ローマ書講解21 永遠の神の愛

ローマ書講解21

永遠の神の愛

ローマの信徒への手紙 8:31-39

31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

苦しみの中でも神は味方

 先週は万事が益となるということを学びました。
 聖霊も言葉にならないうめきで執り成していてくださる。そして私たちをキリストに似た者にしようと、神が共に働いてくださる。
 このように三位一体の神様が私たちを助けてくださいます。
 私たちの低い視点では苦しみの意味などわからないかもしれない。
 しかし神様の大きな計画の中で、すべてがプラスに変えられます。

 それでも現在の苦しみがなくなるわけではありません。
 将来の栄光に比べたら取るに足りないと分かっていても、苦しいことは苦しい。

 私はこの時期になると2001年9月11日のことを思い出します。
 夜、家で親がテレビを見ていました。急に画面が切り替わり、ニューヨークにある2棟の超高層ビルが映し出されました。ツインタワーと呼ばれていた世界貿易センタービルです。
 片方のビルから煙が上がっています。火事か?
 どうやら飛行機が突っ込んだらしい。大変な事故が起きたと思いました。
 ところがしばらく見ていたら、もう片方のビルに飛行機が突っ込みました。
 これは事故ではなく、人間が意図して行ったテロなのだと知りました。
 人間にこんなことができるのか。
 数多くの人が命を落とし、突然家族を失いました。
 犠牲になった彼らが何をしたというのでしょう。
 意味など見い出せない、理不尽な苦しみです。

 そんなときに「万事が益となる。この苦しみにも神様の意図がある」などと自己暗示をかけて苦しみをごまかしてはいけません。苦しいことは苦しい。
 しかしその苦しみの中でも主を見上げてください。
 ヨブは言いました。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
 すべては主権者である神様の御手の中にあります。
 この神様が私たちの父となって、その手を広げ私たちを抱きしめてくださいます。
 神様が私たちの味方です。

神の愛の中で生かされている

 ローマ書8章の最後の部分に入りました。
 福音に生きる喜びを語ってきたパウロは、これまでの話をまとめてこう問いかけます。
 「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。」
 ここからいくつかの質問を繰り返しながら、クライマックスに向かって行きます。

すべてを治める神が味方

 最初の質問。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」
 すべては神様の御手の中にあります。
 サタンでさえ、神様の許可がなければヨブに何もできませんでした。
 この神様が私たちの味方です。
 そして王の王、主の主であるイエス様が味方です。
 この世では苦難があります。
 「しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」とイエス様は約束しました。
 私たちに敵対できるものはいません。

あまりにも私たちを愛する神が私たちの必要を満たさないはずがない

 次の質問。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」
 神様は、かつて私たちが罪人であったときに御子キリストを送り、十字架で死なせました。
 子どもの命は、自分の命より大切。
 だから神様は、私たちを救うため生かすために、最も大切なものをささげてくださったのです。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネによる福音書3:16

 ちょっと日本語だと表現が弱いのですが、英語では ”God so loved the World.” です。
 神はあまりにも世を愛した。
 それは私たちを生かすため。
 だったら、私たちが生きていく上で必要なものを神様が与えてくださらないはずがありませんね。
 だから大胆に祈れます。
 天のお父さんは最も良いものを最も良い時に与えてくださいます。

本当に愛してくださっている方の声に耳を傾ける

 3つ目と4つ目の質問。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。」
 これは神様の法廷でです。
 この世ではもちろん罪を犯したらその責任を負わなければなりません。
 しかし神様の前ではどうでしょう。
 私たちの過去、現在、未来の罪もすべてイエス・キリストの十字架の死によって償いが完了しています。
 イエスを主と信じた私たちは聖霊によってキリストに結ばれ、義と認められています。
 だから偽りの声に惑わされないでください。

 時に私たちの中に「やっぱり私はダメだ。こんなこともできない。また同じことを繰り返している。私はクリスチャン失格だ。」という声が聞こえてくるかもしれません。自分はふさわしくないと感じたり、他の人と比較して妬んだり落ち込んだり、古い自分の姿に引きずられたり。
 それはサタンのウソです。
 神様は「あなたはわたしの愛する子」だと言ってくださる。
 私たちは皆、高価で尊い神様の傑作品。それぞれに固有の価値があり、他と比べるものではありません。
 そして古い私たちはキリストと共に死に、復活の主と共に新しい命に生かされているのです。
 偽りの声に惑わされず、私たちを本当に愛してくださっている方の声に耳を傾けてください。

 またある人は私たちの罪や過ちを指摘しながら「あなたのためを思って言ってあげているのよ。」と言ってきます。
 厳しいことを言うのも愛ですね。
 しかし「あなたのためを思って」というのは、「あなたは私の理想通りに動け」という思いの表れかもしれません。
 人を支配したいんですね。こういう人には要注意です。
 私たちは罪を犯すし間違えることもたくさんある。
 だからイエス・キリストが十字架で死んでくださいました。
 そのイエス様は復活し天に上げられ、神の右の座についています。
 そして手を上げ、私たちのために執り成し祝福してくださっています。
 イエス様を見上げるとき、私たちは栄光から栄光へとキリストの似姿に変えられていきます。

