使徒信条5 私たちのための十字架

使徒信条5

私たちのための十字架

イザヤ書 53:4-6

4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

罪なき者が歩んだ死刑への道

 スティーブン・キング原作の映画「グリーン・マイル」。
 1930年代のアメリカで、2人の少女が暴行を受け殺されました。現場にいた黒人男性ジョン・コーフィーが逮捕され、2人の少女への強姦殺人の罪で死刑判決を受けます。
 当時は電気椅子で死刑が執行されていました。ジョン・コーフィーが収監された刑務所では電気椅子へ続く廊下は緑色で、死刑囚が最後に歩くその道はグリーン・マイルと呼ばれていました。
 ジョン・コーフィーは死刑囚ですが、その罪状に似合わず繊細で純粋な心を持っています。そして看守の病気を治したり、死にかけたネズミを癒したりできる不思議な力を持っていました。
 看守のポールはジョンから、少女たちの死の真相を聞きます。ジョンは冤罪だったのです。しかし判決を覆すことのできる証拠はなありません。
 罪のないジョンが死刑になってしまいます。ポールはジョンに脱獄を勧めますが、彼はこう言って拒みました。
 「世界中で今も愛を騙って人が殺されている」
 「毎日のように、世界中の苦しみを感じたり聞いたりすることに疲れたよ」
 数日後、ジョン・コーフィーはグリーン・マイルを歩き、ポールは電気椅子のスイッチを押します。

 罪のないジョンがなぜ死刑にならなければならなかったのでしょう。
 若い頃にこの映画を見たときにも感動しました。
 クリスチャンになってから見たとき、イエス・キリストのことを考えずにはいられませんでした。イエス様も罪がなかったのに、十字架という当時の処刑法で死刑になったからです。

 今日は使徒信条の5回目「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」の部分。罪なき神の独り子がなぜ十字架で死ななければならなかったのかを見ていきます。

誰がイエスを十字架につけたのか

 前回はイエス様が聖霊によってマリアのお腹に身ごもられたことを見ました。
 使徒信条はそこからいきなり十字架の死の話に飛びます。
 もし皆さんの生涯が「生まれました」「死にました」でまとめられたら悲しいですね。
 もちろん福音書に記された3年半の働きも大事なのですが、十字架の死こそ信仰における重要な柱の1つです。だから間の33年間はすっ飛ばしています。
 イエス様は十字架で死ぬために人として生まれたとも言えます。

十字架刑

アンドレア・マンテーニャ「磔刑」

 十字架はファッションの道具として身に着けたり結婚式場に掲げられたりしていますが、もともとローマ帝国における死刑の道具でした。
 十字架刑になった人は漢字の十の形に組まれた木にはりつけられます。人の手と足に直接釘を打って固定するのです。こうして野ざらしにされます。
 死刑囚は自分の体の重さで胸が圧迫されます。苦しいので体を持ち上げようとしますが、釘を打たれているので力を入れると激痛が走ります。じわりじわりと体力を奪われ、苦しみながら死んでいきます。
 苦しいのは体だけではありません。人々から嘲られ侮辱され、精神的にも苦しみながら死んでいきます。
 あまりにも残酷な処刑法。人間の最期にしては悲惨すぎます。
 だからローマ帝国はローマ人を十字架につけることはせず、異邦人の中で罪人のボスのような人を十字架刑にしました。

ピラトによって下された死刑判決

 聖霊による処女懐胎は、イエス様に罪がないことを示しています。罪がないお方が、なぜ罪人のかしらとして十字架刑になったのでしょうか。

 イエス様の死刑を求めたのは宗教指導者たちでした。
 彼らはイエス様を捕え、裁判にかけます。しかし誰もイエス様の罪を立証できる人はいませんでした。
 結局、イエス様が神の子を自称したということで死刑になりました。人が自分を神と同一視した神聖冒涜の罪だというわけです。
 これも濡れ衣です。だってイエス様はまさしく神の子なのですから。

アントニオ・シセリ「この人を見よ」

 宗教指導者たちはイエス様をピラトのところに連れて行きました。ローマから派遣された総督が、十字架刑にする権限を持っていたからです。
 ピラトはイエス様を取り調べますが、当然何の罪も見出せません。だからイエス様を釈放しようとします。
 ところが宗教指導者たちに扇動された群衆は「十字架につけろ!」と叫びます。
 また宗教指導者たちはイエス様がユダヤ人の王を自称したと言い、もしそれを許すならローマ皇帝に背くことになるとピラトを脅しました。
 そこでピラトは水で手を洗い、「この人の血について、わたしには責任がない」と言ってイエス様を十字架刑にします。

誰も この人の血について、わたしには責任がない と言えない

 使徒信条はイエス様が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」たと言います。
 確かに十字架刑にしたのはピラトです。
 しかしイエス様を十字架につけるために様々な人が関わっていることがわかります。
 宗教指導者たちはイエス様が正しいお方なので妬み、殺そうとしました。
 イエス様の逮捕に協力したイスカリオテのユダは、イエス様が選んだ12人の弟子の一人でした。しかし銀貨30枚でイエス様を裏切ります。
 同じく弟子のペトロは「あんな男は知らない」と3回も否定します。
 群衆は指導者たちが求めるがままに「十字架につけろ!」と叫びます。
 そしてピラトはイエス様に罪がないと知りながら、自分を守るために十字架につけます。
 誰もが道を踏み外し、間違った方向に進んでいます。皆が共犯です。
 誰一人「この人の血について、わたしには責任がない」などと言える人はいません。

