使徒信条11 よみがえり・永遠の命

使徒信条11

よみがえり・永遠の命

ヨハネの黙示録 21:3-4

3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

永遠にあなたと生きる

 礼拝の初めに「永遠にあなたと」という賛美をうたいました。

ただひとつのこと わたしは願う
あなたのみそばで永遠に生きること
永遠に永遠にあなたと生きる
この口は歌い続ける あなたの愛を 

 あなたのそばで永遠に生きる。永遠にあなたの愛を歌い続ける。
 聖書を知らずにこの歌詞を見たらただのラブソングのようにも見えます。
 ラブソングだとしたら「永遠にあなたと生きる」なんて、安っぽい言葉です。
 高校の教師をしながら色々な高校生のカップルを見てきましたが、「いつも一緒だよ」とか言いながら学校でもベタベタしているカップルは長続きしません。「いつも一緒」などと言うカップルほど、すぐに別れるのです。
 距離が近くなるほど相手の問題点が見えてきて、耐えられなくなってきます。

 皆さんはどうですか。心から「永遠にあなたと生きる」と歌えますか。
 「いや、永遠は勘弁してくれ」と思っていませんか。

 今日は使徒信条の最後、「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。」についてです。
 私たちは永遠に生きることを信じています。

身体のよみがえり

死という恵み

 永遠に生きるということは、逆に言うと死ねないということです。
 マンガ「ジョジョの奇妙な冒険」でカーズは、究極の生物となって溶岩の中でも死なない体を得ましたが、宇宙空間に投げ出されてしまいます。そして永遠に宇宙空間をさまようことになります。
 死にたいと思っても死ねないので、そのうちカーズは、考えるのをやめました。
 死ねないというのは退屈なことです。たとえあらゆる力を手にしても、死にたくても死ねないなら永遠の苦しみになります。

 それは私たちが本当の生きる目的を見失っているからです。
 創世記を見ると、人が罪を犯したので死ぬべき存在になったことがわかります。
 人はエデンの園で暮らしていました。園の中央には命の木と善悪の知識の木がありました。
 神様は人に「善悪の知識の実を食べてはならない。食べると必ず死ぬ。」と命じました。
 しかし人はヘビに誘惑され、善悪の知識の実を取って食べます。
 人が神様の命令に従わなかったので、大地は呪われ、生きることは労苦となり、塵から造られた人間は死んで塵に返ることになりました。
 神様はさらに人をエデンの園から追い出します。
 ここで聖書はこう言っています。

こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

創世記3:24

 神様は罪を犯した人間が命の木の実を食べないようにしました。
 それは神様から離れた状態で永遠の命を得てはいけないからです。
 この罪の世界で死にたくても死ねないのは永遠の苦しみです。
 だから死さえも神様から与えられた恵みだと言うこともできます。
 この地上での闘いを終えて、死という恵みをうけとるのです。

死んでも生きる

 死とは何でしょう。
 色々な定義ができますが、肉体と霊魂が分離することだとも言えます。
 死者の体はやがて塵に返ります。
 しかし霊魂は残り、眠った状態になります。

 べタニア村のラザロが病気で亡くなりました。
 イエス様が到着したときには、もう死んで4日目。遺体は腐敗していました。
 悲しむ姉のマルタに、イエス様は約束します。

25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

ヨハネによる福音書11:25-26

 そして墓の前で「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ぶと、死んでいたラザロが出てきました。
 イエス様を信じる人は、死んでも生きるのです。

 ラザロだけではありません。終わりの日、イエス様が再び来るその日、先に眠りについた人たちは復活します。

16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。

テサロニケの信徒への手紙一4:16-17

死も涙も嘆きも労苦もない新しい世界

 しかし結局、この罪の世界で再び生きるのは苦痛ではないですか。
 せっかくこの世での闘いを終えて死ぬことができたのに、また生きなければならないの?
 眠っているときにラッパで起こされるなんて、軍隊ですか。

 いいえ、大地を呪われたものとし、生きることを労苦にし、人を死ぬべき存在にした罪は解決されました。
 イエス・キリストが十字架で死なれたからです。
 そしてイエス様は3日目に復活しました。その体は新しい栄光の体でした。
 今日の本文で約束されているように、最初のものは過ぎ去ります。
 人間の罪によって壊れたこの世界も過ぎ去り、新しい天と新しい地がやってきます。
 もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない新しい世界が始まります。

栄光の体で復活する

 復活した後の栄光の体とはどのようなものでしょう。
 年をとって亡くなった人が、よぼよぼの体で復活したら大変ですね。
 だから生き生きと命にあふれた体になると思われます。

