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霊によって自分の足で立つ

エゼキエル書講解2

霊によって自分の足で立つ

エゼキエル書 2:1-10

1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」2 彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。3 主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。4 恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。5 彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。6 人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。7 たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。8 人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」9 わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。10 彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。

弱さを認めることで新しい力で立てる

 日本は地震大国です。いつどこで地震が起きてもおかしくありません。
 そのような日本の中で、いつどこでどれくらいの規模の地震が起きるか予知できると言われていた地震があります。浜松を含む東海地方で発生する東海地震です。
 予知できると言われていた根拠は、東海地震は前兆現象を伴う可能性があること。その前兆を観測するネットワークが整備されていること。前兆現象であるかどうかを科学的に判断するモデルがあることです。そのため、40年以上前から東海地震は予知できる地震だと言われていました。
 私も静岡に引越してきたときに考えたことは、静岡と言えば、お茶、富士山、地震でした。気象庁は東海地震の前兆現象が観測されると2~3日以内に東海地震が起きる可能性があると発表します。すると首相が警戒宣言を発表し、鉄道を止めたり学校や工場を休業にします。
 しかし起こる起こると言われていながら、なかなか地震は起きません。その間に阪神、東北、熊本で大きな地震がありました。地震予知そのものができるのかどうかというレベルの議論が起こってしまいました。
 そこで2017年、政府はとうとう、現時点では、確度の高い地震の予測はできないと認めました。
 できませんと認めるのは難しいことです。自分の間違いや弱さを明らかにすることは危険なことかもしれません。
 しかし政府ができないと認めたことで、予知ができるるかどうかという役に立たない議論に終止符が打たれました。
 これからはいつどこで起きてもおかしくない地震に対して、どのような対策ができるのかという実際的な議論ができるようになりました。
 弱さを認めるところから、新たな力で立ち上がることができます。
 本当に自立した人とは、自分の弱さを知っている人です。自分の力ではできないと認める人が、全てを可能にする力を受けるのです。

 今日の本文は主がエゼキエルに声をかける場面です。
 捕囚になってから5年目、30歳のエゼキエルはケバル川の河畔で主の顕現に出会います。
 全地を治める主の圧倒的な栄光の前で、エゼキエルはひれ伏すしかありませんでした。
 ところがそのようなエゼキエルに、主が声をかけます。そして自分の足で立てと命じます。
 エゼキエルは立ちましたが、その力は自分の力ではありませんでした。
 そして主はエゼキエルに使命を与え、語るべき言葉を与えます。
 主の前でひれ伏すしかない無に等しいエゼキエルに、主は必要な力を与え、遣わしていくのです。
 今日の本文を通して、自分の力ではなく霊によって立ち、人の評価を恐れず、主の御心を伝える私たちになることを期待します。

自分の足で立て

 まず今日の本文の1節2節で『1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」2 彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。』 とあります。
 主の前でひれ伏すしかない人間を主は用いてくださいます。

ひれ伏している

 これは先週からの続きの場面です。
 エゼキエルはバビロンに捕囚になってもう5年になっていました。もう希望を失ってもおかしくない時期です。
 エゼキエル自身、本来ならば祭司として神殿で奉仕を始めていたはずの年です。夢を断たれ、落ち込んでいたかもしれません。
 そのような虚しい状況にいたエゼキエルは全ての生き物の代表を表す4つの生き物と、その上に立つ主に出会いました。
 エゼキエルは圧倒的な主の栄光の前でただひれ伏すしかありませんでした。
 私たちは自分自身を見て誇るものがあるかもしれません。自分には知識がある。技術がある。財産がある。
 それは主の前で誇れるものでしょうか。これは神様にも揺るがすことのできないものだと、バベルの塔を築いてはいないでしょうか。
 主を見上げれば、自分には何もないことがわかります。どんな知識、技術、財産があったとしても、主の前では無に等しいのです。
 誇るものがあるとすれば、主を知ることだけを誇ればいいです。

22 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。23 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

