創世記40

笑いを与える神

創世記 21:1-8

1 主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、2 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。3 アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、4 神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。5 息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。6 サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」7 サラはまた言った。「誰がアブラハムに言いえたでしょう/サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました/年老いた夫のために。」8 やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。

緊張の緩和

 落語家の2代目桂枝雀は、笑いの根底には「緊張の緩和」があると言いました。
 たとえば赤ちゃんに「いないいないばあ」とやると笑います。「いないいない」の時に親が顔を隠す。赤ちゃんにとっては、自分に安心感を与えてくれる存在がいなくなったように思う。緊張があります。そこで「ばあ」と言って親の笑顔が見える。緊張は緩和され、赤ちゃんも自然に笑顔になります。これは生理的な笑いです。
 知的な笑いというのもあります。頭で考えて普通じゃないことは緊張を生みます。いきなり虹色のアフロヘアの人が現れたら「ヤバイ人じゃないか」と緊張しますが、その人がどんな人かわかると安心して「おかしな人だな」と笑えます。
 他人のちょっとした困りごとは情的な笑いを生みます。ドッキリに引っかかった人を見て「あらあら、大変」と笑います。行き過ぎると笑い事ではなくなりますが。
 社会的・道徳的な笑いというものもあります。社会の中で大きな声では言えないこと、やってはいけないことがあります。その緊張を破ると笑えてきます。
 私はエゼキエル書が大好きです。特に人糞でパンを焼けと言われる場面。

人糞とは?

うんこです。

こういう下ネタとか好きでしょ。
 これも限度を超えると引いてしまうだけです。

 と、お笑いの理論について語りましたが、今は聖書からのメッセージの時間ですね。
 聖書と無関係なことを話し過ぎました。気を取り直して。

メッセージ~大事~。
聖書の~最初~
創世記 大好き。

神から来る喜び

 いきなりのナンセンスなラップにお付き合いくださりありがとうオリゴ糖。

 真面目に本題に入ります。
 今年に入ってから創世記の講解はアブラハムの話を中心に進めてきました。
 神様はアブラハムに土地、子孫、祝福の源という3つの約束を与えていました。
 特にアブラハムとサラにとって子孫の約束は重要でした。これがなかなか成し遂げられず長い年月が経っています。
 その間アブラハムは召し使いの1人を養子として跡を継がせようとしたり、不倫によってイシュマエルを生んだりしました。肉体は年老いてきて、サラは赤ちゃんを身ごもることができない体になっています。
 しかし主がアブラハムのテントを訪れ、「来年の今ごろ、サラには必ず男の子が生まれている。」と約束してくださいました。サラは、変なことを言う人だなと笑ってしまいました。
 その後アブラハムがサラを妹だと偽り、ゲラルの王アビメレクにサラを奪われるという事件もありました。

イサクの誕生

 この25年間、様々な困難がありました。
 本当に子どもが与えられるのか、神の約束は果たされるのかという緊張がありました。

 しかし主の約束は真実です。
 ついに主はサラを顧み、身ごもって男の子を産むようにしてくださいました。
 それはちょうど主がサラに約束してくださった1年後のことでした。
 アブラハムは17章で主から言われた通り、生まれた子にイサクという名を付けます。
 そして生後8日目に割礼を施しました。ついに約束の子が与えられ、神の言葉を現実として受け取ることになりました。
 長く続いた緊張がついに緩和され、アブラハムとサラは自然に笑顔になったことでしょう。
 もう不信仰の笑いではありません。喜びからくる笑いです。

神はわたしに笑いをお与えになった

 神から与えられたイサクという名は、「彼は笑う」という意味。
 イサクの存在が両親に笑いを与え、周りの人々にも笑いを広げていきます。
 サラもこう告白しています。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」
 ここまで「神が約束した通り」や「神が命じた通り」という表現が繰り返されています。
 この出来事は神がなさったこと。そしてこの笑いは神様から来る喜びなのだということが強調されています。

笑えない現実の中で神に目を向ける

 私たちは目の前の現実や置かれた状況に目を留めていると笑えません。
 目の前の問題ばかりを見たり、気落ちして下ばかり見ていたりすると、神様は見えません。
 また箴言には