 それでもイエス様の手には釘の跡が残っていました。
 その人を特徴づけるものは残るようです。

 栄光の体がどのようなものか詳しくはわかりませんが、輝かしいもの、力強いものであるとパウロは語ります。
 チョウの幼虫は葉っぱを食べるしかできない弱々しい体を持っています。
 やがてサナギになります。その時は死んだように身動きしません。
 そして時が来ると新しい体を持って出てきます。
 かつてのイモムシの姿からは想像もできない美しいチョウになるのです。
 私たちの今の体は死ぬけれど、この卑しい体からは想像もできない栄光に輝く体をもって私たちは復活します。

Fanny J. Crosby

 詩人ファニー・J・クロスビーは多くの賛美歌の作詞をしました。
 彼女は生まれてすぐに目の病気になり、視力を失いました。
 ある宣教師が彼女に、「私は実にあなたのことを気の毒に思っています。主はあなたにこれほど多くの賜物を与えたのに、あなたに視力を与えませんでした」と憐れむように言いました。
 彼女は「もし私が生まれた時に主に求めることができれば、目の見えない状態で生まれてくることを願ったことでしょう」と答えます。
 なぜでしょう。
 彼女は続けて言います。
 「そうすれば、私が主にお会いし、目が見える時に、私が初めて目にするお顔は、きっと私を喜ばせてくれる救い主の顔だからです」

 私たちの今の体は様々な弱さがあり、欠けがあり、日々衰えていきます。
 しかし私たちは身体のよみがえりを信じます。
 イエス様が帰ってくるとき、私たちは栄光の体に復活し、主にお会いし、死も悲しみも嘆きも労苦もない新しい人生が始まります。

永遠の命

 私たちは栄光の体で永遠に生きることになるわけですが、それは結局退屈なのでは?
 生きる目的を見失ったままなら、永遠の命は退屈でしかないでしょう。
 しかしイエス様に出会った私たちは、喜びを知りました。
 神様の栄光を現わし、神様の素晴らしさを賛美せずにいられなくなります。そして神様を喜ぶことができます。

神をたたえ神を喜ぶ

 ウェストミンスター小教理問答の第1問「人の主な目的は何ですか。」に対する答えは「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」 とあります。
 私たちは神をたたえ、神を喜ぶために生きています。
 この喜びは神様を知れば知るほど大きくなります。
 神様を知れば知るほど、その素晴らしさを賛美せずにいられなくなります。

 皆さんが誰かからプレゼントをもらったとしましょう。
 まだプレゼントの中身はわからないし、送り主もわかりません。
 それでもプレゼントをもらったこと自体うれしいし、送り主への感謝がわいてきます。
 その包みを開け、プレゼントの中身が自分の本当に求めていたものだと知ったとき、喜びがわき上がります。
 その送り主が自分の憧れていた人だと知れば、その人への感謝は倍増します。

 私たちは救いというプレゼントをいただきました。それ自体喜びであり、神への賛美がわき上がります。
 しかしこの世で生きる私たちはまだ救いの全体像を見ていません。
 復活の時、私たちは救いの完成を見ます。この目で主を見ます。
 私たちはそこで永遠の喜びを知り、いつまでも神を賛美し続けるのです。

永遠の命は神と共に生きること

 永遠の命の本質はどこにあるかと言うと、神を知ることです。
 イエス様がこう言っています。

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

ヨハネによる福音書17:3

 聖書で知るという言葉は、ただ知識的に知ると言うだけでなく、体験的に知るという意味もあります。
 神様と人格的に出会うこと、神様と共に生きることが永遠の命です。

 今日の本文でも「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神とな」ると約束されています。

 ダビデはこう歌いました。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。

詩編27:4

 神様のそばで生きることをダビデは願っています。それが本当の喜びだとダビデは知っていたのです。
 そう、永遠に神と共に生きることは終わりない喜びです。この口は神の愛を歌い続けるでしょう。

大団円

 おとぎ話で、お姫様が王子様と結ばれ「いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。」という決まり文句で終わることがあります。
 おめでたい話です。いつまでも幸せが続くわけないだろ、結婚してからが大変なんだ。
 まあ、この世の現実はそうです。
 しかし私たちはいつまでも幸せに暮らします。
 花婿であるイエス様が、着飾った花嫁である教会を迎えに来ます。
 そして私たちは復活し、永遠に生きるのです。
 すべてが完成し、大団円を迎えます。
 そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ。
 めでたしめでたし。

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