魔術に勝るイエスの名

使徒言行録講解56

魔術に勝るイエスの名

使徒言行録19:8-20

8 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。9 しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。10 このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。11 神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。12 彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。13 ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。14 ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。15 悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」16 そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。17 このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。18 信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。19 また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。20 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。

この世の影響を受けた未熟な信仰

吸血鬼

 キリスト教のシンボルは十字架です。
 この十字架が悪魔祓いの道具として使われることもあります。
 吸血鬼ドラキュラは十字架を嫌うと言われています。十字架が魔よけのお守りのようになるわけです。
 十字架そのものに特別な力があるわけではありません。
 そのような迷信やおまじないのようなものが知らないうちに身についているということはないでしょうか。

 日本では子どもたちに、悪いことをしたらバチが当たると教えることがあります。悪いことをしたら神様の怒りを受けるという因果応報の価値観ですね。
 池の中にお金が落ちていることがあります。何かお祈りしているわけです。だいたい1円玉か5円玉、たまに10円玉もありますが、それで祝福を買い取ろうとします。

アマビエ

 コロナウイルスがはやると、色々なところでアマビエの絵を見るようになりました。アマビエが疫病を止めてくれると信じています。
 日本人は信心深い民族だと思います。
 この環境で生きていると、教会の中にもそのような価値観が入ってくることがあるかもしれません。
 悪いことをしたら、神様が喜ばないと言うことがあります。間接的に、神様の怒りに対する恐ろしさを植え付けます。
 日曜日に教会に来て礼拝することで、特別な祝福があると考えるかもしれません。では日曜日に教会に来れないでオンラインでしか礼拝できない人は、祝福を逃しているということになるのでしょうか。
 この世で身につけてきた価値観は、簡単には変わりません。しかしそれはイエス様を見えなくする不純物かもしれません。
 もっとイエス様をはっきり見ることができるような、純粋な信仰を目指していきたいです。

エフェソで出会った様々な信仰

 パウロは第3次伝道旅行に出発し、エフェソに到着しました。
 エフェソでは様々な信仰の人たちに出会います。
 洗礼者ヨハネの弟子のグループに属する12人ほどの人たち、祈祷師、また女神アルテミスの信者たちです。
 最初の3か月は会堂で教えました。頑なな人たちの反発を受け、ティラノという人の講堂で毎日教えました。それが2年間も続きました。パウロがこれまで伝道旅行で訪問した都市の中で、エフェソが最も滞在期間が長いです。
 この期間、コロサイやラオディキアなど、アジア州の他の教会とも交流があったかもしれません。

 今日の本文にはパウロを通して行われた奇跡が出てきます。
 パウロが身につけていたものを病人に当てると、病気が癒されたり悪霊が追い出されたりしました。

 また祭司長を自称するスケワの7人の息子たちが、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言っていました。
 祈祷師の中には、どの神に力があるかわからないので、様々な神の名前のリストを読み上げる人たちがいました。
 実際、パリ魔術パピルスという古代の資料には、「へブル人の神イエスにより我は汝に命じる」という呪文が記されています。
 スケワの息子たちがイエスの名によって悪霊を追い出そうとすると、悪霊から「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」と言い返され、裸にされてしまいました。
 このようなことがあったので多くの人が信仰に入り、魔術の書物を焼き捨てました。その値段は銀貨5万枚にもなります。

未熟な信仰だとしても神に招かれている

 パウロが身につけていたものを当てると病気が癒されたというのは不思議なことです。
 物そのものに特別な力があるというのは、キリスト教信仰とは違います。十字架そのものに力があるわけではありません。神父のような聖職者の持ち物に病気を癒す力はありません。
 しかし病が癒されることはあります。
 ペトロとヨハネは生まれつき足の不自由な人を癒しました。
 人々はペトロとヨハネに病を癒す力があると思いました。
 ペトロはそれを否定し、「イエスによる信仰が、この人を完全に癒した」と言いました。
 イエスを信じる信仰が大事です。
 しかし、物に特別な力が宿るという未熟な信仰も、神は無視しません。

