エゼキエル書講解46
人を新しくする清い水
エゼキエル書 36:22-32
22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。23 わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。24 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。28 お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。29 わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。30 わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。31 そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。32 わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。
弱さを知っている人こそ強い人
ある住宅メーカーで営業をしていたAさんは仕事が全くうまく行きませんでした。
なかなか家が売れません。同僚たちは売れているのに自分だけダメです。
ある日、同僚の商談に同席しました。彼の売り込みにお客さんは興味津々です。
このままではまた同僚の業績が上がってしまう。Aさんは焦りました。
同僚が席を離したとき、Aさんはこの家の欠点を話し出しました。否定的な印象を与えて商談を台無しにしようとしたのです。
ところがAさんの説明にお客さんは大喜びです。商談は上手くまとまり、家は売れました。
なぜでしょう。
家を買うというのは人生の大きな決断です。
そこで長く暮らそうと思えば、どういうリスクがあるかも知っておきたいです。
弱点を先に知っておくことで、お客さんは安心します。
それからAさんは家の弱点を包み隠さずお客さんに伝えることで、売上が社内でトップになったそうです。
弱さを知っている人こそ強い人です。
私たちは弱さを抱えています。この弱さを通して、主の聖なる名が表されていきます。
イスラエルを洗い清める
今日の本文は主がイスラエルを洗い清めるという約束です。
国は滅び、イスラエルの民は世界に散らされてしまいました。主の御名はその散らされた先で汚されています。
主はイスラエルの民をそこから救い出すと約束しますが、それはイスラエルの民がよいことをしたからではありません。むしろイスラエルの民は罪に汚れていました。
主は彼らを清い水で洗い、新しい心、新しい霊を与えます。
自分の罪深さを知る者たちを通して、主の御名があがめられます。
清い水
まず今日の本文の25節から28節で『25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。28 お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。』 とあります。
肉の心
先週のメッセージを覚えていますか?
覚えていなくても大丈夫です。そのつもりで準備しています。
先週私たちは、心を変えなければならないと学びました。
血に飢える者に血がつきまとう。私たちの心が求めているものを、私たちは受け取ります。
だから憎しみや妬み、自己中心の心ではなく、愛、恵み、慈しみの心に変わりたい。
そういう内容でした。
しかし心を変えるのは難しいです。
私たちの心はこの世の中で何十年と生きていくうちに、すっかり憎しみや妬みというこの世の観点に捕らわれてきました。その枠にはまってカチコチに固まっています。
このままでは愛と恵みという神の国の観点を持つことはできません。
エゼキエル書の中では、このような心を石の心だと言っています。
石の性質を変えることができますか?
ノミやハンマーで削って形を変えることはできるでしょう。
しかしそれはまた別の形で固まっているだけで、性質は変わっていません。
どうすればいいですか。
変えられないなら、いっそのこと捨てて、新しいものに交換した方がいいです。
主は私たちの石の心を取り除き、肉の心を与えると約束しています。
肉なら柔軟性があります。変わる余地があります。
神の国の観点を持つことができるように、神は私たちに新しい心を与えます。
イエス・キリストは神の国を求めるニコデモとの会話の中で、このように言われました。
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
ヨハネによる福音書3:5
私たちを新しくするのは水と霊による誕生です。
新しい霊
主はイスラエルの民を水で清めると約束しています。
汚れを洗うときには一般的に水を使います。
聖書の中では、罪という汚れを洗う象徴として水が出てきます。
民数記の中ではレビ人を奉仕の役割に任命するとき、彼らに水をかけました。
洗礼者ヨハネがしていた悔い改めの洗礼も、水に体を浸すことで罪を洗うという意味がありました。
ノアの洪水は罪に溢れていた世界を洗った出来事だと見ることもできます。
そして水は、新しい誕生と考えることもできます。