エレミヤ書9:22-23

 この地に慈しみと正義と恵みの業を行われる主の前で、私たちはただひれ伏すしかない無に等しい存在です。

霊が入る

 主の前でひれ伏すエゼキエルに誰かが声をかけました。このときはひれ伏していたので誰の声かわかりません。
 後にこの声は主の声だということがわかります。無に等しい存在であるエゼキエルに、主ご自身が声をかけてくださったのです。
 そこで主が言われたことは、「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」ということでした。
 人の子という表現は、一般的には人間一般を指す言葉です。特別な者ではなく、何かを誇れる者ではない。エゼキエルの人間としての小ささと弱さを表した表現です。
 主はそのような人間に過ぎないエゼキエルに、自分の足で立てと命じました。
 一体誰が主の前で自分の足で立つことができるでしょうか。
 その時に霊がエゼキエルの中に入りました。神が送った霊、つまり聖霊です。聖霊がエゼキエルを自分の足で立たせました。

主の力で立つ

 この表現に疑問を持つ人もいるかもしれません。
 主が命じたのは自分の足で立てということではなかったか。それなのに聖霊が入って立ったなら、自分の足で立ったと言えるのか。
 宿題を親に教えてもらってやったのに、自分でやりました!と言うようなものではないか。
 確かにエゼキエルは自分の力で立ったのではありません。エゼキエルは霊の力によって、自分の足で立ったのです。
 主なる神様は計画を持っています。全世界に対する、永遠で不変の偉大な計画です。
 神さまはその計画を自分で遂行します。
 計画を立てた人と実際に行う人が違えば、ズレが生じます。
 私は髪を切りに行くとき、1000円でできる店に行きます。スタッフがそれぞれ個性的で、指名ができないので、自分のイメージしている髪形がなかなかうまく伝わりません。終わった後に、こんなはずではなかったのに、ということがよくあります。
 神様にそのようなことはありません。計画を自分の力で成し遂げていきます。
 だからこの世界で起こる全てのことは全能の神の計画の内であり、人知を超えた偉大な計画が実現していくプロセスなのです。
 ところが主なる神様はその計画を人を通して実行していきます。聖霊の力で、人を用いて働くのです。
 神様にとって人間とは何者でしょう。神に反逆し、罪を犯し腐敗した存在です。それなのに神は人を用いてくださいます。
 むしろ自分の罪深さ、主の前でひれ伏すしかないことを知っている者を主は有益なしもべとして用いてくださいます。
 ペトロ、パウロ、マルコのように、まずは主の前でひれ伏すのです。神の前で自分には何もないことを認め、全面降伏するのです。
 そしてこのような私たちのために十字架で死なれ復活されたイエス・キリストを見上げるのです。
 私たちを覆っていたプライド、虚栄心、古い自分を脱ぎ捨てるとき、土の器が現れます。傷だらけ、欠けだらけのみすぼらしい器だからこそ、その内にある宝は隠すことはできません。
 私たちを通して働く聖霊の力を隠すことはできません。
 私たちが礼拝をささげることは驚くべき恵みです。主の前に立つことができる。自分の足で立つことができる。無に等しい自分が、主に出会うことが許されている。そのことを知れば、礼拝が本当に喜びで満たされます。
 自分の置かれた状況がどうであれ、たとえ知識も技術も財産もないとしても、主を知る喜びで満たされます。
 これが本当に自分を知り、自立した人生です。

拒まれても

 また今日の本文の3節から7節で『3 主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。4 恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。5 彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。6 人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。7 たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。』とあります。
 人からの評価を気にしてはいけません。

反逆の民

 主なる神様はエゼキエルをユダに対する預言者として立てました。
 このイスラエル民族に対しては多くの預言者たちが長い間語り続けてきました。ユダに対してはエレミヤが既に何十年も前から預言し続けています。ところが民は全く聞きませんでした。
 北イスラエルは滅んだ。ユダは同じ過ちを繰り返している。エルサレムには神殿があるから大丈夫だと信じている。しかしそのエルサレムもバビロンによって既に2回も攻められ、ヨヤキン王も身分の高い人々と共に捕囚になってしまった。
 エレミヤが預言した通りになっているのに、ユダはまた偶像に頼ろうとする。
 イスラエルはまさに、主に逆らった反逆の民なのです。恥知らずで強情な人々です。
 若いエゼキエルが語ったところで、結果はわかりきっているようなものです。