 このように三位一体の神様の愛の交わりの中で守られ生かされていることを感じます。
 その愛を受け、私たちは日々新しくされていきます。

圧倒的勝利者

 5つ目の質問。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」
 続けて6つ目の質問をします。「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」

神の愛がわからなくなる

 私たちは神様の愛の中で守られ、愛を受けて新しくされるとしても、その神様の愛がわからなくなることはあります。
 なぜこのような苦しみが起こるのか。神は愛だと言うが、なぜ世界はこんなに問題だらけなのか。
 ただクリスチャンだというだけの理由で迫害される地域があります。
 世界のごく一部の大富豪は宇宙旅行に行きますが、この地球上には食べるものがなく飢えに苦しむ何億という人間がいます。
 剣も危険ですが今はもっと恐ろしいミサイルという脅威があります。戦争によって街が破壊され住む場所を失い命の危機にさらされる人たちがいます。
 神の愛がわからなくなりそうです。

死刑宣告を受けている

ヤン・ファン・エイク「ヘントの祭壇画(神秘の子羊)」

 このような苦しみの世界の中で私たちはまるで死刑宣告を受けた死刑囚のよう。死と隣り合わせです。そこから逃れることはできません。
 パウロはこれを詩編44編23節を引用しながらこう表現します。
 「「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。」
 詩編44編は、神に見放されたかのような苦しい状況の中でつづられた詩です。
 心の中の罪まで神に探られるので、死刑宣告は避けられない。
 それでも神が立ち上がり勝利を与えてくださるとの信仰に立ちます。

神の子羊による勝利

 パウロもまた「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」と信仰を告白します。
 私たちを愛してくださる方。それは他でもない私たちの主イエス・キリスト。
 死刑宣告を受け屠られる羊のようだった罪人の私たちに代わって、罪なき神の独り子が十字架で死なれました。
 神の子羊の犠牲によって、私たちは救われました。
 罪との戦いにキリストは勝利し、サタンの頭を砕いたのです。
 そして罪の結果として私たちを支配して悩ましていた死の問題さえも、キリストは打ち破りました。
 他の日本語訳にはこうあります。

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

ローマ人への手紙8:37 新改訳2017

 私たちは圧倒的勝利者!

死さえもキリストの愛から引き離せなかった

 艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣。これらはパウロ自身が経験してきたことです。
 しかしそのどれもパウロをキリストの愛から引き離すことはできませんでした。
 たとえ死であってもキリストの愛から引き離すことはできないとパウロは知っています。
 なぜなら一人の殉教者をパウロは知っているからです。
 ステファノ。
 彼はパウロの目の前で石で打ち殺されながらも、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。」と告白しました。
 救い主キリストが今も手を上げ、私たちを祝福してくださっています。

キリストの愛からは引き離されない

 だからパウロはこう確信します。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

私たちがキリストの愛を手放してもイエス様は手放さない

 死の危険も命への執着も神の愛からは引き離せない。
 天使もこの世を支配する悪魔も、どんな霊的存在であっても神の愛からは引き離せない。
 目の前の問題も将来の不安も神の愛からは引き離せない。
 富や権力などこの世のどんな力も神の愛からは引き離せない。
 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も神の愛からは引き離せない。
 これらの誘惑の中で、私たちの方はイエス様から手を放してしまうことがあるかもしれません。
 生きようと願うあまりイエス様に従えない。
 目の前の問題や将来の不安が神を見えなくする。富が人生の主人になってしまう。
 人からの称賛あるいは惨めな状況の中で神を頼れなくなる。
 しかしイエス様は私たちを絶対に手放しません。ただ手をつないでいるのではなく、手くびをつかんでいる状態。だからイエス様が手放さないなら、私たちはキリストの愛から引き離されません。

キリストの手に刻まれた愛の刻印

 神様はこう約束しました。

15 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。16 見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。

イザヤ書49:15-16

 神の手には私たちの名が刻まれています。タトゥーのように彫り込まれ、消えることはありません。
 それはイエス様の手にも刻まれています。
 十字架の傷跡は復活しても消えませんでした。
 それは永遠に消えることのない愛の刻印。
 イエス様は今もその愛の手を伸ばしてくださっています。
 私たちも放してしまった手をもう一度握り返してください。
 そのとき私たちも確信し、宣言できます。

 死も、命も、
 天使も、支配するものも、
 現在のものも、未来のものも、
 力あるものも、
 高い所にいるものも、低い所にいるものも、
 他のどんな被造物も、
 わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、
 わたしたちを引き離すことはできないのです。

 

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