血に飢える者に血がつきまとう

エゼキエル書講解45

血に飢える者に血がつきまとう

エゼキエル書 35:1-15

1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、顔をセイル山に向け、それに向かって預言し、3 彼に語りなさい。主なる神はこう言われる。セイル山よ、わたしはお前に立ち向かう。わたしはお前に向かって手を伸ばし/お前を荒れ果てた廃虚とする。4 わたしはお前の町々を荒れ地とする。お前が廃虚になったとき/お前はわたしが主であることを知るようになる。5 お前は果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡したからである。6 それゆえ、わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしはお前の血を流させ、血がお前につきまとう。血に飢えた憎しみのゆえに、血がお前につきまとう。7 わたしはセイル山を荒れ果てた廃虚とし、行き来する者がないようにする。8 わたしは山々を殺された者で満たす。お前の丘にも谷にも、あらゆる谷間にも、剣で殺された者が倒れる。9 わたしはお前を永久に荒れ果てた地とする。お前の町々には住む者がなくなる。そのとき、お前たちは/わたしが主であることを知るようになる。10 それはお前が、『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである。しかしそこに、主がおられた。11 それゆえ、わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる。12 そしてお前は、主であるわたしがお前のもろもろの嘲りを聞いたことを知るようになる。お前はイスラエルの山々について言った。『それは荒れ果てて、我々の餌食となった』と。13 お前たちはわたしに向かって大口をたたき、わたしに向かって多くの言葉を重ねた。わたしはそれを聞いた。14 主なる神はこう言われる。わたしはお前を荒れ地とする。全世界はそれを喜ぶ。15 お前がイスラエルの家の嗣業の荒れ果てたのを喜んだように、わたしもお前に同じようにする。セイル山よ、エドムの全地よ、お前は荒れ地となる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」

自分の心の赴くままに世界を解釈する

 何人以上の人がいれば、その中に男同士か女同士のペアを必ず見つけることができますか?

 答えは3人です。

 数学の一つの分野にラムゼー理論というものがあります。
 集合の中に特定の性質を見つけるためには、何個以上の要素があればいいかを研究します。

 パーティーで3人以上が互いに知り合いな組か、互いに知り合いではない組を見つけるためには、6人以上の参加者がいればいいです。

 要素の数が増えれば増えるほど、様々な性質を見つけやすくなります。
 夜空にたくさんの星があれば、その中に自分の好きな形を見つけることができます。それで自分の好きなストーリーを作ることも可能です。ギリシア神話に基づく星座ではない、自分だけの星座を作れるのです。
 芸術でも同じことが言えます。一見何を描いているのかわからない作品があります。それを見ながら、自分なりに解釈することができます。
 音楽や小説でもそうです。映画を見た感想を分かち合うと面白いです。富に飢え渇いている人は物に注目するでしょう。愛に飢え渇く人は男女の関係に注目します。ある人はファッション、ある人は暴力に注目します。お腹が空いている人は料理に注目します。

 聖書も同じです。たくさんある御言葉の中から好きなものだけを取り出してしまえば、何でも言えてしまいます。
 アブラハムもダビデも複数の妻がいたから、聖書は一夫多妻を認めている。
 洗礼者ヨハネはヘロディアの娘の誕生日会で殺されたから、誕生日会に行ってはいけない。
 さらに、私が再臨のキリストだと、そのように言うことも可能になってしまいます。

 確かに人は、多くの情報の中から自分の見たいものを見、自分の聞きたいものを聞くことが可能です。
 でもそれでいいのでしょうか。
 芸術作品には、作者のメッセージが込められています。その製作意図から離れた解釈をしてはいけません。
 聖書を自分勝手に解釈するなら、それではもはや真理とは言えません。
 聖書は神の言葉です。
 自分が何を聞きたいかが大事ではありません。神は何を語られるのかに集中しなければなりません。

 私たちには大牧者イエスが与えられています。その羊飼いの声に従わなければなりません。
 でも羊の心のベクトルがどこを向いているかによって、その声の受け取り方が変わってしまいます。

 私たちは自分の心の赴くままに世界を解釈します。
 憎しみの世界に生きる人は憎しみのメガネでこの世界を見ます。
 愛の世界に生きる人は愛のメガネでこの世界を見ます。
 血に飢える者には血がつきまとうのです。

