隣人が苦しむ時に

エゼキエル書講解36

隣人が苦しむ時に

エゼキエル書 25:1-7

1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、顔をアンモン人に向けて、彼らに預言せよ。3 アンモン人に言いなさい。主なる神の言葉を聞け、主なる神はこう言われる。お前はわたしの聖所が汚され、イスラエルの地が荒らされ、ユダの家が捕囚となって行ったことを、あはは、と言って嘲った。4 それゆえ、わたしはお前を東の人々に渡して彼らに所有させる。彼らはお前の中に陣営を張り、住まいを定める。彼らはお前の果実を食べ、お前の乳を飲む。5 わたしは都ラバを、らくだが草をはむ所とし、アンモンの地を羊の憩う所とする。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。6 主なる神はこう言われる。お前は手を打ち、足を踏み鳴らし、イスラエルの地に対する嘲りの思いに満ちて喜んだ。7 それゆえ、わたしはお前に向かって手を伸ばし、お前を国々の略奪にゆだね、諸国民の中から断ち、諸国から一掃して滅ぼし尽くす。そのとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。」

他人の不幸を喜ぶ世界

 サッカーのワールドカップ ロシア大会が先週終わりました。フランスが優勝しました。(2018年7月22日の説教)
 サッカー好きな人には、Jリーグも楽しみですね。
 ジュビロ磐田に元日本代表のFW大久保嘉人選手が入りました。中村俊輔などスター選手が揃い活躍が期待されます。
 さらにヴィッセル神戸はスペイン代表のイニエスタが加入し、注目です。
 野球も甲子園が100回目の記念大会となり、楽しみです。

 スポーツの世界にはフェアプレーの精神があります。互いに相手を尊敬し、競技を楽しむというものです。
 対戦相手は敵ではなく、共に競う仲間です。
 だからといって手を抜くのは失礼です。相手への敬意をこめて、全力で勝負します。
 もし相手がケガをした場合、ケガをした選手をいたわることも大事です。

 ワールドカップで日本代表が決勝トーナメントに行けたのはフェアプレーのおかげでした。ポーランド戦の最後の10分がフェアプレーだったかは疑問が残りますが、フェアプレーの大切さを教えてくれました。
 5月にはアメリカンフットボールの日本大学と関西学院大学の試合が話題になりました。日本大学側がわざと危険なプレーをするように指示していたようです。それに対し、関西学院大学が試合前に聖書を読み祈ってから試合に臨むことや、相手選手のケガで試合が中断したときに片膝をついて静まる姿が対照的でした。
 関西学院はメソジスト教会によって建てられたミッションスクールです。その教え、福音がスポーツマンシップの姿勢に現れているとも言えます。

 この世界は一般的にはフェアプレーではありません。弱肉強食の世界です。
 周りの競争相手は食うか食われるかの敵。周りの敵を蹴落としていきます。他の誰かがつまずき倒れれば、自分が有利になります。
 他人の不幸は蜜の味がします。
 この世界で私たちはどう生きるべきでしょうか。

アンモンへの預言

 エゼキエル書の中間部分に入りました。前半はエルサレムの破壊が語られてきました。後半で回復が語られます。
 その間にイスラエルの周辺の国々に対する預言が語られます。
 今日の本文はアンモンへの預言です。
 エルサレムが滅ぼされるとき、アンモンはあははと笑いました。長年の敵が滅ぼされたのですから、当然の反応です。
 しかし主は、アンモンに裁きを告げます。

他人の不幸は蜜の味

 まず今日の本文の1節から3節で『1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、顔をアンモン人に向けて、彼らに預言せよ。3 アンモン人に言いなさい。主なる神の言葉を聞け、主なる神はこう言われる。お前はわたしの聖所が汚され、イスラエルの地が荒らされ、ユダの家が捕囚となって行ったことを、あはは、と言って嘲った。』 とあります。
 この世界は誰かの不幸を見てあははと笑うか、無関心です。

