ビジョンと使命2
隔ての壁を壊す
エフェソの信徒への手紙 2:14-22
14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
型にはめられる一致
教会のビジョンと使命の2つ目「国籍や社会的立場の異なる多様な世代の人々が一つの体、神の家族となる。」です。
一致について考えています。
一致という言葉は一般的には少しも違うところがなく1つになることを言います。皆が同じルールに従って行動するような状態です。
就職活動をしている大学生などを見ると、同じようなリクルートスーツに白いシャツやブラウス。カバンや靴もほぼ同じ。髪型も髪の毛の色までもお揃い。見事に一致しています。
出る杭は打たれる日本社会によって、模範的な社会人が生産されていきます。金太郎飴のように。
学校では軍隊のような集団行動が大切にされ、理不尽な校則にも従順が求められます。自由な発想は許されず、かけ算の順番まで教師の理想の通りに書かなければならない。
そして大学生になっても年齢的には成人になっても、社会人としての当然のルール、不文律、最低限のマナー、そういったものを押しつけられます。
しかし私たち人間は一人一人違っています。社会が決めた型の中になど納まりきれません。
はみ出した者は落ちこぼれと呼ばれ見捨てられていきます。
型にはめられた人たちも含め、多くの人が生きづらさを抱えています。
表面的には社会が求めるルールに一致しているように見えても、心の中では叫びを上げています。
「はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ」
若者たちの正直な声です。
暴力的な言葉かもしれません。しかしその声を無視してはいけません。
この社会は出る杭を打ち叩き、多様性を求める声をふさいできました。
多様性を認められず生きづらさを抱える人たちの叫び、声なき声に耳を傾けなければなりません。
一致とは何なのだろう。
神は人間を多様な存在として造った
聖書を見ると神様は人間を男と女とで別々の存在として創造したことがわかります。
アダムのあばら骨からエバが造られました。アダムは土の塵から造られましたから、素材から違っています。
だから男性と女性では、体の仕組みから様々な違いがあります。
ノアの洪水の後、生き残った3人の息子たちから世界中に人が増え広がっていきました。同じ家族ですが、それぞれ肌の色などが違う個性的な兄弟だったようです。
シンアルの地に集まった人たちはバベルの塔を建てようとしますが、神は人々の言葉をバラバラにして世界中に散らしました。
やがて民族という概念ができ、力のある人が他の人を統率するような身分の違いができ、国が作られるようになっていきました。
このように人間には互いに多くの違いがありますが、そこには神ご自身が意図した違いも含まれています。
だから違いがあること自体は悪いことではありません。神は人間を多様性な存在として造っています。
川によって敵と味方に分けられる
しかし人間はその違い、多様性を認めません。
同じ民族、同じ国民で固まり、他の民族、他の国民を敵視します。
パスカルはパンセの中で、
「なぜ私を殺すのだ」
「何を言う。お前は川の向こうの人じゃないか。川のこっち側の人間を殺せば人殺しになるが、川の向こう側の人間を殺せば勇士になれる」
という会話を紹介しています。
1本の川を挟んで、人間が敵と味方に分かれてしまう。そして敵を殺すことは正当化されてしまう。
そのような人間の愚かさを語っています。
人間は壁を作り、その中でルールに従う者を仲間と呼び、外にいる者を敵と呼びます。
隔ての壁を作る人間
神様はアブラハムを選び、大いなる国民にすると約束しました。アブラハムを祝福の源にし、すべての民を祝福するためでした。
しかしアブラハムの子孫であるユダヤ人たちは自分たちこそ神に選ばれた民だと思い、異邦人を差別しました。
男性が割礼という戒律を守っているかどうかが、神の民とそうでない人の違いでした。割礼のない異邦人を犬とさえ呼びました。
神殿にはもともと至聖所と聖所が分けられ、罪ある人間が神に近づけないようになっていました。それはユダヤ人も異邦人も同じです。
しかし後にユダヤ人男性の庭、ユダヤ人女性の庭、異邦人の庭が区切られ、女性や異邦人は特に神から遠ざけられました。特に異邦人の庭は商業エリアになっており、すべての人のための祈りの家ではなくなっていました。
ローマ帝国の時代、神の民であるはずのユダヤ人が異邦人に支配されているというのは屈辱的なことでした。
ユダヤ人は規則と戒律ずくめの律法によって壁を作り、壁の外側の人に対して敵意まで抱いたのです。
隔ての壁を壊したイエス・キリスト
その隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄したのがイエス・キリストです。
イエス・キリストはすべての人のために十字架で死にました。その罪状書きには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていました。ユダヤ人の言葉だけではなく、当時の地中海世界で使われていた主な言葉においてイエスの十字架が示されています。
イエスの隣には社会のルールからはみ出した落ちこぼれの強盗がつけられていました。彼が「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うと、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束しました。規則も戒律も関係なく、ただイエスへの信仰で救いが約束されました。
