顔を見て勇気づけられる

使徒言行録講解73

顔を見て勇気づけられる

使徒言行録28:23-31

11 三か月後、わたしたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航した。ディオスクロイを船印とする船であった。12 わたしたちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、13 ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した。14 わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。こうして、わたしたちはローマに着いた。15 ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。16 わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。

走れメロス

太宰治

 「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」
 太宰治の小説「走れメロス」の初めの言葉です。
 メロスは妹の結婚式の準備のためにシラクサの街に来ました。シラクサには親友のセリヌンティウスが住んでいます。
 前にセリヌンティウスを尋ねて来た時とは街の雰囲気が違います。不審に思ったメロスは、王様が人を信じることができず多くの人を殺したという話を聞きました。
 メロスは激怒し、王様に直訴しに行こうとしました。メロスの懐にたまたま短刀が入っていたことから、暗殺を疑われて十字架にはりつけにされることになりました。
 メロスは死を覚悟の上で王様の前に立ちましたが、1つだけ心残りがあります。それは妹の結婚式が終っていないことです。
 メロスは3日間の猶予をもらい、妹の結婚式をあげて帰って来ると誓いました。
 人を信じられない王は、メロスの話を信用しません。メロスは帰って来る証拠として、親友のセリヌンティウスを人質に出しました。
 王様はほくそ笑みました。この男はどうせ帰って来ない。それが人間というものだ。3日後、世の正直者への見せしめに、身代わりの男を処刑するのだ。
 メロスは急いで帰り、次の日に結婚式の準備を済ませ、その次の日に雨が降る中ではありましたが結婚式をあげました。そして約束の3日目、シラクサに戻ろうとします。
 しかし途中の川が前の日の雨で激流になっています。命がけで渡ると山賊に襲われました。必死で逃げましたが、そこで力尽きます。
 ここまで必死に頑張ったのだからいいではないか。どうにでもなれ。
 そこでしばらく倒れ伏していましたが、岩の裂け目から湧き出す水を飲み、再び力を得ます。そして日没が迫る中、シラクサを目指しました。
 シラクサに到着する直前、セリヌンティウスの弟子フィロストラトスがメロスに言います。「もうダメです。あの方は死刑になります。あと少し早ければ…。あの方はあなたを信じておりました。王様にからかわれても、メロスは来ます、とだけ答えていました。」
 メロスは答えます。「それだから、走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついて来い!フィロストラトス。」
 メロスが処刑場に到着した時、セリヌンティウスはまさに十字架にかけられようとしているところでした。メロスは最期の力を振り絞り、友の足にかじりつきました。
 縄を解かれたセリヌンティウスに、メロスは「私を殴れ」と言います。途中で友を見捨てようとした自分には、友と抱き合う資格がありません。すべてを察したセリヌンティウスはメロスを殴りました。またセリヌンティウスも「私を殴れ」と言います。そして二人は抱き合い、声をあげて泣きました。
 それを見ていた王様は心を打たれ、「わしも仲間に入れてくれまいか」と言います。

 メロスは何のために走ったのでしょう。約束を守るためでもあるし、友を救うためでもあります。
 それと同時に、人間の美しさを証明するためでもあったのではないかと思います。国語は得意じゃないのでわかりませんが。

 私たちクリスチャンの人生もまた、神のかたちに造られた人間の美しさの証明でもあるのではないでしょうか。

ローマ到着

ディオスクロイ(ふたご座)

 マルタ島に漂着したパウロたちはそこで冬を越します。同じマルタ島で冬を越した船の中にアレクサンドリアからローマへ向かう船がありました。
 ディオスクロイの船印とあります。ディオスクロイというのはギリシア神話で、ポルックスとカストルという双子の神のことです。ポルックスとカストルはゼウスによって天に上げられ、それぞれ星になりました。こうしてできたのがふたご座です。
 ディオスクロイは船の旅を守る神としても信仰されていました。百人隊長は難破を経験したのもあってこの船を選んだのかもしれません。
 船はマルタ島を出るとシチリア島のシラクサ、イタリア半島の南西にあるレギオンに寄り、その後は南風を受けてプテオリに入りました。
 プテオリにも教会があり、兄弟たちに会って1週間滞在しました。
 ここからは陸路でローマに向かいます。アッピア街道に沿って進むと、ローマの兄弟たちがアピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれました。
 パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられました。

決められた道を走り通す

 パウロがついにローマに到着します。途中で難破を経験するなど、困難な旅でした。
 そもそも囚人としてローマに送られるので、途中で嫌になってもおかしくありません。総督の裁判を受けたときに無罪を主張して釈放される道もあったわけです。後悔しそうになります。それでもパウロはローマへの道を走り通しました。
 パウロはエフェソの長老たちにこう話していました。

しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

使徒言行録20:24

 パウロはローマでも福音を証しするという任務、決められた道を走り通したのでした。

どのように生きるべきか

 自分の任務、使命というものがわかりますか。
 それぞれの人生に神様の計画があります。でもそれは簡単にわかるものではありません。わかったと思っても、やっぱり違ったと思うこともあります。
 私自身、学校の先生をしていたときにもこれが自分の使命と思っていました。しかし今は牧師をしています。
 自分の使命はこれだと思い込まない方がいいでしょう。
 私たちはどのように生きるべきか。パウロはこう言っています。

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

エフェソの信徒への手紙2:10

 神が前もって準備してくださった善い業を行って歩む。
 でもその善い業が何かわからない。
 とにかく私たちは神の作品です。罪によって壊れた人間ではなく、キリスト・イエスにおいて造られた神の作品です。
 古い自分はキリストと共に葬られ、今はキリストと共に新しい命に生かされています。
 神に似せて、神のかたちに造られた本当の自分が回復されています。

神のかたちとは

 神のかたちとは何でしょうか。
 神様の品性を反映するものです。
 人間には知性があり、道徳心があり、宗教心があります。それは他の被造物にはない、人間ならではのものです。

 学ぶこと、考えることは大事です。
 人間は学ぶことができます。動物も学習しますが、読み書きによって情報を伝達することはできません。過去の偉人や歴史から学ぶことができます。
 創造性もあります。新しいものを作ったり、現実にはないフィクションの世界を理解することもできます。

 また悩むことも人間の特徴です。何が善で何が悪かを考えます。このような葛藤は人間だからこそ感じることです。
 もしこの世界が善と悪に分けることができたら、単純に正義の側につけばいいでしょう。でも世界はそんなに単純ではありません。
 なぜ世界はこんなに悲惨なのか。パンデミックが起こるのか。今日は阪神淡路大震災から26年。なぜ日本でこんな災害が起きたのか。
 それは日本人が悪いことをしたり偶像を拝んだりしているからだと、単純な答えを出す人もいます。しかし決してそうではありません。
 この世界は公正ではありません。悲惨な出来事は悪い行いの罰だとは言えません。
 絶対的な正義は存在しないし、正義の国の正義の大統領や悪の国の独裁者なんていないのです。
 人はその曖昧な世界の中で正しく生きようともがきます。

 そして神を礼拝して生きることは人間にしかできません。同時に、宗教を持たない人間は世界中のどこにもいません。
 無宗教だという人も、自分の経験や科学など何かを信仰しています。

御顔を仰いで神のかたちを現わしていく

 これらの知性、道徳、宗教は神から与えられた神のかたちですが、罪によって壊れています。
 人間は知恵をしぼって人をだまします。正義のためと言いながら自分と違う立場の人を迫害します。そして神を知ることができず、人の手で造った神を拝みます。
 キリストによって神のかたちが回復された私たちは、それらを回復させていきます。
 キリストに出会うたびに回復されていきます。主の御顔を仰ぐとき、私たちは変えられていきます。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

コリントの信徒への手紙ニ3:18

 主の御顔を仰ぐとき、栄光から栄光へとキリストに似た者に変えられていきます。
 その過程が私たちの使命だと言えるかもしれません。神のかたちに造られた人間の素晴らしさを現わしていくのです。

信仰の友との間で主の御顔を仰ぐ

 パウロにそれを思い起こさせたのは友の存在でした。
 ルカのような仲間が旅に同行してくれた。ローマには兄弟姉妹がいる。その兄弟たちがわざわざアピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれました。
 その顔を見てパウロは神に感謝し、勇気づけられました。
 信仰の友の存在は重要です。
 私たちは主の御顔を仰ぎながら変えられていくわけですが、どこで主の御顔を仰ぐことができるのでしょうか。
 御言葉や祈りのような個人の信仰生活の中でも出会えます。
 それだけでなく、兄弟姉妹との交わりの中でも主の御顔を仰ぐことになります。
 イエス様は、私たちが集まるところに一緒にいてくださると約束しました。
 共に礼拝をささげるこの場所にもイエス様が共にいます。
 オンラインで礼拝をささげる人たちもいます。直接出会えないのは残念ですが、オンラインで礼拝するその場所にもイエス様は共にいます。時間も場所も超越します。
 メールや電話もいいですが、一番は顔を見ることです。顔を見れば伝わることもあるし、顔を見なければ伝わらないこともあります。

あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。

ヨハネの手紙二12

 お互いの喜びが満ちあふれるように、会って親しく話し合いたい。
 会える喜びをかみしめ、会えない人とも連絡を取りながら、信仰の友と励まし合っていきましょう。

 この交わりの中にキリストが共にいます。その主の御顔を仰ぎながら、私たちは栄光から栄光へと造り変えられていきます。そして神のかたちを反映しながら歩んでいくのです。

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