誰も自分を贖えない

エゼキエル書講解9

誰も自分を贖えない

エゼキエル書 7:1-13

1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、言いなさい。主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。終わりが来る。地の四隅に終わりが来る。3 今こそ終わりがお前の上に来る。わたしは怒りを送り/お前の行いに従って裁き/忌まわしいすべてのことをお前に報いる。4 わたしは、お前に慈しみの目を注がず/憐れみをかけることもしない。お前の行いをわたしは報いる。お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。そのとき、お前たちは/わたしが主であることを知るようになる。5 主なる神はこう言われる。災いに続く災いが来る。6 終わりが来る。終わりが来る。終わりの時がお前のために熟す。今や見よ、その時が来る。7 この地に住む者よ、お前の順番が来た。時は来た。その日は近い。それは大混乱の日で、山々には喜びの声が絶える。8 今や、わたしはお前に向かって憤りを注ぎ/お前に対して、わが怒りを注ぎ尽くす。わたしは、お前の行いに従って裁き/忌まわしいすべてのことをお前に報いる。9 わたしは慈しみの目を注がず/憐れみをかけることもしない。お前の行いに応じてわたしは報いる。お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。そのとき、お前たちは知るようになる/わたしが、お前たちを打つ主であることを。10 見よ、その日を。今やその日が来る。順番が巡って来る。王杖に花が咲き、傲慢の芽が萌え出た。11 不法が起こって、背きの王杖となった。彼らのものはひとつも残らず、群衆は絶える。彼らの騒ぎも残らず、嘆きの声すら絶える。12 時が来る。その日が到来する。買う者も喜ぶな、売る者も悲しむな。怒りが、国の群衆すべてに及ぶからだ。13 売る者がたとえ生き長らえても/売った物を買い戻すことはできない。すべての群衆に対する審判の幻が/撤回されないからだ。罪のゆえに、だれひとり命を保つことはできない。

自分の力では罪の支配から抜け出せない

真珠湾攻撃

 1941年12月8日未明、日本はハワイの真珠湾を奇襲しました。
 既にアジアへ侵略し、太平洋へと手を伸ばしていた日本にとって、アメリカの太平洋艦隊は大きな脅威でした。
 当時の日本では八紘一宇という言葉がスローガンとして使われていました。これは世界の全てを一つの家とするという意味です。日本がアジアの諸国を欧米列強から救い出し、天皇の下でみんな幸せに暮らそうという大東亜共栄圏構想があり、日本による侵略戦争を正当化するために使われていました。日本の傲慢さを感じさせる言葉です。
 真珠湾攻撃の総指揮官を務めた淵田美津雄はトラ・トラ・トラと電報を打ちました。これは「私は奇襲に成功した」という意味の暗号です。
 日本に帰還した淵田は英雄として賞賛を受けます。

 日本のこの傲慢な侵略はその後どうなったでしょうか。
 アメリカ人は復讐に燃え、日本の本土空襲を開始しました。日本の艦隊も東南アジアでの海戦に敗れ、広島と長崎は原爆によって徹底的に破壊されました。
 傲慢は打ち砕かれます。そして罪の代償を支払うことになります。
 罪の代償を支払うことや、奪われたものを買い戻すことを贖うと言います。
 戦争は終わりました。これで罪の清算は済んだのでしょうか。
 戦争が終わっても罪は残ります。賠償金を払ったとしても解決されません。70年以上たったとしても、世代を超えて憎しみは残ります。

 真珠湾攻撃で英雄になった淵田も、終戦後は戦争犯罪者になってしまいます。故郷に帰り、ひっそりと暮らしますが、周囲の人からは淵田のことを国を滅ぼした軍国主義者として憎まれました。淵田自身も手のひらを返したような周囲の人を憎みます。淵田は罪の支配下にいました。
 1949年12月、淵田はGHQの取り調べを受けるために渋谷駅に降り立ちました。
 駅前で一人のアメリカ人がトラクトを配っていました。そのトラクトにはあるアメリカ人がイエス・キリストに出会い、憎しみから救い出された証しが書かれていました。
 それを読み、淵田もイエス・キリストに出会います。

 私たちの心には傲慢な心があります。私たちは罪の支配下にいます。
 誰も自分の力では罪の支配から抜け出すことはできません。私たちの救いは外から来ます。
 いつか終わりの日が来ます。その時傲慢な者は徹底的に滅ぼされます。しかし神を信頼する者は贖い出されるのです。