メシアが人々の罪のために殺される

 今日の本文でイザヤは私たち人間を迷える羊の群れにたとえます。
 「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」
 誰もが道を踏み外した迷える羊。この道を踏み外した状態、的外れなことを罪と言います。
 イザヤは続けて言います。
 「そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」
 この彼とは苦難のしもべ。メシアが人々の罪のために殺されるという預言です。
 イエス様を十字架で殺したのは罪人たちです。

自分も この人の血について、わたしには責任がない と言えない

 私たちは使徒信条を告白しながら何を思うでしょう。
 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」

 ピラトざまあみろ。何が「この人の血について、わたしには責任がない」だ。お前みたいな罪人がイエス様を十字架につけたんだ。神の子を殺したんだ。お前の名前は毎週世界中の教会でイエス様を十字架につけた者として語り継がれているぞ。

 ここまでではなくても、私たちはイエス様の十字架を2000年近く前の遠い国の話だと思ってしまいます。
 ピラトのようにその場にいた人に責任はあっても、自分は「この人の血について、わたしには責任がない」と思いたくなります。
 しかしまさにその「この人の血について、わたしには責任がない」と言った人によってイエス様は十字架につけられたのです。

イエス様を十字架につけたのは自分だ

 私たちは自分の間違いを認められません。正しい人を妬んだ宗教指導者たちのように。
 私たちは神様より他のものを愛します。銀貨30枚でイエス様を売ったユダのように。
 私たちは恐れや恥に捕らわれ、逃げ隠れします。イエス様を否定したペトロのように。
 私たちは周りに流され愚かなことをします。「十字架につけろ!」と叫んだ群衆のように。
 私たちは安全な場所に留まり責任から逃れます。「この人の血について、わたしには責任がない」と言ったピラトのように。

 福音書を見るとき、私たちは自分もその場にいたのだと気づかされます。
 ああ、私はバラバだ。死ぬべき罪人は私だった。
 私はキレネ人シモンだ。無関係な重荷を負わされたのではない。私が負うべき重荷をイエス様が負ってくださったのだと。

 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と告白するとき、私たちは自分がイエス様を十字架につけたのだと告白するのです。

なぜイエスは十字架で死なれたのか

 イエス様は宗教指導者の裁判を受けたときもピラトから取り調べを受けたときもほとんど沈黙しています。特に自分を弁護するようなことは言いませんでした。
 イエス様に罪はないのだから、どの証言も矛盾していました。そもそも裁判のあり方自体が不正なものでした。だからその間違いを指摘して裁判を中止させることもできたはずです。
 しかしイエス様は、次々と現れる人間の罪の姿をそのまま受け止めます。暴力を受け、嘲られ侮辱されました。
 それは私たちを救うため、癒すためでした。
 確かにイエス様の十字架は人間の罪が引き起こしたものですが、イエス様自身があえて人間の罪をその身に負い、十字架の道を歩んで行きました。

人の罪を償うため

 神様は正しいお方です。不正や罪を放っておくことはできません。
 それなのにイエス様は十字架において人間のあらゆる不正や罪をそのままにしているように見えます。そして罪人のかしらであるかのように十字架で死にます。
 罪のないお方が罪人のかしらとして死んだ。
 イエス様は誰の罪のために刑罰を受けたのですか?
 「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。」
 今日の本文でイザヤが言うように、イエス様は私たちの背きや咎を引き受けます。病や痛みさえもその身に受けます。
 そのためにイエス様はあえて沈黙し、十字架にかけられました。

 洗礼者ヨハネは言いました。

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

ヨハネによる福音書1:29

 イエス様の十字架によって、私たちの罪の償いは完了しています。

神の愛を示すため

 神様は愛のお方でもあります。
 私たちが救われる資格のない罪人であったにも関わらず、神様はイエス様の十字架の死によって私たちを救いました。それほどまでに神は私たちを愛しているということです。

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

ローマの信徒への手紙5:8

 他人の身代わりに独り子を死なせるなんて、父なる神はとんでもない虐待野郎だと腹を立てる人もいるかもしれません。
 信康と瀬名を死に追い込んだ家康みたいに、とんでもない父親だと。
 しかし親になった人はわかると思います。自分の子が苦しむことは、自分が苦しむよりつらいです。もし自分の子がどうしても死ななければならないというのなら、どうにかして自分が代わってあげたい、この身をささげてでも子どもに生きていてほしいと願うものです。

 三位一体の神様が互いに完全な愛で愛し合っていたことは間違いありません。
 神の子イエス・キリストが十字架につけられるとき、父なる神様の心はどれほど痛んだでしょう。

 そして死と無縁の神が死にました。
 人間を救うためにです。罪人のあなたを救うために、神が死んだのです。
 どれほどの愛でしょうか。

私たちをいやすため

 イザヤはこうも言います。
 「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

 キリストが十字架で死んだとき、神殿の垂れ幕が裂けました。神と人とを隔てていたものが取り除かれました。
 道を踏み外しさまよっていた私たちは神に立ち帰り、神との関係が回復しました。

 そしてもはや罪の奴隷としてではなく、自由な神の子として生きることができるようになりました。

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

マルコによる福音書10:45

 私たちはキリストの命によって買い取られました。
 ものの価値は、どれほどの代価を支払えるかによって測ることができます。

 決して自分を無価値な人間であるかのように考えたり、他の人や社会からモノのように扱われたりしてはいけません。
 あなたはキリストの命が代価として支払われた、神の宝物です。
 かつてはガラクタのように神のかたちが壊れていました。
 しかしキリストの受けた傷によって私たちは癒されました。神のかたちが回復しています。

 イエス様は私たちの罪の償いを完了し、愛を示し、私たちを救うために十字架で死なれました。
 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と告白するたびに、私たちはこの恵みを受け取っていきます。

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