イスラエルの民はエジプトを脱出するとき、水の間を通りました。そこで彼らは、エジプトの奴隷から神の宝の民へと、新しい身分に変わりました。
私たちも水と霊によって、神の子として新しく誕生します。
水と霊というのは、聖霊のことです。
イエス・キリストはこのように約束しました。
37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
ヨハネによる福音書7:37-38
続く39節で、これは聖霊のことだと説明されています。
だからイエス・キリストを信じる私たちは約束通り聖霊を受けました。
命の水が私たちの内から湧き上がってきます。新しく誕生しました。
この世の奴隷であった古い自分は過ぎ去り、神の子として新しく創造されました。
そして私たちは石の心ではなく、肉の心が与えられています。
掟に従って歩ませる
聖霊を受け、肉の心に変えられた人はどのようになるのでしょうか。
主の御言葉に従って歩ませると主は語っています。
羊飼いの声に耳を傾け、それを正しい心で受け取る。そのとき羊は、羊飼いに従って歩みます。
主を主として受け入れ、神の民として生きる人生です。
羊にとって羊飼いの声に聞き従うというのは、生きるということと同じ意味です。
羊飼いの声を聞かず勝手に歩めば道に迷い、崖から落ちたり獣に襲われたりします。
偽の羊飼いに従えば搾取されて死んでいきます。
羊飼いの声に従うとき、羊は本当に羊らしく生きることができます。
私たちは主に従って歩むとき、本当に人間らしい人生を歩むことができます。
イエス・キリストを信じるとき、私たちは本当に人間として新しくされるのです。
自分を嫌悪する
次に今日の本文の29節から32節に『29 わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。30 わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。31 そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。32 わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。』 とあります。
イスラエルのためじゃない
神の民として生きられたら素晴らしいですね。
主の羊の群れは欠けるものがありません。
主は穀物に命じて、それを増やします。
創造主なる神の言葉は生きていて力があります。光あれと言えば光ができます。神が米に100倍に増えろ!と言えば100倍に増えます。5つのパンと2匹の魚で5000人以上の男たちが満腹になります。そんな祝福が欲しいですね。
でも現実的にそのような祝福を受けていますか。
10月16日は国連が定めた世界食糧デーです。
世界の飢餓人口は増えています。食べ物がなくて亡くなる人が1年で1000万人います。
その中には、もちろんクリスチャンもいます。
飢えがあるじゃないか。なぜ神は飢えているクリスチャンたちのために、木の実と畑の作物を豊かにしてくれないのか。
イエス・キリストを信じているではないか。御言葉に聞き従う人たちがいる。熱心に祈っている人たちがいる。そのような人たちも、飢えて死んでいく。なぜ?
主が奇跡を起こすのは、人のためではありません。
礼拝中に金粉が落ちて来るという話を聞いたことがありますか。
ある教会では、礼拝の最中に突然、キラキラと輝く金粉が上から落ちて来るそうです。
天井に金があるわけではありません。奇跡ですね。神様が金を降らせた。
神様がくださった金なら、不純物の全くない超純金でしょう。
そこである人がその金粉を持って帰り、成分を調べたそうです。
何%の金だったでしょうか。
結果は、0%。ただのプラスチックだという結果でした。
礼拝で金が降るのは誰のためでしょうか。
神の栄光のため?
だとしたらなぜ偽物の金を降らせたのか。
金粉が降って得をするのは、そこの教会と牧師でしょう。すごい、この教会は金が降る教会だ!ここの牧師はすごい!
そんな奇跡はありえません。
奇跡はあります。
しかし主が奇跡をなさるのは人のためではありません。
思い起こせ
主はイスラエルの民のために祝福を約束していますが、それはイスラエルの民が正しい人たちだったからではありません。よい行いをしたからでもありません。
むしろその祝福のとき、「自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。」と語っています。
祝福、あるいは奇跡に出会ったとき、本当に人間の心に湧き上がる思いは何でしょう。
畏れです。
圧倒的な神の栄光の前で、自分の罪を思い知らされるのです。
イザヤは主に出会ったとき、災いだと言いました。
ペトロは大量の魚がとれたとき、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです。」と告白しました。
この祝福は私にはふさわしくない。私は汚れている。
そのように自分自身を嫌悪する思いはあるでしょうか。
恥じる
自分を嫌悪し、自分の歩みを恥ずかしく思ったらどうなるでしょうか。
もうこれ以上、自分では生きられないですね。
それは生きる資格がないという意味ではありません。
もし神を知らずに自分を嫌悪すれば、それは絶望でしょう。