敵の破滅

 アンモンとはどのような民族だったのでしょうか。
 創世記を見るとそのルーツがロトにあると書いてあります。
 アブラハムの甥ロトは、アブラハムと一緒に父の家を離れ、カナンに来ました。
 主はアブラハムもロトも祝福し、家畜が増えました。すると互いのしもべの間で争いが起こりました。家族が争うのはよくないと考えたアブラハムは、ロトに好きな場所を選んでそこに住むように言います。
 ロトは東の低地を選び、そこにあったソドムという町に定住します。後にソドムは火と硫黄の雨によって滅ぼされ、逃れたロトと二人の娘によってモアブとアンモンという2つの部族が生まれます。
 ですからイスラエルとアンモンは遠い遠い親戚です。
 もとはイスラエルと同じように祝福を受け継ぐべきでしたが、自ら祝福から離れて行ってしまいました。

 ダビデ王の時代、ダビデはアンモンと同盟を結び、友好な関係を持っていました。
 アンモンの王が死んだとき、ダビデは哀悼の意を表すために使者を送りました。ところがアンモンの新しい王はイスラエルからの使者のひげを剃り、追い返してしまいました。これはイスラエル人にとって許しがたい侮辱です。
 怒ったダビデはアンモンと戦い、自らその首都ラバを攻め落とします。これがダビデ自身が出陣した最後の戦争になりました。アンモンはそれからしばらく、イスラエルに隷属することになります。
 アンモンはこのようにイスラエルに敵対してきました。
 そのイスラエル人の国、南ユダがバビロンによって滅ぼされます。

あははと笑う

 アンモン人はそれを知って、あははと笑いました。
 長年の敵が滅びるわけですから、笑いたくなるのは当然ですね。日本のことわざでも、他人の不幸は蜜の味と言います。
 誰かが仕事でミスをした。あいつの評価が下がり、自分に出世のチャンスが回ってくる。成績の良い友だちがカゼで学校を休んだ。あいつの勉強が遅れる間に自分が追い抜いてやろう。幸せそうだった芸能人の夫婦が離婚したらしい。浮気だって。愉快愉快。
 神様、ありがとうございます。今まで惨めだった私のために、ついに復讐してくださったのですね。あはは!
 私たちはこのようにして誰かの不幸を心の中で笑います。
 人はパンだけで生きるのではなく、芸能人のゴシップや友だちの悪口がごちそうになっています。

無関心

 これは身近な人や有名人の場合です。もう少し離れた人になると、もはや何とも思いません。
 テレビでテロや銃の乱射のニュースを見ても、「ああ恐い、日本でよかった」と思います。貧困の子どもたちや、独裁国家にいる人々のことは想像もできません。アメリカの火山の噴火やハリケーンのニュースは、規模が違いすぎて映画の中の話のようです。
 同じ日本の中でも苦しんでいる人々がいます。それでも私たちは接点がなければ、私たちじゃなくてよかったと思ったり、そんなに大変ではないだろうと軽く考えてしまったりするのです。

芥川龍之介「蜘蛛の糸・杜子春」(新潮社)

 芥川龍之介のクモの糸という話があります。
 カンダタは殺人や放火もした凶悪な泥棒でした。彼は死んだ後、地獄に落ちます。
 ある日、釈迦が極楽を散歩していると、池の中から地獄の様子が見えました。そこにカンダタもいました。
 釈迦は思い出しました。カンダタは1ついいことをした。それは泥棒に入る途中でクモの巣が道をふさいでいたが、カンダタはそのクモを殺さなかった。そこで釈迦はクモに命じて、地獄に向かって糸を下ろさせました。
 地獄で苦しんでいたカンダタが目を上げると、上からクモの糸が垂れています。その糸の先は極楽に通じています。カンダタは自分がしたたった一つの良いことを思い出しました。そうだ、俺はよい人間だ。地獄で苦しんでいるこいつらとは違う。俺には救われる資格がある。そう思ったカンダタはクモの糸を上り始めます。
 かなり上まで来たところで、カンダタは自分の体が重くなった気がしました。なぜだろう。振り返ってみると、おびただしい数の人が同じようにクモの糸にくっついていました。互いに蹴落とし、足を引っ張っています。
 やめろ、これは俺の糸だ。カンダタは下にいる人々を蹴落としながら、踏み台にしながら上を目指していきます。
 そうしていると、クモの糸はカンダタの真上でプツンと切れてしまいました。