血に飢えたエドムの滅亡

 今日の本文はセイル山に対する預言です。
 セイル山にはエドム人が住んでいました。彼らはイスラエル人に対して憎しみや妬みの心を持っていました。だからエルサレムがバビロンによって破壊されたとき、あははと笑って喜びました。
 そのようなエドムを主は滅ぼします。イスラエルの残りの者を剣で殺したエドムは剣で殺されます。血に飢えたエドムに、血がつきまといます。
 私たちの心が変えられなければなりません。

憎しみで生きる者

 まず今日の本文の1節から8節で『1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、顔をセイル山に向け、それに向かって預言し、3 彼に語りなさい。主なる神はこう言われる。セイル山よ、わたしはお前に立ち向かう。わたしはお前に向かって手を伸ばし/お前を荒れ果てた廃虚とする。4 わたしはお前の町々を荒れ地とする。お前が廃虚になったとき/お前はわたしが主であることを知るようになる。5 お前は果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡したからである。6 それゆえ、わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしはお前の血を流させ、血がお前につきまとう。血に飢えた憎しみのゆえに、血がお前につきまとう。7 わたしはセイル山を荒れ果てた廃虚とし、行き来する者がないようにする。8 わたしは山々を殺された者で満たす。お前の丘にも谷にも、あらゆる谷間にも、剣で殺された者が倒れる。』 とあります。

イスラエルへの敵意

 主はエゼキエルに、顔をセイル山に向け、セイル山に向かって預言しなさいと言います。
 山、その土地に向かって語るわけです。それは言い換えれば、その地の国や住民に対してのメッセージでもあります。
 セイル山にはエドム人が住んでいました。エドム人はエサウの子孫です。エサウはヤコブの双子のお兄さんですね。ですからヤコブの子孫であるイスラエル人とは、兄弟のような民族になります。
 ダビデ王の時代にはイスラエルに従属していました。
 ヨシャファト王の時代には北イスラエル、南ユダ、エドムの三国同盟が結ばれていました。
 それでもエドム人の民族感情の中には、イスラエル人に対する根深い敵対心がありました。1000年以上に渡る敵意です。
 それはエサウとヤコブの時代にさかのぼります。

 族長時代から長子というのは特別な意味を持っていました。
 長子権というのがあり、財産の多くや家の名前は長子が相続しました。
 さらに先祖代々の祝福は長子に受け継がれてきました。
 だから長子であるエサウにこそ、長子権と祝福が受け継がれるはずだったのです。

マティアス・ストーム「ヤコブに長子権を売るエサウ」

 しかし双子の弟ヤコブは、祝福に対する貪欲な情熱がありました。
 ある日お腹を空かせたエサウから、1杯のスープと引き換えに長子権を売ってもらいました。
 さらに目が不自由になった父イサクを騙し、祝福を奪い取ります。
 それを知ったエサウはヤコブを殺そうとしました。

 20年たって二人は和解しましたが、エサウの子孫たちはこのことをずっと根に持っていました。
 自分たちはヤコブに騙された。財産や祝福を奪われた被害者だ。
 それでイスラエルに果てしない敵意を抱き続けました。

 そんなエドムに復讐のチャンスが来ます。
 エルサレムがバビロンの剣で滅ぼされたとき、生き残った人々をさらに剣で追い打ちをかけたのです。

主が立ち向かう

 しかしこれは主の御心ではありませんでした。
 主はイスラエルをバビロンの剣で裁きましたが、それを最後の刑罰だと言っています。
 もうこれが最後。神が最後だと言ったなら、誰もそこに付け加えることはできません。
 ところがエドムは追い打ちをかけた。やりすぎです。

 弟が親から叱られた後に、お兄さんがさらに弟を棒で殴ったらどうですか。
 やりすぎでしょう。弟はもう十分叱られたのです。
 そんなお兄さんも親から叱られなければなりません。

 主は生きています。
 今度は主がエドムに立ち向かい、エドムを荒れ果てた廃墟にしてしまいます。
 エドムはイスラエルを憎み、その血を求めました。
 それで今度はエドムが血を流すことになります。
 心に憎しみを抱く人は、憎しみの実を刈り取るのです。