傲慢な者への徹底的な滅び

 今日の本文は終わりが来ることを告げる場面です。
 主は繰り返し強調しています。傲慢な者への徹底的な滅びです。誰も自分ではそこから抜け出すことはできません。
 今日の本文を通して終わりが来ることを知り、傲慢さを捨て、私たちを贖う方に従う私たちになることを期待します。

終わりが来る

 まず今日の本文の1節から9節で『1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、言いなさい。主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。終わりが来る。地の四隅に終わりが来る。3 今こそ終わりがお前の上に来る。わたしは怒りを送り/お前の行いに従って裁き/忌まわしいすべてのことをお前に報いる。4 わたしは、お前に慈しみの目を注がず/憐れみをかけることもしない。お前の行いをわたしは報いる。お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。そのとき、お前たちは/わたしが主であることを知るようになる。5 主なる神はこう言われる。災いに続く災いが来る。6 終わりが来る。終わりが来る。終わりの時がお前のために熟す。今や見よ、その時が来る。7 この地に住む者よ、お前の順番が来た。時は来た。その日は近い。それは大混乱の日で、山々には喜びの声が絶える。8 今や、わたしはお前に向かって憤りを注ぎ/お前に対して、わが怒りを注ぎ尽くす。わたしは、お前の行いに従って裁き/忌まわしいすべてのことをお前に報いる。9 わたしは慈しみの目を注がず/憐れみをかけることもしない。お前の行いに応じてわたしは報いる。お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。そのとき、お前たちは知るようになる/わたしが、お前たちを打つ主であることを。』 とあります。
 この世の終わりが来ます。

終わりの日

 主は終わりの日が来ることを告げています。9節までで6回も「終わり」と言っています。
 2節から4節と5節から9節は同じようなことばがくり返されています。
 同じことを繰り返して言うのは、大事なことだからです。主が終わり、終わりと言っているのは、終わりが確実に来るのだということを強調しています。
 終わりはどこに来るのでしょうか。地の四隅に来ると言っています。どこでしょうか。
 四国みたいに四角い島なら香川と徳島と高知と愛媛かとなりますが、そういうことではありません。
 当時の人々は、世界は平面だと考えていました。ずっと東に行けば、東の果てがあると思っていました。まさに地の果てがあると思ったわけです。
 地の四隅とは地の果てから果てまでを表し、世界中に終わりが来るということを意味しています。
 誰に来るのか。
 終わりの時がお前のために熟すと言っています。今日の本文では、世界中にいるイスラエルの民について語られている言葉です。

選択に報いる

 その日、主は怒りを送り、行いに従って裁き、忌まわしい全ての事を報いると言っています。
 それは主なる神を捨て、他のものを神々にした偶像崇拝に対しての裁きです。
 それは姦淫であり、忌まわしいことでした。
 主の怒りを目の当たりにしたところで姦淫の事実がなくなるわけではありません。その忌まわしい事実は私たちの内にとどまります。ごめんなさいと言えば罪がなくなるのではありません。
 行いに従って裁くと言っていますが、表面的な行いではなく、根本的なところが問われます。
 私たちは何を選択して生きているのか。私たちは神に対してどういう態度をもって生きているのかです。

私を打つ主

 そのときイスラエルの民は主が主であることを知るようになります。そして主が罪に対して怒り、打つ方であることを知ります。
 主はこれまで忍耐して待っておられました。預言者を遣わし、主に立ち返ることを待っておられました。それでも民は主を捨て、偶像に従う道を選択したのです。
 とうとう主は裁きを下します。偶像に従っていた者にとって、これは恐ろしい日です。もう慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもなく、災いに続く災いが来るのです。
 これはエルサレムの滅亡を予告したものですが、私たちもいつかこのような日を迎えます。それはイエス・キリストが再び来られる日です。
 罪によって侵略されたこの世界を解放するため、贖うために主が来られます。奪われた領土を奪還するため、再び上陸します。
 その日、その時は誰も知りません。作戦の詳細は機密情報です。
 もしいつかわかっていれば、その日が来るまで敵の側で安心して暮らしておいて、イエス・キリストが来る少し前に寝返ればいいかもしれません。
 しかしそのような卑怯なことはできません。まるで泥棒が来るように、上陸作戦は不意に決行されるからです。
 イエス・キリストが来てから、「ごめんなさい、やっぱりあなたの方がいいです」などとは言えません。
 これは選択の時ではなく、裁きの時です。私たちが何に従っていたかによって裁かれます。
 この世の中で迫害を受けながらも神に従ってきた者は贖い出され、この世と妥協し偶像に従っていたものは永遠に滅ぼされるのです。
 主が主であることを知り、主が私たちを打つ方だと知ってからでは遅いのです。
 選択の時は今です。イエスに従うか、相変わらず偶像に従うか、主は選択を迫ります。