 私たちの姿です。他人の不幸という蜜を吸って生きる私たち。他人を蹴落として上を目指していく。
 他の人の痛みや苦しみには関心がなく、自分だけよければそれでいいと思う。
 その全てが、滅びへ向かうこの世の考えに縛られています。

自分が餌食になる

 次に今日の本文の4節から7節に『4 それゆえ、わたしはお前を東の人々に渡して彼らに所有させる。彼らはお前の中に陣営を張り、住まいを定める。彼らはお前の果実を食べ、お前の乳を飲む。5 わたしは都ラバを、らくだが草をはむ所とし、アンモンの地を羊の憩う所とする。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。6 主なる神はこう言われる。お前は手を打ち、足を踏み鳴らし、イスラエルの地に対する嘲りの思いに満ちて喜んだ。7 それゆえ、わたしはお前に向かって手を伸ばし、お前を国々の略奪にゆだね、諸国民の中から断ち、諸国から一掃して滅ぼし尽くす。そのとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。」』
 人の不幸を笑う人は自分の人生も破滅させます。

自分の量る秤で量られる

 主はそのようなアンモンに対して裁きを告げます。
 聖書の一つの原則は、人は自分の量る秤で量り与えられるということです。
 公正な秤を使う人は公正に扱われます。不正な秤を使う人は不正に扱われます。
 イエス・キリストはナザレでほとんど奇跡を行いませんでした。それはナザレの人々がイエスを大工の息子としてしか見なかったからです。
 イエスを神の子、メシアとして受け入れた人々はあらゆる病から癒されました。
 私たちがどういう観点をもって生きるかによって、私たちの生き方が変わってきます。

苦しみは誰にでもある

 この壊れた世界の中で、苦しみや悲しみは誰にでも襲ってきます。
 あいつが苦しんでいるのは、あいつが悪い人間だからだということはありません。
 アンモンはイスラエルをあははと嘲りましたが、同じ苦しみがアンモンを襲います。
 バビロンがアンモンのラバではなく南ユダのエルサレムを攻めたのは、アンモンがよい人たちでイスラエルが悪い人たちだったわけではありません。ただくじ引きでそう決まっただけです。
 しかもそのくじ引きは主がエゼキエルに語った通りに行われたものです。
 主はアンモンにも東からバビロンを送ります。そしてアンモンの大いなる都ラバはエルサレムと同様に徹底的に破壊されます。

破壊者が破壊される

 かつてダイエーという大型スーパーがありました。価格破壊をテーマに安い品物を揃え、日本全国に出店していきました。
 ダイエーが猛烈な勢いで拡大していったため、市場はダイエーによって独占されていきました。地域に元々あった小さな商店は競争に負け、次々と閉店していきました。
 ダイエーは一時期、プロ野球チームを持つほどに大きくなりました。
 そんな中、バブルが崩壊します。日本の経済が悪化していく中で、ダイエーの戦略では採算が取れなくなっていきます。あまりに安さを追求したため、大量に消費しなければ利益が出ません。周りの競争相手を潰していったため、客が集まりません。
 次々と業績が悪化し、ダイエーは消滅していきました。
 今もダイエーというブランド名は残っていますが、イオンの完全子会社になってしまいました。

 私たちは弱肉強食の競争原理の中で生かされていますが、この競争の中にいる限り、いつか私たち自身が食われる時が来ます。
 この世の原理に従って生きるなら、この世の原理に従って滅ぼされます。
 しかし神の国の原理に生きる人は、神の国の原理によって生かされます。