 憎いあの人のことが忘れられない。
 エドムの憎しみが1000年続いたように、私たちは誰かのことを死ぬまで憎み続けることができます。
 また怒りを心にため込んでしまうと、小さなことでイライラするようになります。それでちょっとしたことで怒りが爆発してしまう。
 それで憎しみや怒りの奴隷になってしまいます。

愛で生きる

 この憎しみの鎖を断ち切るのは、愛です。
 敵のような人がいるでしょうか。憎らしい相手。怒りを起こさせる存在。
 聖書は、あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよと言っています。
 エリシャはアラムの兵にどうしましたか。

そこで王は彼らのために大宴会を催した。彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君のもとに帰って行った。アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった。

列王記下6:23

 敵に愛を施せば、敵が敵ではなくなります。
 しかしそのようなことができますか。敵を愛することなど可能でしょうか。
 できません。
 私たちの中に、そんな愛はないからです。

 私たちの心のベクトルが憎しみの方から愛の方へ変換されなければなりません。
 外からの作用で、心を変えてもらわなければなりません。
 それはイエス・キリストの愛を受けとることによって可能です。
 イエス・キリストは敵を愛しました。
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
 このように、自分を不当に十字架につけた者たちのために祝福を祈りました。
 キリストの愛は、私たちを憎しみの世界から救い出します。そして愛に生きる者へ変えてくださいます。

妬みで生きる者

 次に今日の本文の9節から13節に『9 わたしはお前を永久に荒れ果てた地とする。お前の町々には住む者がなくなる。そのとき、お前たちは/わたしが主であることを知るようになる。10 それはお前が、『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである。しかしそこに、主がおられた。11 それゆえ、わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる。12 そしてお前は、主であるわたしがお前のもろもろの嘲りを聞いたことを知るようになる。お前はイスラエルの山々について言った。『それは荒れ果てて、我々の餌食となった』と。13 お前たちはわたしに向かって大口をたたき、わたしに向かって多くの言葉を重ねた。わたしはそれを聞いた。』 とあります。

イスラエルへの妬み

ペトラ

 エドムはイスラエルを妬んでもいました。
 主がアブラハムにカナンの地を与えると約束しましたが、そこを受け継いだのはヤコブの子孫であるイスラエルでした。
 そこに北イスラエルと南ユダという二つの国ができます。
 一方、エサウの子孫であるエドム人はセイルの山地に住みます。そこは岩だらけの土地です。
 ペトラのような難攻不落の天然の要害があり、戦争をするには有利です。荒野のオアシスのように、貿易でも栄えました。
 しかし農業をするには適さない土地です。資源がないのです。
 それに比べ、カナンの地は乳と蜜の流れる豊かな土地でした。
 イスラエルはいいな、本当は自分たちがそこに住むはずだったんだけどな。
 このように妬みました。
 それで北イスラエルが滅び、さらに南ユダが滅びたとき、『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったのです。

主がそこにいる

 しかし南ユダが滅びたからと言って、そこが誰もいない空き地になったのではありません。
 そこに主がいました。
 主はこの地に70年の安息を与え、イスラエルを回復する計画を持っていました。
 だからその地を奪おうとすることは許されません。
 主が守ります。
 結局、妬み、貪欲になったエドムは自分たちに与えられた土地まで失うことになってしまいます。

 私たちはこの世界の中で、限りある富を奪い合って生きています。
 経済そのものを否定しているわけではありません。経済活動によって富の総量は増えます。
 しかし資源は有限です。だから自分が富を得るとき、必ず誰かから富を受けとらなければなりません。
 すると私たちの目は、他の人が持っている富に向かいます。
 それで比較します。あの人はいいな、あんなに富を持っている。
 富だけではありません。他の人の持っている能力、地位、名声を見て、妬みます。そしてそれを自分のものにしようとする。
 しかしそうするうちに、自分が持っているものまで失うことになります。

共に喜ぶ

 主は受けるより与えるのが幸いだと言われました。
 人は自分が祝福を得たいと思います。喜んでいる人を見ながらすることは、一緒に喜ぶことではなく、妬むことです。その祝福を自分のものにしたい。
 それなら祝福を喜んで手放しなさい。
 イエス・キリストはそのように言われます。

