主はわが羊飼い

エゼキエル書講解43

主はわが羊飼い

エゼキエル書 34:1-16

1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。3 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。5 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。9 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。

指揮者に従うことでハーモニーが生まれる

 木曜日、浜松市の音楽科研究発表会を聞きに行ってきました。浜松市内の小学生たちが合唱するイベントです。
 1945年から70年以上続く伝統行事だそうです。会場もアクトシティの大ホールです。国際的なコンクールも行われる大舞台です。
 そこに小学生たちが集まるわけです。どうなると思いますか。
 小学生が4人いるだけでもにぎやかですね。それが何百人になるわけです。最初はやはりザワザワしていました。
 ところが開会式が始まると、シーンと静かになりました。
 緊張感が伝わってきます。

 開会式の中に全体で合唱する時間がありました。
 指揮者の先生が手を振り、ピアノの伴奏が始まります。
 そして何百人もの小学生が一斉に声を出します。

 驚きました。
 きれいなハーモニーが大ホールに響き渡りました。

 もし同じ子たちが同じ音量で好き勝手に話せば、騒々しいだけです。
 指揮者に従うことでハーモニーになります。
 このように導く者、リーダーの存在はとても大事です。

 リーダーにも色々あります。
 もし指揮者の先生が、子どもたちを奴隷のように扱ったり、歌の得意な人だけを並べて苦手な人を見捨てたり、体罰して無理矢理歌わせたりしていたらどうでしょうか。
 そんな指揮者に子どもを預けられませんね。
 子どもが奴隷のようにではなく生き生きと歌い、苦手な人も励まされ、愛によって導かれる。そのような指揮者がいたらいいですね。
 主は私たちにとってそのような指揮者であり、羊飼いです。

羊飼いの役割

 今日の本文はイスラエルの民の長老たちに、羊飼いの役割について語る場面です。
 もし羊飼いが羊を養うのではなく、自分を養うために羊を利用しているとしたら、そんな羊飼いに羊を預けていられません。
 主は人々に権威を与え、リーダーを任命しました。
 ところがそのリーダーたちは民を不当に支配していました。
 そのようなリーダーたちに、主ご自身が立ち向かうと語ります。

偽牧者に気をつける

 まず今日の本文の1節から8節で『1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。3 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。5 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。』 とあります。

搾取する

 羊飼いは羊を飼います。
 羊飼いの役割は、羊が健康になって、体が大きくなり、ふわふわの毛をのばし、ミルクを出し、群れの数が増えるように養うことです。
 ところが、このような羊飼いがいたらどうでしょうか。
 自分はふわふわのウールを着て、家ではチーズやヨーグルト、ケバブを食べる。
 しかし飼っている羊はみんな痩せ、病気になり、毛もボサボサになっている。
 この羊飼いは羊を養うのではなく、自分を養うために羊を利用しています。
 これは悪い羊飼いですね。

 主がイスラエルの牧者と語っているのは誰のことでしょうか。
 ただ羊飼いについて語っているわけではありません。
 34章の最後に、主はこれがわが民イスラエルの家に対する言葉であることを明かします。民を羊の群れにたとえているわけです。
 主は民のことを私の群れだと言っています。主がこの羊の所有者だということです。
 そして主がその羊の管理を委ねた羊飼いたちがいます。つまり民の指導者、長老たちです。
 エゼキエルの家に集まった長老たちに向けて、主はこの言葉を語っています。
 民は着る物も食べる物もなく苦しんでいるのに、長老たちは暖かい服を着、おいしいものを食べているとしたら、そんな人々には従いたくありません。

 現代でもそういうことがあります。
 自分を養うための道具として、人を物のように扱い、数字にしか興味がない。そのようなリーダーがいます。
 学校でも、有名大学に何人進学したのか、部活でどれだけいい成績を残したのかという数字が学校の評価を決めます。
 小中学校で全国統一の学力テストが行われます。その成績を小中学校の先生のボーナスに反映するという都道府県まで出てきました。
 そうなると必然的に、よい点数を取るための受験対策が重視されます。
 心の成長や、個性の開発は無視されます。
 企業でも従業員を奴隷のように扱い、休みを与えず、家族を捨てさせ、働かせすぎることがあります。
 収益を上げるため、手っ取り早い方法は人件費の削減です。
 教会でも、何人礼拝をささげたか、洗礼者は何人か、献金はいくらか、数字ばかりが評価されることがあります。
 今は全てがデータ化され、数字で評価される時代です。
 この時代にあって私たちは職場でも学校でも家庭でも教会でも、数字を稼ぐための道具、リーダーを出世させるめの奴隷として、搾取されること上がります。