傲慢は砕かれる

 また今日の本文の10節11節で『10 見よ、その日を。今やその日が来る。順番が巡って来る。王杖に花が咲き、傲慢の芽が萌え出た。11 不法が起こって、背きの王杖となった。彼らのものはひとつも残らず、群衆は絶える。彼らの騒ぎも残らず、嘆きの声すら絶える。』 とあります。
 主は傲慢を砕きます。

傲慢の芽

 私たちは自分が神の側に立っていると確信を持つことができますか。
 私たちはイエスは主であると口で告白して教会に所属しました。しかし大事なのは教会に所属していることでなければ、イエスに向かって「主よ、主よ」と言うことではありません。
 口先で救われるのではありません。私たちは心で信じて義とされます。そしてイエス・キリストに従う者だけが天の国に入ります。
 誰が神に敵対しているのでしょうか。
 主が終わりが来ると繰り返し語らなければならなかったのは、イスラエルの民がそれまで警告を真に受けなかったからです。
 エレミヤが何度も語りましたが、エルサレムには神殿があるから大丈夫だと思い込んでいました。
 自分は大丈夫だと思い上がっている者、傲慢な者こそ神の敵です。
 私たちはまるで自分が正しい者であるかのように勘違いしてはいけません。何か力があるかのように錯覚してはなりません。
 たとえ預言する賜物があり、悪霊を追い出すことができたり、奇跡を行うことができたとしても、終わりの日にイエス・キリストはお前たちのことは知らないと言います。

そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

マタイによる福音書7:23

背きの王杖

ブリューゲル「バベルの塔」

 主の御心を行わず、自分勝手に生きることが不法です。
 こうして主がこの世を治める王とした者が、主に逆らう反逆者となります。
 このように神の前に高ぶった国々を、主は打ち砕きました。
 例えばバベルの塔の事件があります。
 主の御心は、人が産んで増えて地に満ちて地を従わせることでした。
 ノアの洪水の後、主はノアの家族にそのことを再び告げます。しかしノアの次男ハムの子孫であるニムロドは不法を行いました。
 増え広がって地に満ちることをせず、シンアルの地に定住したのです。そして全地に散らされることがないように、天にまで届く塔を建設しようとしました。
 主はこの計画を混乱させ、人々を強制的に全地に散るようにしてしまいました。
 傲慢な者、不法を行う者は必ず主に打たれるのです。

傲慢な者は滅ぼされる

 イスラエルの民はこのことを先祖代々語り継いできながら、再び不法を行いました。
 ユダの王も背きの王杖を手にし、群衆を惑わしました。その結果民全体が裁きを受けることになったのです。もはや騒ぐ者も嘆く者もいないほど、徹底的に滅ぼされます。
 このように高ぶる者は低くされます。
 逆に主に従う者は高められます。
 この世で神の側に立つということは、世から憎まれることを意味します。
 しかしそこでへりくだり、自分を小さくするなら、主が大きく用いてくださいます。

大浦天主堂

 かつて日本でクリスチャンに対する大きな迫害の時代がありました。多くの殉教の血が流されました。250年以上の激しい迫害によって、日本のクリスチャンは絶滅したと考えられていました。
 ところが1865年、長崎の大浦天主堂に15人ほどの男女が現れ、神父に「我らの旨、あなたの旨と同じ」とささやきました。
 隠れて信仰を守り抜いた人々が残っていたのです。

 傲慢な者がこの世を支配します。神に従う者はそこで迫害を受けます。
 しかしその日が来れば、傲慢な者は滅ぼされます。
 そしてへりくだり、神に従い通した者は贖われるのです。

贖えない

 最後に今日の本文の12節13節で『12 時が来る。その日が到来する。買う者も喜ぶな、売る者も悲しむな。怒りが、国の群衆すべてに及ぶからだ。13 売る者がたとえ生き長らえても/売った物を買い戻すことはできない。すべての群衆に対する審判の幻が/撤回されないからだ。罪のゆえに、だれひとり命を保つことはできない。』 とあります。
 私たちは自分の力で自分を贖うことはできません。