 イエス・キリストは弟子たちを宣教に派遣しました。
 それは弟子たちが受けた恵みを分かち合うこと、祝福を流すことでした。
 普通なら、イエス・キリストのそばにいて、その祝福を受け取りたいです。自分のものにしたい。他の人に譲りたくない。
 ではイエス・キリストから派遣された弟子たちは、何かを失いましたか。何が不足したでしょうか。
 弟子たちは杖1本だけを持って宣教に行きました。お金もありませんでした。
 しかし彼らは何一つ不足することがありませんでした。
 むしろ帰って来るときに大きな喜びに満たされていました。
 そのときイエス・キリストが命じたのは、とにかく祝福しなさいということでした。
 祝福が相手にふさわしければ、祝福は相手のものになる。相手にふさわしくなければ、その祝福は自分に帰って来ます。
 その祝福が相手に臨むのを見て、弟子たちは喜んだのです。病が癒され、悪霊が追い出されるのを目撃しました。
 だから祝福して損することはありません。祝福したもの勝ちです。

種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

コリントの信徒への手紙二9:10

 神は種を蒔く人に種を与える方です。
 祝福を流す者に祝福を満たして下さいます。
 他の人より多くを得たいと願う者から、豊かにささげる者に変えられていきます。
 喜んでいる人を見たら、一緒に喜び、祝福する者に変えられていきます。

他人の不幸を喜ぶ者

 最後に今日の本文の9節から15節に『14 主なる神はこう言われる。わたしはお前を荒れ地とする。全世界はそれを喜ぶ。15 お前がイスラエルの家の嗣業の荒れ果てたのを喜んだように、わたしもお前に同じようにする。セイル山よ、エドムの全地よ、お前は荒れ地となる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」』 とあります。

イスラエルの滅亡を喜ぶ

 エドムはエルサレムが破壊されたとき、あははと言って喜びました。
 弟であるイスラエルの不幸の日に、エドムは笑ったのです。
 このことについて主はオバデヤを通して語ります。
 オバデヤの活動時期については色々な説がありますが、エドムについての預言です。

12 兄弟が不幸に見舞われる日に/お前は眺めていてはならない。ユダの人々の滅びの日に/お前は喜んではならない。その悩みの日に/大きな口をきいてはならない。15 主の日は、すべての国に近づいている。お前がしたように、お前にもされる。お前の業は、お前の頭上に返る。

オバデヤ書12,15

エドムの滅亡が喜ばれる

 エルサレムの滅亡をエドムが喜んだように、エドムの滅亡が全世界の喜びになります。
 私たちは他人の不幸を喜んで生きています。蜜の味です。
 競争社会で生きている私たちは、周りの人を蹴落としながら生きています。
 失敗した人がいれば笑う。自分はそのような失敗者でないことを確認し、安心する。
 芸能人のゴシップを見て、批判し続ける。自分はそのような悪人ではないことを確認し、自分を正しい者と思う。
 それはファリサイ人の姿と同じです。神殿に近づくこともできないほど傷つき倒れている罪人を指さしながら、「あのような者ではないことを感謝します」と笑うのです。

共に泣く

 イエス・キリストはむしろ、傷つき倒れる罪人たちに寄り添いました。

 ウサギとカメの話がありますね。
 ウサギとカメが競争します。ウサギはピョンピョンはねて、どんどん進んで行きます。カメはゆっくりゆっくり進んで行きます。
 ウサギはカメとの差をどんどん広げていき、余裕があります。ずっと後ろのカメを見て笑います。
 それでゴールの手前で昼寝をしました。
 天気がよすぎて、ぐっすり寝てしまいました。
 気付いたときにはカメに追い抜かれていました。
 急いで追いかけますが間に合わず、カメが先にゴールします。
 ウサギはカメと勝負しました。カメを見ていたので、大切なものを見落としていました。
 一方のカメは、何を見ていたでしょうか。ただゴールだけを見ていました。
 ウサギが自分より先にいようが、笑われようが関係ありません。自分のペースでいいから、最後まで走り抜く。

 私たちが見上げるべきお方は、ただ主だけです。
 他人の不幸を見て笑っている場合ではありません。
 むしろ、失われた一匹の羊に寄り添い、命をかけて救い出される羊飼いを見上げるのです。
 そのとき私たちは、泣く人と共に泣く者、慈しむ人に変えられていきます。

 私たちの心のベクトルはどこに向かっているだろうか。
 キリストに向けるなら、その愛と恵みと慈しみが心に満たされます。

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