恐れるな

 主は、イスラエルが聞き入れようとも拒もうとも語れ、と言われます。あざみと茨に押し付けられ、蠍の上に座らされても恐れるなと言われます。
 人からの評価を気にしてはなりません。
 ただ「主なる神はこう言われる」と言い続ける。主の御言葉を宣言する。
 人々は反発するでしょう。この世では正しいから憎まれるということもあります。
 人からよく思われるために正義を曲げてしまうということがあってはなりません。たとえ人から憎まれても、私たちは正しいことを宣言し、実践するのです。
 メディアはより多くの人に見てもらうことに重点を置いています。金になるからです。
 そうすると正しい報道より、欲望を満たす報道がされることになります。
 近年、不倫に関する報道が増えていると言われています。主要なテレビ局で不倫に関する番組の放送時間が2015年は21時間半だったのに対し、2016年は170時間。2017年は8月までの時点で121時間という統計があります。
 その報道の仕方も、不倫をした人たちをさらし者にするような仕方で、報道自体が社会的な制裁を加えるようなものになっています。
 このことに対しアーサー・ホーランド牧師はテレビに出演した際、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」というイエス・キリストの言葉を引用し、罪がない人はいないことをふまえ、丁寧な報道な報道をするべき。またもっと大事なことに時間を割いて報道をするべきだと述べました。
 この発言に対してもインターネット上では大きな反発がありました。
 もちろん不倫は悪いことです。だからと言って相変わらず罪を犯した人をさらし者にし、石を投げつける社会の在り方を許していいのでしょうか。イエス・キリストはどうされたのでしょうか。
 人からの評価を気にせず、私たちは福音を宣言し、福音に立って生きなければなりません。

語り続けよ

 パウロが最初にコリントに行ったとき、そこでは様々な戦いがありました。
 2つの大きな港に挟まれ、交通の要衝であったコリントの町には様々な文化が入り乱れていました。偶像崇拝があり、道徳的にも堕落した町でした。さらにユダヤ人からは反抗され、口汚く罵られました。
 パウロを受け入れ、支援してくれそうな人たちもいましたが、彼らは福音のためではなく自分の名誉のためにパウロのスポンサーになろうと考えるような人たちでした。
 パウロはコリントでは誰からも支援を受けず、テント作りで宣教資金と生活費を稼がなければなりませんでした。
 福音を守るための戦いがそこにありました。
 そのようなパウロに、主は語りかけます。

9 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。10 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

使徒言行録18:9-10

 恐れずに、語り続ける。主の御言葉を宣言する。
 その時に人々が受け入れようと拒もうと、それは彼らの選択です。
 やがて人々は自分たちの間に預言者がいたことを知るでしょう。
 それだけで十分です。人を説得したり、信じさせたりできなくてもいいのです。
 主が共にいて、私たちを通して働いて下さいます。
 人の評価を気にせず、忠実に主に従うとき、偉大な神の計画が前進していきます。

主が与えるものを食べよ

 最後に今日の本文の8節から10節で『8 人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」9 わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。10 彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。』 とあります。
 必要なものは主が十分に与えてくださいます。