手元から離れて行く

 その日には買い物をしても喜べないし、売ったものについて嘆くこともできません。
 ここでの売り買いは土地の売買についてです。土地を買ったとしてもバビロンに占領されてしまいます。売られた土地は異邦人に支配されることになります。土地に限らず、売られるものは手元から離れて行ってしまいます。
 私たちも神の手元から離れて行きました。
 神が売ったわけではありません。自分で身売りして、罪の奴隷となりました。

買い戻せない

 主の裁きの日が来ると、売ったものを買い戻すことができなくなってしまいます。それは私たちの罪の問題があるからです。
 私たちはまずこの罪の問題を解決し、その代価を支払わなければなりません。
 それは人にはできません。自分に罪がある者が、どうして他の人の罪を背負うことができるでしょうか。
 そこで罪のない神の独り子イエス・キリストが私たちの身代金としてその身をささげられました。この贖いの血により私たちは買い戻されたのです。
 こうして私たちはもはや罪の奴隷ではなく、神の民として生きることができるようになります。

終わりに備える

 日本による真珠湾攻撃を受け、アメリカは報復作戦に出ました。
 ジェイコブ・ディシェイザーは日本への復讐心に燃え、作戦に志願しました。ディシェイザーは爆撃手として日本へ飛来し、名古屋を爆撃します。作戦内容は軍需工場の破壊でした。しかし日本人を憎むディシェイザーは機関銃を握り、民間人を狙撃します。
 爆撃機は日本を通過し、中国の米軍基地に行く予定でした。しかし日本軍の占領地に不時着してしまいます。そしてディシェイザーは日本の捕虜になってしまいました。
 監獄の中での扱いはひどいものでした。日本兵は捕虜に暴力を振るい、ミミズのスープを飲ませました。そこでディシェイザーはますます日本を憎みます。
 そんなある日、一人の日本兵が他の兵に見つからないよう、こっそり聖書を差し入れてくれました。
 ディシェイザーはむさぼるように聖書を読みました。
 そして十字架上でのイエス・キリストの言葉に心を打たれます。

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

ルカによる福音書23:34
淵田美津雄とジェイコブ・ディシェイザー

 そして自分が憎しみの奴隷となっていることに気づかされます。
 それからディシェイザーは日本兵に対する態度を変えました。看守が来ると「Good Morning. おはよう。」と笑顔で挨拶をするようにしました。そうすると日本兵からの扱いが変わり、数日後にはほくほくに蒸かしたサツマイモを差し入れされました。
 戦後ディシェイザーは神学校に行き、宣教師となって日本に来ました。そして自分が破壊した名古屋に、教会を建てました。自分の回心の証しをトラクトにし、宣教のため出版もしました。
 実は冒頭に紹介した淵田さんが回心へと導かれたのはこのディシェイザーが書いたトラクトでした。

 この世界は罪の支配下にあります。私たちの力ではそこから出ることはできません。
 2000年前のクリスマスに来られたイエス・キリストはこの罪の束縛から私たちを贖い出すために来てくださいました。
 今は復活して天の父の右の座におられます。
 いつか罪のゆえに、誰一人命を保つことのできない徹底的な裁きが来ます。
 それはクリスチャンにとっては贖いの完成の時です。
 今は水面下で上陸作戦の準備が進められているところです。
 終わりはまだ来ないと思ってこの世に従って生きるのか、それともいつか帰って来るキリストを見上げながら、この地に神の国を建て上げていくのか。

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

ペトロの手紙二3:9

  私たちが御言葉に聞き従うとき、主に礼拝をささげるとき、この地に神の国が臨みます。
 先週、キムシンソク先生と共に様々な場所で賛美がささげられました。それはこの地に神の国を解き放つことです。主の勝利を宣言することです。
 贖い主イエス・キリストは神に従う私たちを迎えに来ます。

 終わりが来ます。
 それは神に背く傲慢な者にとって、恐ろしい裁きの時です。自分の力に頼る者はそこから自分を贖うことはできません。
 ただイエス・キリストの十字架と復活によって、私たちは贖われます。
 神に従う者にとって終わりの日は贖いの完成であり、神の国の実現を意味します。
 キリストの血潮によって贖われた者として、神に従って生きる私たちになることを願います。

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