キリストは罪と全く関係のないお方でした。
 イエス様は律法の専門家たちにこのように問いかけました。

あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。

ヨハネによる福音書8:46

 律法学者たちは何が罪であるかをよく知っています。その律法の専門家たちでさえ、イエス様の罪を1つも指摘することはできませんでした。

 罪のないイエス様が十字架で死にました。罪人の代表者として死にました。
 誰の罪を背負ったのでしょうか。
 それは私たちの罪です。

そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

ペトロの手紙一2:24

 イエス様は私たちの罪を背負って十字架で死にました。
 彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであったのです。
 イエス様の苦難は私のためです。イエス様の受けた苦しみはあなたのためなのです。

救いは成し遂げられた

 イエス様は十字架上で祈りました。

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

ルカによる福音書23:34a

 自分を十字架につけた人たちの赦しを祈っています。
 私たちもイエス様を十字架につけた張本人です。ですからこの祈りは私たちのためにも祈られました。イエス様は十字架において、私たちの赦しを求めています。
 罪のないイエス様が、私たちの罪を代わりに背負ってくださいました。そして罪人の代表者として十字架で死にました。
 だから私たちの罪の償いはイエス様の十字架によって成し遂げられています。
 完了したのです。付け加えるものは何もありません。
 私たちはイエス様によって義とされています。正しい人とされています。
 この救いはただ信仰によって受け取ればいいです。

 救われた私たちは罪の呪いから解放されています。

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。

ガラテヤの信徒への手紙3:13

 木にかけられたイエス様、十字架につけられたイエス様は呪いを引き受けてくださいました。律法に従えない者の受ける呪い、罪の呪いです。
 だから私たちはもう罪に支配されません。
 イエス様は私たちを救うために十字架で死なれたのです。イエス様の十字架によって平和が与えられ、癒しが与えられました。

 受難節はイエス様の受けた苦しみを思い起こす期間です。
 それはただ、イエス様大変だったね、痛かったねと同情することではありません。
 イエス様を十字架につけて殺した自分の罪を悔い改める期間です。
 そしてその罪の償いを成し遂げ、救ってくださった恵みに感謝する期間です。
 そのような悔い改めと救いの喜びをもって、イースターを備えていきましょう。

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