しかし神の前で自分を嫌悪するとき、私たちは神にあって新しい希望を見出します。
私たちが自分を嫌悪するとしても、神の目から見て私たちは高価で尊い存在だからです。
自分の罪に向き合った者に、主は新しい使命を与えます。
イザヤは預言者として遣わされ、ペトロは人間をとる漁師になりました。
自分の弱さ、汚さ、頑なさを知っていますか。もう神なしには生きられないという渇きがありますか。
その渇きを知る者はイエス・キリストのもとに帰ってきてください。イエス様は招いています。
“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
ヨハネの黙示録22:17
聖なる名のため
最後に今日の本文の22節から24節に『22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。23 わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。24 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。』 とあります。
主の聖なる名
主がイスラエルを救うのは、ただ主の聖なる名のため。ただ主の栄光のためです。
十戒の第三戒で主は、ご自身の名前を大切にしなさいと命じています。
名前というのは大事です。
私たちが誰かと友だちになろうと思えば、まず自己紹介をしますね。名前を知るところから、個人的な関係が始まります。
主はヤハウェというご自身の名前を明らかにしました。
全知の神様は当然、私たちの名前を知っています。
これで互いに名前を知っている知り合いになりました。
これから互いに交わり、親密な関係を築いていきたい。
ところがイスラエルは主の名を汚してしまいました。
主の名を汚すとはどういうことでしょうか。
日本語には「親の顔に泥を塗る」という言葉があります。
子どもが悪いことをしたら、「○○さんのところの息子さんがあんなことをしたんだって」と親の名前で伝えられることがあります。芸能人の子どもが事件を起こしたら、親が謝罪しますね。
神の民であるイスラエルがだらしなければ、イスラエルの神は力がないんだと言われてしまいます。
ゴリアテがイスラエル軍を挑発したとき、ダビデは怒りました。そして「万軍の主の名」によってゴリアテに立ち向かいました。
イスラエルがののしられることはつまり、主の名が汚されることだったわけです。
イスラエルを通して
しかし主は、そのようなイスラエルを通してご自身の名を高めようとします。
罪に倒れ主の名を汚した者に、汚名返上の機会を与えるのです。
ペトロはイエス・キリストを3回否認しました。復活のイエス・キリストはペトロに出会い、あなたはわたしを愛するかと3回問いかけます。こうしてつまずきを克服させます。
神様は人を通して働きます。それは罪を知らない完全な人を通してではありません。むしろ罪を知る者を通してです。
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
コリントの信徒への手紙二4:7
ランプシェードは穴があるから光を放てます。
きれいな器ではなくヒビや欠けのある土の器こそ、内にある宝が垣間見えます。
主の名があがめられる
ブレナン・マニングというカトリックの司祭がいました。
司祭になるとき、普通は聖人の名をつけるそうです。
ブレナンは本名でもなく、聖人の名でもありません。マニングの親友だったレイ・ブレナンから取られた名前です。
レイとマニングはいつも一緒にいました。軍隊に入った時も二人は同じ部隊に配属されました。
ある晩、戦場の最前線、塹壕の中でマニングが故郷の思い出話をし、レイはその話を聞きながらチョコバーをかじっていました。
そのとき、塹壕に手りゅう弾が投げ込まれました。
レイはマニングに微笑み、チョコバーを落として手りゅう弾の上に覆いかぶさりました。
レイは爆死。マニングはかろうじて助かりました。
その後マニングは献身し司祭になりました。
そしてレイ・ブレナンの名を取ってブレナン・マニングと名乗ります。
それから何年も経ち、マニングはレイの母親に会いに行きました。親友を死なせて自分が生き残ってしまったことに罪悪感を感じていたからです。
マニングはレイの母親に「レイはぼくのことを愛していたのでしょうか。」と尋ねました。
するとレイの母親は立ち上がり、人差し指を振りながら叫びました。
「あなたのためにこれ以上何ができたというの!」
私たちは罪人です。死ぬべき私たちに代わって、罪なき神の独り子イエスが十字架で死にました。
私たちはそこで罪悪感を感じる必要はありません。
自分を嫌悪し、こんな私が生きていていいのだろうか、神は私を愛しているのだろうかと疑うかもしれません。
父なる神はこう言うでしょう。
「あなたのためにこれ以上何ができたというの!」
イエスの十字架は神のこの上ない愛の表現です。
イエス・キリストの十字架で救われ新しい命に生かされている私たち。
私たちの人生を通して主の名があがめられます。
自分の罪を認め、救い主イエスに立ち帰ってください。
ヒビや欠けのある土の器は主の栄光を隠すことができません。
自分の罪、弱さ、足りなさを知る人を通して、神様の素晴らしさが表わされます。