イエスが息を引き取ると地震が起こり、至聖所と聖所を隔てていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。隔ての壁は取り壊され、道・心理・命であるイエスを通して父なる神に近づくことができます。
イエスの死を見届けたローマの百人隊長は、異邦人であるにも関わらず「この人は本当に神の子だった」と告白しました。
そして墓に葬られ3日目に復活したイエスは天に上げられ、聖霊を送りました。同じ1つの霊を受けた人々は他の国々の言葉で神の素晴らしさを語りました。
そして教会は国を越え、社会の多様な人々に福音を語っていきました。
壁の外の人と付き合う
私たちは知らず知らずのうちに壁を作ります。
男性と女性、性別の壁。日本人、韓国人、ブラジル人、国籍や言葉の壁。社会人や学生という立場の壁。大人と子どもの壁。障がいが有るかどうかの壁。
クリスチャンとノンクリスチャン、信者と未信者などの言葉を使うとき、私たちは無意識的に教会の中と外に壁を作っています。そして自分たちは神を知っていて、世の人は神様を知らないのだと、見下してしまいます。
この隔ての壁によって、福音を必要としている人々を神様から遠ざけてはいないでしょうか。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫ぶ盲人を黙らせ、子どもを祝福してもらおうと集まった母親たちを叱って帰らせようとした弟子たちのように。
教会の中でも規則と戒律によって人を束縛することがあるかもしれません。
教会のビジョンに従うことが求められ、日常生活や進学、就職、結婚が制限される。
いつも喜び感謝し、どんなときも笑顔でハレルヤと言わされる。
「うっせぇうっせぇうっせぇわ」と心では思っていても誰にも言えない。神にもぶつけられない。
しかしイエス・キリストは隔ての壁を取り壊し、規則や戒律から自由にしました。
私たちは祝福の源です。壁を作っている場合ではありません。この多様な世界の人々を祝福するために召されています。
壁を壊し、外へ出ていきましょう。
多様性のある一致
多様性のある人々が、どうして1つになることができるのでしょうか。
それは神によって結び合わされることによって可能になります。
神ご自身が多様性を持ち一致しているお方だからです。
神は三位一体です。父と子と聖霊、この三つの異なる位格を持つ神が、1つの本質を持つ。三つが一つなのです。
ゲツセマネの園でイエスは祈りました。
わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
ヨハネによる福音書17:11
私たちは三位一体の神の愛の交わりの中に招かれています。
一つの体、神の家族になるように招かれています。
多様な部分がある一つの体
体には色々な部分があります。目、耳、手、足、肉、骨、内蔵。それぞれ違っています。しかし一つに結ばれています。
それぞれの違いを生かし、体は機能します。
ある部分から見ると、他の部分は劣って見えるかもしれません。
百聞は一見に如かずと言います。耳からの情報は目からの情報ほど大切にされません。
耳の立場からすると「私は目さんの100分の1の仕事しかできない。私は体に必要ないんだ」と思っているかもしれません。
それでも耳は耳の役割があります。耳には耳にしかできない働きがあります。
男性から見ると女性は話が長く感情的に見えるかもしれません。女性が入った会議は長くなると言う人もいます。だからと言って女性を重要な立場から遠ざけてはいけません。
違いがあると言うのは、よいことです。
多様性を尊重し、互いに相手を優れた者と認めていきましょう。
愛を深める努力をする家族
家族はまず夫と妻が結び合わされるところから始まります。
夫と妻は別々の人間です。二十年、三十年、別々の環境で育ってきました。その全然違う人同士が、互いに愛し合い、一つになります。それはまさに神秘です。神によって違いのある二人が一つに結び合わされるのです。
子どもが与えられ、家族が増えることもあります。その子どもは父と母の遺伝子を受け継いでいますが、やはり別の人間です。誰に似たんだと思うような行動をしたり、親の理解を超えた人生を選択したりします。
最初は無条件にかわいく思えても、だんだん憎たらしくなってくるかもしれません。それでも親は子を愛します。子どもは反抗する時が来ますが、そうして子どももまた一人の人間として家族を愛するようになっていきます。
家族はこのように愛によって結び合わされるわけですが、それには努力が必要です。愛を深めていく努力が必要です。
今日はバレンタインデーです。愛について考える日です。家族に愛を表しましょう。
言葉だけではダメです。チョコレートを贈るでもいいし、花を贈るでもいいです。
教会でチョコレートを配ります。たくさんあります。友だちの分も持って行ってください。
友だちに愛を表しましょう。バレンタインデーに性別は関係ないです。男性が女性にでも、男性が男性にでもいいです。
それから、愛することが難しい人がいますか。自分の壁の外にいる敵のようなあの野郎です。
そういう人が職場や学校にいるなら、明日は早めに行って、あの野郎の机にも1粒のチョコレートを置いてあげてください。
その1粒のチョコレートが壁を壊します。敵が敵でなくなります。
この世において川は分断の象徴かもしれません。
橋のない川によって見えない壁が築かれ、社会は分断されています。同じ人間が、互いに敵対し、力ある者が他者を支配します。
しかし神の国において川は命の象徴です。
キリストにあって一つにされた主の神殿から、命の水が川のように流れ出ます。その川が流れるところでは、すべてが生きます。
流れのこっちと向こうで隔てられるなら、橋を架ければいい。
隔ての壁を壊し、橋を架けていきましょう。
あらゆる違いを超えて、一つにされていきましょう。