 イエス様のもとに、12年間も出血が止まらない女性が来ました。
 律法の規定によれば、この女性は汚れた人として扱われます。
 そんな彼女がイエス様に助けを求めるというのは許されないことだと思いました。
 それで服にでも触れれば癒されるのではないかと思い、群衆に紛れ込み、後ろからそっと触れたのです。
 彼女の信仰は、イエス様の服に力があるだろうという未熟な信仰です。
 それでも彼女は癒されました。
 でもこれで終わりではありません。
 イエス様は振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と、この女性を探しました。
 そしてこのように言います。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
 彼女はイエス様に出会い、ただ病が癒されただけではなく、救いを受け取りました。

 パウロが身につけていたものに触れて癒された人たちも、そのように神に招かれていたのでしょう。
 初めは未熟な信仰だったが、そこでイエス様に出会い、救いを受け取っていく。
 私たちだって立派な信仰を持って教会に来たわけではありません。
 この世の価値観の影響を受けて、教会に招かれます。
 子どもの頃から教会で育ったとしても、この世からの影響は避けられません。
 でもそのような的外れな信仰を持った私たちを、探して救い出すためにイエスは来てくれました。
 未熟な信仰で大丈夫です。
 「わたしの名を呼ぶのはだれか」とあなたを探し求めるイエス様の声を聞き、イエス様に出会っていきましょう。

イエス様に出会い、信仰は純粋になっていく

 イエス様は安心して行きなさいと言ってくださいました。それなら未熟な信仰のままでいいのでしょうか。
 いいえ、ずっと未熟な信仰でいいわけではありません。
 エフェソは魔術が盛んな町でした。「エフェソの手紙」という名の魔術書も存在していました。
 人々は魔術によって災いを避け、祝福を得ようとしていました。
 どの神が本物かわからないから、色々な神の名を唱える。私たちは三位一体の神こそただお一人の神だと信じていますが、日本では年末年始にクリスマスも除夜の鐘も初詣もやります。
 自分のご利益のために、神を利用しようとします。
 祭司長スケワという名前が出てきますが、ユダヤ教の大祭司の系譜の中にスケワという人はいません。自分を偉大な人物に見せるために祭司長を自称していたのかもしれません。
 私たちもそういうことがあるかもしれませんね。有名な人の知り合いだとか、○○長みたいな肩書を求めたりとか。
 政治家の息子がまた政治家をやったり、パソコンも使えない人がIT担当大臣になったりするのは、そういう肩書への信仰が強くあるということでしょう。
 そのような未熟な信仰でも、イエス様は招きます。
 でもずっと未熟なままだと、痛い目にあうわけです。
 スケワの7人の息子は、イエスの名をみだりに唱え、悪霊から痛い目にあわされました。
 十戒の第三戒には、「あなたは主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

出エジプト記20:7

 ふさわしい神の名の呼び方があります。
 ふさわしい礼拝の仕方というものがあるのです。
 私たちが礼拝するお方は、たくさんいる神々の中の1つではありません。神は唯一です。
 自分のご利益のために礼拝するのではありません。神に出会いに来るのです。
 そして自らを大きく見せようとする自分を捨て、神様に栄光をお返しするのです。
 そのように主の名を呼ぶ私たちは、変わらざるを得ません。

 神様の素晴らしさを知ったエフェソの人たちは、悔い改め、魔術の本を捨てました。
 その値段は銀貨5万枚。
 労働者一人の日当が銀貨1枚としたら、5万人分の日当ということになります。5億円くらいでしょうか。
 イエスを知ることの素晴らしさに比べたら、何でもありません。
 イエスの名は、魔術に勝ります。
 このようにイエス様に出会った人々によって、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していきました。
 イエス様に出会い、純粋な信仰に変えられていくことを願います

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