聞きなさい

 エゼキエルは何を語ればよいのでしょうか。
 主はまず、「わたしがあなたに語ることを聞きなさい」と命じました。語る者は、まずよく聞く者でなければなりません。
 誰かを教え導く立場にある人は、話すのが好きな人が多いです。牧師もそうです。主が命じられたとおりに語り続けて黙っていられない人もいます。
 そうすると、人々の抱えている痛みや悩みがわかりません。一方的に教え込み、相手を黙らせてしまいます。
 これでは救いを求めてきた人を傷つけて帰すことになります。
 大人たちも同じです。教える立場にある人は、まず相手の声に耳を傾けなければなりません。
 教育という言葉educationの語源はラテン語のeducareですが、これは相手の内面を引き出すという意味があります。教育は一方的に押し付けるものではなく、相手の内に隠れている宝を見つけ出す作業です。
 相手の内面をよく聞くことができる人が、よく語ることができます。
 昨日は牧師友だち4人とガストに行ってきました。3時間話し続けます。私はもともとそんなに多く話す性格ではないので、ほとんど3人で3時間話すという感じです。でも友人の牧師たちも相手の話をよく聞く人なので、心地いいです。自分の話をするのではなく、自然と皆の会話を引き出すような感じです。見習っていきたい尊敬する友だちです。
 私たちはまず聞く者になっていきたいと願います。主の御言葉に耳を傾ける。そして御言葉を心に蓄える。
 私たちの口からは心に蓄えたものが出てきます。怒りや憎しみではなく、愛に基づいた言葉を語れるように。
 そして隣人の声に耳を傾ける。彼らの心に寄り添い、彼らを立て上げるのに役に立つ言葉を必要に応じて語られるように。

口を開きなさい

 次いで主は「口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」と命じました。
 主は私たちを養われる羊飼いです。青草の原で休ませ、全てを満たしてくださいます。私たちに日々の糧を与えてくださいます。主の御言葉が私たちの糧になります。
 人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのです。
 私たちの体は食べた物によって作られます。体に悪い物を食べれば、その影響は当然体に出てきます。
 霊の糧も同じで、私たちが日々どのような礼拝をささげているかが私たちの信仰を形成します。
 偶像を礼拝する者はどうなるでしょうか。偶像は自分で見ることも聞くこともできず、自分の足で立つことのない役に立たない物です。偶像を礼拝する者は同じように主の恵みを見ることも聞くこともできず、自分の足で立てず役に立たないものになってしまいます。
 私たちは主を礼拝し、主が与えてくださる糧を食べなければなりません。
 エサを求めるひな鳥のように、大きく口を開いて恵みを求めましょう。口を開くと、その口に主は語るべき言葉を与えてくださいます。

わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。

詩編81:11

 語るべきことは聖霊様が与えてくださいます。それは誰も反論することができない真理の言葉です。

巻物に書かれた主の嘆き

 エゼキエルが見ていると目の前に手が差し伸べられ、その手に巻物がありました。巻き物が開かれるとその表にも裏にも哀歌と呻きと嘆きの言葉が書かれてありました。
 これは主の心そのものです。イスラエルの対する主の嘆きは、巻物の表だけでは足りない。裏まで埋め尽くすほどに主の嘆きは溢れている。
 「イスラエルよ、どうしてお前は滅びてよいだろうか、生きよ」と言われる主の心。
 私が神であることを知れと願われる主の心です。
 私たちは御言葉を自分のものとするときに、主の心が自分の心になります。主の愛の目でこの世を見ることができるようになります。主の御言葉を自分の肉とし、自分の骨とするときに、この口から溢れ出る主の言葉を止めることはできません。
 必要なものは主が与えてくださいます。
 自分の力で自分の足で立たなければならないとすれば、私たちは苦しいです。誰もそのような力がないからです。
 自分の力で立とうと努力することだけで精一杯で、他の人まで配慮できません。他の人を利用して立つ人もいます。しかしやがてバランスを崩して周りを巻き込みながら倒れてしまいます。
 しかし私たちが立つ力は主から来ます。聖霊の力で立ちます。無尽蔵の恵みが供給され、あふれ流れます。そうすると恵みが自然と周りの人を潤していきます。
 私たちは主から与えられた恵みを分かち合っていけばよいのです。

 私たちは主の前でひれ伏すしかない存在です。
 しかし主はこのような私たちを用いてくださいます。
 自分の罪深さを知っている者こそ、有益なしもべになります。
 人からの評価は気にせず、主の心を伝えるのです。
 御言葉に耳を傾け、主が与えられた恵みに応じて仕えて行けばよいのです。
 聖霊の力によって用いていただく私たちになることを願います。

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