使徒信条6 よみがえったキリスト

使徒信条6

よみがえったキリスト

コリントの信徒への手紙一 15:3-6

3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。

生まれ変わっても問題から逃げられない

六道輪廻をあらわしたチベット仏教の仏画。恐ろしい形相をした「死」が輪廻世界を支配している

 5月、歌舞伎役者さんが両親と共に救急搬送されたというニュースが入ってきました。役者さんは一命をとりとめましたが、ご両親は亡くなりました。
 一家心中をしようとしたようです。役者さんの話によると、家族で話し合い、両親は薬を飲みました。そして役者さんは首を吊りました。
 家族で死のうと思ったきっかけは、週刊誌で役者さんのパワハラとセクハラが報じられたことでした。「こんなことを書かれたら、もう生きていても意味がない。」
 親子は敬虔な仏教徒で、輪廻転生を信じていました。新しく生まれ変わり、生き直すために死のうと話し合ったようです。

 彼らは自身の犯した問題や息子のスキャンダルと向き合うより、死を選びました。
 生まれ変わりを信じる彼らは死を恐れていませんでした。
 しかし輪廻転生には因果応報、自業自得の法則があります。たとえ生まれ変わりがあったとしても、問題と向き合わずに生きることはできません。

 聖書の世界に生まれ変わりはありません。
 それでも私たちも死の恐れから解放されます。
 そして生まれ変わらなくても、新しく生き直すことができます。
 キリストが死んで復活したからです。

 今日は使徒信条その6。「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、」の部分を見ていきます。

死の陰の谷を行く時も恐れなし

死は避けられない問題

始皇帝

 死というのは誰にでも起こる問題です。年老いて亡くなる人もいれば若くあるいは幼くして亡くなる人もいます。事件や事故、自然災害で突然その時が来る人もいます。自ら死を選ぶ人もいます。
 身近な人、よく知っている人が亡くなると、大きな悲しみを覚えます。
 死をどうにかして避けたいと思います。
 秦の始皇帝は中国を統一しました。強大な力を手に入れた始皇帝には、どうしても欲しいものがありました。不老不死の薬です。始皇帝は中国各地に命令を出し、不老不死の薬を探させました。日本にも探しに来たと伝えられています。
 中世の西洋では錬金術が発達しました。人間を不老不死にする賢者の石を作ろうとしたのです。しかし不老不死の薬は見つからず、賢者の石も作れませんでした。
 死は誰にも避けられない問題です。

死の問題も解決すべき

 死が人間の最大最後の問題になったのは最初の人アダムからです。人間の代表であったアダムが神に背き、罪を犯しました。その罪の報酬としてすべての人が死ぬことになりました。
 イエス・キリストは人間の代表として罪を償いました。
 罪の問題を解決しようとするなら、死の問題も解決しなければなりません。

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだった

 使徒信条はイエス・キリストが「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだ」ったと告白します。
 陰府というのは死者が行く世界のことです。
 十字架は死刑のことですから、十字架につけられた時点で死が連想されます。
 その上、死んで葬られ陰府にくだったと言うのは、死に関連する表現が二重三重に繰り返されることになります。
 今日の本文でパウロも、最も大切なこととして伝えた福音の核心として、「死んだこと」の後に「葬られたこと」と言います。

 くどくないですか?

 いいえ、繰り返し死に言及するのは意味があります。
 キリストは確かに死んだのです。
 死んだように見せかけたわけでも、死にかけて息を吹き返したわけでも、仮死状態になって蘇生したのでもありません。
 イエス・キリストは十字架で死にました。その肉体は墓に葬られ、霊魂は陰府にくだりました。

キリストが共にいるので死は恐れるに足らない

 イエス・キリストは死にました。人間の最大最後の問題を経験されました。
 そして墓に葬られました。そこはこの世で最も暗く寂しいところです。
 だから私たちがどのような問題にあるときも、どんなに暗く寂しいところを通らされるとしても、キリストは共にいます。

 イエス・キリストは陰府にくだりました。
 私たちが実際に死を経験するときにキリストは共にいます。
 そして肉体と分離された霊魂をキリストは全くきよいものとして迎え、栄光に入らせてくださいます。
 死者が行く陰府にもキリストが共にいるので、そこは楽園(パラダイス)になります。イエス様が「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださいます。

 もはや死は恐ろしい問題ではなくなりました。死のトゲは抜かれてしまったのです。

死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

詩編23:4

 ダビデが歌ったように、死の陰の谷を通らされる時にも恐れる必要はありません。
 まことの羊飼いイエス・キリストが共にいます。

新しい命に生かされる

 死が恐ろしい問題でなくなったなら、私たちはいつでも死ねるということでしょうか。
 極端に言うとそうです。
 パウロもこの世を去ってキリストと共にいることを熱望しています。

神があなたに命を与え生かしている

 しかし自分のタイミングで死を選んではいけません。
 私たちの命は神から与えられたものです。
 イエス・キリストによって罪から救われてもこの世で生かされているのは、まだこの世でするべきことが残されているからです。

 罪によって壊れたこの世で生き続けることは苦悩と悲惨の連続です。死んだ方がマシだと思うこと。あるいはふと死にたいという思いが襲ってくることがあるかもしれません。
 それでも神があなたに今日の命を与えたのだから、今日も生きてください。
 血の中でもがくあなたを見て神は、生きよ、生きよと叫んでいます。
 今日この世で果たす責任から逃げて死を選ぶことはしないでください。
 神はあなたが生きることを願っています。

 キリストと共に私たちは新しい命に生かされます。
 イエス・キリストが死の力を打ち破り復活されたからです。

復活

ピエロ・デラ・フランチェスカ「キリストの復活」

 十字架で死なれたキリストは墓に葬られました。しかし三日目、日曜日の朝、墓は空になっていました。
 復活したのです。
 復活のキリストは弟子たちの間に現れました。たくさんの弟子たちが同時にそれを目撃しています。幻覚ではありません。
 復活の主の体には十字架の釘の跡、槍の痕が残されていました。確かにイエス様です。
 密室に突然現れましたが、幽霊ではありません。パンを裂いたり魚を食べたりできる肉体を持っていました。
 そのようなことがあり得ますか?
 あり得ません。
 これも神にしかできない奇跡です。

復活の証拠

 イエス・キリストの復活を認めてしまうと、もうイエスを主として認めざるを得なくなります。だから人々はなんとかして復活を否定しようとします。
 しかし証拠はそろっています。

 パウロがコリントに宛てて手紙を書いたとき、まだ復活の目撃者たちの大部分はまだ生きていました。当時を知っている人たちに聞けば、パウロの書いていることが本当かどうかわかります。
 もしパウロがウソを書いていたら、この手紙の信ぴょう性がなくなります。信ぴょう性がない文書が読み継がれるでしょうか。こんな話はウソだ、と破り捨てられます。
 この手紙が新約聖書として正典に入っている事実が、復活が事実であることを物語っています。

 墓が空だったという状況証拠もあります。
 遺体はいったいどこに行ったのでしょう。
 ユダヤ人たちは弟子たちが盗んだのだと主張しました。そうすると復活はウソになります。
 十字架のときにユダヤ人を恐れて逃げ出した弟子たちが、その50日後にユダヤ人の前で大胆にイエス・キリストの死と復活を証ししました。
 迫害され石打ちの刑になっても復活を証しした弟子たちがいました。
 ウソのために恐れを克服し迫害に耐えることができるでしょうか。
 この弟子たちの変化こそ最大の証拠です。
 復活がなかったなら彼らの変化は説明がつきません。

 生きている間は大きな影響を与えた人も、死んで時間が経つにつれ影響力は弱まっていきます。
 イエス・キリストの福音は2000年間人々を変え、社会を変えてきました。
 その影響力はエルサレムからユダヤ、サマリア、そして地の果てへと広がり続けています。
 復活の主は今日も生きているのです。

復活の主に出会う時、人は変えられる

ニコラ・ベルナール・レピシエ パウロの回心

 パウロはかつて教会を迫害していました。
 そのパウロが異邦人に福音を伝え、新約聖書の多くの部分を書きました。
 まるで別人になったかのようです。
 この変化は復活の主に出会ったときに起こりました。

 このような変化は私たちにも起こります。
 古い自分がキリストと共に死んで葬られ、復活の主と共に新しい命に生かされるのです。

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

ローマの信徒への手紙6:4

 人は誰でも変われます。
 過去を呪い、目の前の現実から逃げようとしなくていいです。
 古い人は死んで、新しく創造された者になるのですから。
 死んで生まれ変わらなくても、水と霊によって新しく生まれることができます。

 相変わらず罪と悲惨に満ちたこの世界。そこでイエス・キリストが十字架で死んで復活しました。
 それは日曜日の朝でした。
 私たちは毎週日曜日ごとにこのイエス・キリストの復活を記念して礼拝をささげます。新しい一週間を生き始めます。
 復活の主と共に今日も今週も生きていきましょう。

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