弱者を切り捨てる

 道具は、使い物にならなくなったら捨てられます。
 偽の羊飼いも同じです。弱まっている羊がいても見捨て、病気のものは諦め、傷ついたものを置いて行きます。
 それは簡単な方法です。
 強いチームを作りたければ、よい選手を集めればいいです。ケガをしたり、年をとったりした選手には、「お前は戦力外だ。」と言ってやればいいです。
 それがこの世界のルールです。
 この世でも一応建前上は、弱い人たちを守りますと言っています。
 しかし弱い人たちのペースに合わせればコストがかかるのです。

 高速バスで旅行に行くとき、途中のサービスエリアで休憩があります。
 何分までと決められています。その時間までに戻らなければ、置いていかれます。
 サービスエリアに取り残されたら、どうすればいいですか。
 それでもスムーズな運営のため、遅れた人は切り捨てられます。
 それは仕方のないことですが、私たちはバスに乗り遅れないように急がなければなりません。時間に追われ、ゆっくりトイレに座っていることも許されません。

バスに乗り遅れないよう走らされる

 国は建前上は男性と女性の働くチャンスは均等だと言います。しかしその国会の中に女性は衆議院で10%、参議院で20%にしかなりません。女性の議員が妊娠したり育児休暇を取れば問題視されます。
 障害を持っている人も働きやすい社会にすると言っています。県庁や市役所でも、何%かの割合で障がい者を雇うと約束しています。しかし実際には、障害のない人も障がい者として水増しして報告するということがありました。

 多数派にいる人たちが、少数派の人たちを見捨てる。それがこの世界をスムーズに治める手っ取り早い方法です。
 こうして私たちは、バスに乗り遅れないように走らされ、いつも多数派の側につくように追い立てられます。

支配する

 群れを支配する一番簡単な方法は、恐怖を与えることです。
 鞭で打たれるのは、羊だって嫌です。ですから鞭の恐怖を知ると、羊飼いを恐れて生活するようになります。
 人間も同じです。赤ちゃんでも痛いのは嫌です。叩かれたり、大声で叱られたりした子どもは、親の言うことをよく聞きます。
 これは子育てとして成功だと言えるでしょうか。
 これは子育てではなく、支配です。教育ではなく、虐待です。
 子どもは恐怖から逃げる方法を学んだだけです。いい子のフリをしていれば、痛みから逃げられる。親の前でいい子のフリをします。それは演技であり、嘘です。
 嘘の上に立つ人生なので、親以外の前では平気で嘘をつきます。それが悪いとも思いません。
 そして体が大きくなり、力をつけると、親に支配に反抗し手が付けられないほど暴走し始めます。

 私たちも気づかないうちに、このような方法で子どもに接してしまいます。
 鞭を取り、手を上げ、痛みを与える。
 無視し、家から追い出し、捨てられる恐怖を植え付ける。
 兄弟と比べ、他の子の前で失敗をばらされ、恥をかかされる。
 苦痛、拒絶、恥辱。
 私たち自身、親や先生からそのように育てられ、そして自分でも子どもたちをそのように育ててしまうのです。

 この世界は偽の羊飼いたちによって支配されており、私たちもまたそのように間違った方法で人々を滅びへ導いてしまうのです。

主が羊を救い出す

 次に今日の本文の9節から12節に『9 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。』 とあります。

羊飼いに立ち向かう

 小学校や保育園で問題が起きたら、自分の子どもを預けたくなくなりますね。
 先生が体罰を振るう。いじめがある。
 学校で進化論を教え込まれている!クリスチャンの中にはホームスクールという道を選択する場合もあります。
 もちろん先生たちも罪人なので、学校で問題が起こることは仕方ないでしょう。
 友だちとケンカする中で学ぶことも多いです。
 歴史教育や科学というのは難しいです。学校でユークリッド幾何学しか教えないからダメだ!三角形の内角の和が180°だと言うような学校にうちの子は預けない!という数学者は、たぶんいないでしょう。
 だからある程度は学校を信頼し、預けます。
 しかし子どもに命の危険が迫っているとしたら、助け出さなくてはなりません。

 イスラエルの民を滅びに向かわせる長老たちに、主はこう言われます。
 「見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。」
  偽の羊飼いには預けられません。

失われた羊を探す

 偽の羊飼いは自分を養い、羊たちを物のように、奴隷のように扱いました。
 しかしまことの羊飼いは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために来ます。

盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

ヨハネによる福音書10:10

 主は私たちを祝福し、豊かに生きることを願っています。
 弱い者がいれば力を与えます。目の見えないものを見えるようにし、耳の聞こえないものを聞こえないようにし、足の弱い者に立ち上がる力を与えます。病を癒し、傷ついたものを暖かく包みます。
 バスに乗り遅れた者と共にいて、少数の者も見捨てません。
 主はいなくなった1匹の羊を、探して救い出すお方です。
 それはまさに、イエス・キリストの姿を現しています。

救い出す

 まことの羊飼いは、羊を救うために命を捨てます。

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

ヨハネによる福音書10:11

 狼やライオンに立ち向かい、その口から羊を救い出します。
 そのようにイエス・キリストは私たちを救い出しました。
 この世の考えに従い、滅びへ向かっていた私たちです。罪の奴隷として生き、私たち自身も他の人々を過酷に支配していました。
 死に向かっていた私たちのために羊飼いイエスは十字架でその身を犠牲にし、私たちを救い出してくださいました。
 それも、すべての場所からです。ユダヤ人だけではなく、すべての民から。
 強い者だけではなく、弱い者も、貧しい者も、少数派も、無条件に救い出してくださいました。

公平に養う

 最後に今日の本文の13節から16節に『13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。』 とあります。

回復

 羊たちを取り返したら、どうするでしょうか。どこに帰ればいいでしょうか。
 自分の羊の囲いに帰るべきです。

 私たちには帰るべき場所、ホームがあります。
 主は私たちを帰るべき場所に帰らせてくださいます。

 イスラエルの民にとって、それはイスラエルの山々でしょう。
 特にイスラエルの高い山とは、シオン、つまりエルサレムのことです。
 バビロンによって捕囚になった民に、主は回復の約束を告げます。

 ただ自分の家に帰るだけではなく、アイデンティティも回復されなければなりません。
 もう奴隷ではありません。私たちは神の子です。
 主に養われる羊の群れです。
 他に比べることのできない神の傑作品です。

欠けるものがない

 私たちは主と共に生きることができます。
 バスに乗り遅れないために走る必要はありません。

 しかしもう走らなくていいわけではありません。羊がだらだら寝ているだけだったら、不健康ですね。
 羊が羊らしく平安に草を食べ、歩き回ることを羊飼いは望んでいます。
 私たちは何もしなくても、無条件に救われました。
 救われたからもう何もしなくていいわけではありません。救われたから、神の子らしく、主に養われる羊らしく生きることを、主は願っています。

 どのように生きることができますか?
 主が私たちの羊飼いなら、何も欠けることがありません。必要はすべて満たされています。
 恵みに感謝して生きることができます。その恵みを周りの人と分かち合うことができます。
 思い煩うことはありません。
 死の陰の谷を歩くことはあるけれど、主が共にいるので恐れません。
 私たちはつまずき倒れますが、主の杖が私たちを励まします。

1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

詩編23:1-6

羊飼い同士の間は公平

 主は、肥えたものと強いものを滅ぼすと言われます。
 この世で一般的に人々を導くのは、多くのものを持っている人、力のある人です。
 この力のある人がない人を治めるという構造は、必然的に上下関係を生みます。そして持つ者が持たざる者を支配するという、この世のリーダーシップが生まれます。

 イエス・キリストは、全く違うリーダーシップを見せました。
 イエス・キリストは弟子たちの足を洗いました。給仕する者のように、しもべのようになりました。
 そして私たちも同じようにしなさいと求めています。
 つまり、私たちは何かできるからリーダーになるのではありません。何かを持っているから誰かを導けるのではありません。
 そこを間違えるとき、私たちは偽の羊飼いになります。

 子どもは親の所有物ではありません。
 自分の出世のために部下がいるのではありません。
 牧師の言うことを聞かせることが幸いではありません。
 宣教は、無知で滅びへ向かうかわいそうな罪人たちに上から与えるものではありません。
 主はそのような高慢を滅ぼします。

 イエス・キリストがしたように、しもべのように人々を導くにはどうすればいいでしょうか。
 私たちはへりくだり、悩まなければなりません。
 子どもたちの持っているよいものを、どのように引き出すことができるのか。
 部下が成功するためにどのように助けることができるのか。
 問題を抱えた信徒たちにどのように寄り添うことができるのか。
 この世の人々と共に生きながら、塩のように自分を捨て、よい影響を与えるにはどうすればいいか。
 私たちはそのために、悩み、共に苦しむのです。
 それが主と共に生きること。主の羊としての本来の在り方。そして本当に人間らしい生き方です。

 私たちはこの世に支配され、この世と同じように人々を支配します。
 主は私たちの羊飼いであり、イエスの血潮で私たちを救い出しました。
 主と共に歩もう。

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