隣人になる

 最後に、私たちは苦しむ人の隣人になる道があります。

敵意からの解放

 この世の原理とは違う神の国の原理とはどのようなものでしょうか。
 イエス・キリストはどのような原理で生きたのでしょうか。
 そもそもイエス・キリストに競争相手がいたと思いますか。賛美歌にあるように、世の何物もキリストには代えられません。
 強いて言うなら、ユダヤ教がキリスト教の競争相手だったでしょうか。しかしイエス・キリストの働きを見てみれば、彼がユダヤ教に敵対しようとしたのではないことがわかります。ユダヤ教の指導者たちは一方的にイエス・キリストを敵視しましたが、イエス・キリストがイスラエルで新しい宗教を始めようとしたわけではありません。
 むしろユダヤ教というシステムになってしまった神とイスラエルの関係を、本来のかたちに回復しようとしたと言えます。
 律法を破壊したのではなく、完成させました。神殿を破壊したのではなく、清めました。会堂を破壊したのではなく、むしろそこで教えました。
 パウロの宣教も、アテネの偶像崇拝に心を痛めはしましたが、ギリシア人の信仰深さを評価しています。
 イエス・キリストは敵の手で十字架に付けられました。しかし敵の勝利のように見えたこの事件を、神は決定的な勝利に変えました。
 イエス・キリストは十字架で全ての敵意を滅ぼし、あらゆる隔ての壁を取り除いたのです。

苦しみに寄り添う

 だからもう私たちは周りの人を敵と思う必要はありません。競争はありますが、互いに高め合うライバルです。
 そして私たちは苦しみの中にいる人々を見てあははと笑うのではなく、その苦しみに寄り添うことができます。

 スリランカは仏教が強い国です。キリスト教も5%ほどいますが、迫害を受けています。
 ポルトガルやイギリスに植民地支配された歴史があり、キリスト教に対して敵対心が強くありました。
 教会は追い出され、山の方にひっそりと隠れて信仰を守るしかありませんでした。
 2004年にスリランカを大きな津波が襲いました。その時、低地にあった仏教徒の家や寺が壊滅的な被害を受けました。山にいたキリスト教徒は無事でした。
 その時クリスチャンは「あはは、天罰だ!」と笑ったでしょうか。
 いいえ、彼らは山を下り、率先して救済にあたりました。
 自分たちを迫害していた寺にも行き、寺の再建にも協力しました。
 このことがきっかけで、迫害は終わり、人々は福音に対して心が開かれていきました。

 神の国の原理はこの世の原理を打ち破ります。

隣人を愛する

 ある律法の専門家がイエス様に永遠の命を受け継ぐ方法を尋ねたとき、彼は「主を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」が律法の核心だと言いました。イエス様はこの答えを称賛し、それを実行しなさいと言いました。
 すると律法の専門家は「わたしの隣人とは誰ですか」と聞きます。
 そこでイエス様が語ったのが善いサマリア人のたとえです。

 ある人が強盗に襲われ、半殺しにされました。
 祭司もレビ人も道の向こう側を通り過ぎましたが、あるサマリア人がその人を見て憐れに思い、介抱しました。
 誰がこの人の隣人になったでしょう。サマリア人です。

 ユダヤ人とサマリア人は数百年に渡って対立していました。それでも苦しむ人を憐れに思うとき、その人の隣人になることができます。
 この憐れむという言葉は、イエス様が人々を見て抱いた憐れみと同じ言葉が使われています。
 キリストの心で人を見る時、神の国の民として人々を見る時、私たちは彼らの隣人になるのです。
 そのとき私たちはもはや彼らの不幸を笑うことはできません。無関心ではいられません。自分のように隣人を愛するのです。
 隣人が苦しむ時、共に泣くことができます。
 たとえ長く対立していても、私たちは互いに愛し合うことができます。
 そうして神の国がこの地に広げられていきます。

 私たちは隣人が苦しむ時、あははと笑う世界に生きています。
 神の国の民は隣人が苦しむ時、その苦しみに寄り添い、共に泣きます。
 キリストの愛を受け取り、そのように生きる者とさせていただきましょう。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください