創世記49

美しい人

創世記 24:15-32

15 僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、16 際立って美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、17 僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。「水がめの水を少し飲ませてください。」18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませた。19 彼が飲み終わると、彼女は、「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、20 すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。21 その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。22 らくだが水を飲み終わると、彼は重さ一ベカの金の鼻輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しながら、23 「あなたは、どなたの娘さんですか。教えてください。お父さまの家にはわたしどもが泊めていただける場所があるでしょうか」と尋ねた。24 すると彼女は、「わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」と答え、25 更に続けて、「わたしどもの所にはわらも餌もたくさんあります。お泊まりになる場所もございます」と言った。26 彼はひざまずいて主を伏し拝み、27 「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と祈った。28 娘は走って行き、母の家の者に出来事を告げた。29 リベカにはラバンという兄がいたが、ラバンはすぐに町の外れの泉の傍らにいるその人のところへ走った。30 妹が着けている鼻輪と腕輪を見、妹リベカが、「その人がこう言いました」と話しているのを聞いたためである。彼が行ってみると、確かに泉のほとりのらくだのそばにその人が立っていた。31 そこで、ラバンは言った。「おいでください。主に祝福されたお方。なぜ、町の外に立っておられるのですか。わたしが、お泊まりになる部屋もらくだの休む場所も整えました。」32 その人は家に来て、らくだの鞍をはずした。らくだにはわらと餌が与えられ、その人と従者たちには足を洗う水が運ばれた。

美しいもの

 皆さんに質問があります。

 きれいなお姉さんは好きですか?

 正直に答えてください。
 私は好きです。

 富士山はどうですか。
 美しいですね。
 好きですか?

 夕日も美しいですね。
 好きですか?

 花も美しいですね。
 私は特にユリが好きです。

 動物はどうでしょう。
 ゴリラ。
 クジャク。
 美しいですね。

 では人間はどうですか?
 生身の人間ではありませんが、ミケランジェロのダビデ像。
 フェルメールの真珠の耳飾りの少女やレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザ。
 美しいでしょう。
 好きじゃない人がいますか?

 これらは人の手で造られた芸術作品です。
 自然の景色や動植物も神の手で造られた芸術作品です。
 だから人はそこに美を感じ、魅了されます。
 では神がその創造の集大成として最後に造り上げたのは何でしたか。
 人間です。
 男が造られ、後で女が造られましたね。
 だから人間の女性が美しいのは当然です。アダムも初めて女性を目にした時に「ついに、これこそわたしの骨の骨 わたしの肉の肉。」と驚きの声を上げました。かなり独特の表現ですが、「あなたはなんて美しいんだ。あなたこそ私が愛すべき人だ」という愛の告白です。一目ぼれしちゃったんですね。
 堕落する前の人間はこんなに素直でした。

 気をつけなければならないのは、罪に汚れた私たちは美しいものと性的なものを混同しやすいということです。
 特に男たちは。
 街なかできれいなお姉さんに目が行くのは仕方ありません。
 しかしそこでみだらな思い抱くなら姦淫と同じだとイエス様は言いました。
 だから美しいものと性的なものと区別してくださいね。

 もう一度聞きます。
 皆さん、正直になりましょう。
 きれいなお姉さんは好きですか?

内面からにじみ出る美しさ

 今日の本文には際立って美しい人が出てきます。

 エリエゼルはイサクのお嫁さんを探すためにナホルの町にやってきました。
 主人アブラハムから出された条件は、神の約束に従うために同じ主なる神様を見上げられる人であり、カナンの地に嫁いできてくれる人であるということ。
 それで親族が住むナホルまで来ました。金の装身具や食糧などを携え、らくだ10頭にまたがって来ました。
 ここでアブラハムの親族に出会えればいいけれど、エリエゼルは会ったことがありません。
 自分では探しようがないので、神に祈りました。
 そこで祈ったことは、水汲みに来た女性に水を飲ませてほしいと頼んでみるが、彼女がらくだにも飲ませてくれたら、その人こそイサクのお嫁さんとして神様が選んだ人だとさせてくださいというものでした。

リベカとの出会い

ギュスターヴ・ドレ「エリエゼルとリベカ」

 エリエゼルがこのように祈っている間に神様は既にその祈りの答えを用意していました。
 リベカという娘さんが水汲みに来ていたのです。
 彼女は実はアブラハムの親族でした。アブラハムの兄弟ナホルとミルカの末っ子ベトエルの娘です。イサクとベトエルはいとこになります。
 聖書はこのリベカについて際立って美しい未婚の女性だったと書いてあります。

 エリエゼルが祈り終わって目を上げると、ちょうどリベカが泉から水を汲んで上がって来ます。
 この時はまだ彼女について何も知りません。
 とりあえず祈った通り、水を飲ませてくださいと頼みました。少しで良いからと遠慮気味に頼みます。
 リベカは快く水を飲ませてくれました。
 ここまでは当然の流れ。旅人をもてなす風習があるし、頼まれたことなので。
 通常はこれで終わりです。
 ところがリベカは「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言って、らくだが飲めるように石の水槽に水がめの水を注ぎ出します。
 そして走って泉に降りて行き、また水を汲んできました。
 これをすべてのらくだが飲み終わるまで続けます。
 らくだ1頭は一度に45ℓも水を飲みます。10頭いれば450ℓ。大変なことです。

リベカの美しさ

 リベカの美しさがここに表れています。
 聖書はリベカを際立って美しいと言いますが、その容姿については全く触れていません。
 身長はどれくらいか、どんな目をしていたか、鼻の高さ、髪形、肌の色、体型、服装、それに年齢。一切書かれていません。
 リベカの美しさはそんな次元の話ではないのです。
 内面からにじみ出る美しさです。
 旅人に水を飲ませるのは義務です。仕方なくでもやります。
 しかしらくだに水を飲ませるというのは自発的な愛の行動です。
 彼女はこれを最後まで一人でやり遂げます。
 女性一人で450ℓもの水を運ぶのは大変です。
 しかも彼女、泉まで走っていくんですよ。らくださんにも早く水を飲ませてあげたいと。なんて優しいんでしょう。
 その間、男性であるエリエゼルは突っ立ってるんです。
 神様が祈りに答えてくれるかどうかを見極めるために、手出しはできません。
 他にも召使いが何人かいたようですが、彼らも同様です。
 でもリベカからしたら知ったことではないですね。「私一人に水を運ばせて…。あなたたちのらくだでしょう。一人くらい助けてくれてもいいじゃない」と不満を持ってもおかしくありません。
 しかしリベカは一言もつぶやかず、これをやり遂げます。惜しみない献身です。

神の愛を反映する神の作品

 新約聖書にもこのような美しい人が出てきます。
 べタニア村のマリアという女性です。
 彼女はイエス様のために純粋で非常に高価なナルドの香油を惜しみなくささげました。
 誰かに強いられたわけでも頼まれたわけでもありません。自発的な愛の表れです。

 このように私たちの内から愛が表れるとき、そこに美しさがあります。
 神の作品としての美がにじみ出るからです。

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

エフェソの信徒への手紙2:10

 義務を果たすことや頼まれたことだけをして満足しないでください。
 そこに自発的な愛の行動を加えてください。
 いやいやではなく、心から喜んでするのです。
 私たち人間の愛は限界があるので、途中で嫌気がさしてきます。
 なぜ私がこれをしないといけないのか。いつまでやらせるのか。感謝もされないのに。
 本当は、私たちの内に愛などありません。
 愛は神から来ます。
 神は愛だからです。
 私たちはイエス・キリストの十字架という究極の愛を受けましたね。
 その愛に駆り立てられて、家族に、友人に、職場の人に仕える。
 その惜しみない献身は、本当に美しいです。

謙遜さ

主の前にへりくだるエリエゼル

 エリエゼルは彼女の惜しみない献身を見て、神の愛を感じ取りました。
 彼女も主なる神様を畏れる人だ。イサク様のお嫁さんにぴったり。
 問題は、彼女がカナンまで嫁いできてくれるか。家族の許しを得られるか。
 それでエリエゼルは彼女に金の鼻輪と腕輪を贈り、身元を尋ねて訪問することにしました。
 すると彼女は「わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」と答え、家に泊まる場所もあると答えてくれました。ワラもエサもあると言って、ここでもらくだたちのことを気にかけてくれています。

 エリエゼルは彼女がアブラハムの親族だったと知ります。
 なんということでしょう。完璧すぎます。
 嫁探しの旅は大成功です。
 ナホルの町に来て、この井戸のそばを選んでよかった。この娘さんに声をかけてよかった。私の目に狂いはなかった。
 と自分の功績を誇ることはしません。
 彼がしたことは、ひざまずいて神に感謝することでした。
 まずは神様の御名をほめたたえる。
 そして主の慈しみとまことは主人を離れなかったと、アブラハムのことに触れる。
 最後に、主が自分の旅を導き出会わせてくださったんだと言います。
 自分の功績は何もないのだと、へりくだるしもべの姿です。

ラバンの接待

 リベカは走って家に帰りました。
 母の家とありますが、父ベトエルは病気だったか、既に亡くなっていたかもしれません。
 家はリベカの兄ラバンが継いでいました。
 リベカから事情を聞いたラバンはすぐに食事と休む部屋を準備させ、走ってエリエゼルを迎えに出ました。
 そして家に迎え入れるとらくだにワラとエサを与え、エリエゼルと召使たちの足を洗い、食事のもてなしをします。大歓迎です。
 この家の人たちはよく走りますね。そして手際がいい。
 ラバンは家の主人でありながら、よく働きます。
 彼も謙遜です。ここにも愛が感じられます。

白く塗った墓よりドブネズミみたいに美しくなりたい

 これと対照的なのが、ファリサイ人のシモンです。
 彼はイエス様を家に招き食事のもてなしをしました。
 しかしシモンは足を洗う水を出さず、髪の毛にオリーブ油を塗らず、接吻の挨拶もしませんでした。歓迎している感じがありません。
 するとこの家に、罪深い女として知られていた女性がイエス様を尋ねてやってきました。
 彼女は泣きながらイエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻して香油を塗りました。
 シモンは彼女を見て罪深い女だと軽蔑しますが、イエス様は彼女の大きな愛を称賛しました。
 彼女が多くの罪を赦されたことが、この愛の大きさでわかると。

パオロ・ヴェロネーゼ「シモンの家の晩餐」

 イエス様はファリサイ派の人たちについてこう言っています。

27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

マタイによる福音書23:27-28

 白く塗った墓。
 自分を正しく見せようと外側を取り繕うが内側は腐りきっている。
 私たちも美しさという時、外側をごまかすことばかりに目が行ってしまいます。
 もちろん身だしなみを整え見た目をきれいにすることは大事です。
 そこで外側だけを美しくし、裸の恥を隠そうと仮面を被るなら、それは偽善です。
 外側も大事だけれど、内側からにじみ出す美しさこそ大事です。
 ドブネズミみたいに美しくなりたい。
 写真には写らない美しさがあるから。

 自分の罪深さ醜さを知り、謙遜にイエスの前にひざまずく。
 その罪を赦された者は、復活の主に生かされる。
 神のかたちが回復される。
 その美しさは惜しまず自らをささげる愛となって現れます。
 あなたは神の傑作品。
 あなたは美しい人。


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