心が喜びを抱くと体を健やかに保ち/霊が沈み込むと骨まで枯れる。

箴言17:22

とあります。
 現実の問題というものは私たちの心だけでなく、霊にも、肉体にも影響を与えます。心に喜びは無くなり、神を見失い、生きる活力が失われます。
 だから神様は私たちの心に喜びを与えたいと願っています。
 イエス様も、「喜びなさい。大いに喜びなさい。」と言っています。
 迫害にあったり悪口をあびせられたりするときにも幸いがあるのです。それは神に目を向けるときに与えられます。
 神様に注目するなら、現実がどんなに困難であってもその緊張は緩和され、笑いが与えられます。

喜びにあふれる

キリストは笑ったか

 そう言うイエス様はどんなに喜びにあふれていたことでしょうか。どれくらい笑ったのでしょう。
 ところが聖書のどこにも、イエス様が笑ったとは書いていません。
 群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている姿を見て深く憐れまれた。
 人々が子どもたちを連れて来たのを叱ったが、イエス様は弟子たちに憤られた。
 ラザロが死んだとき、マリアが泣いているのを見てイエス様も涙を流された。
 このような人間らしい感情表現が記録されています。
 しかし笑ったという記録はないのです。
 イエス様は笑わなかったのでしょうか。

 いいえ、私は逆だと思います。
 いつも喜んでいたから、いつも笑顔だったから、わざわざ書く必要がなかったのではないでしょうか。

 「メッシが自らドリブルしてゴールを決めた。」

 と言ったとき、これがサッカーの話であること、ドリブルは足でボールを蹴って運ぶこと、ゴールを決めるとはボールを相手のゴールエリアに入れることだとわかりますね。
 当たり前のことはわざわざ言わなくていいのです。

 イエス様がいつも群衆に笑顔で接し、子どもたちを笑顔で迎え、マルタとマリアの家族にほほえみを向けておられた。
 だからイエス様の笑顔は当たり前で、書き残す必要がない。
 逆にいつもと違う感情表現があったときには人々の記憶に残ります。

神は人に喜びを与えたい

 この考えでいくと、聖書が「喜びなさい」と繰り返し命じているのはなぜでしょうか。
 私たちがいつも喜んでいられるなら、わざわざ言う必要がありません。
 喜びなさいと言われるのは、私たちが喜べていないからです。私たちから喜びを奪い去るものがあるからです。
 人間は神の栄光をあらわし永遠に神を喜ぶことがおもな目的なのに、喜びがない。
 喜ぶべき人間が喜んでいない。それは神様にとっても悲しいことです。
 だから神に目を向けて喜ぶようにと命じています。

イサクの成長を期待し喜ぶ

 イサクは順調に育ち、3歳くらいになりました。当時はだいたいこれくらいで乳離れしたそうです。もう赤ちゃんではない。
 サラが母乳を飲ませたというのもすごいですね。神様の恵み。ここまで成長させてくださった神様への感謝があふれます。
 アブラハムは盛大なパーティーを開きました。

 しかしアブラハムの心には感謝ばかりではなかったと思います。
 ものすごい年の差があります。イサクが「アバ、遊ぼう」って言ってきた時にどこまで付き合っていられるか。
 この先イサクの成長をどこまで見届けられるか。
 イサクの次の世代にも神からの祝福を受け継がせることができるか。
 先のことを考えたら不安になります。

 それでもアブラハムは神を信頼し、喜ぶことができます。
 100歳になって神様が与えてくださった命ですから、どんなことがあっても神様が守ってくださる。
 その信仰をもって、息子イサクにほほえみを向けることができます。

思い煩いを神に打ち明け平和を得る

 皆さんも先のことを考えて不安になることがあるでしょう。
 そんな時でも神様に目を向けてください。
 パウロは自分自身が牢屋に入れられていながら、このように手紙で教えています。

4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

フィリピの信徒への手紙4:4-7

 私たちの喜ぶ姿が神の栄光になります。
 喜ぶ秘訣は、何でも神に打ち明けることです。あらゆる人知を超える神の平和によって心が守られます。
 究極の緊張の緩和です。

喜びにあふれるところに神の国が来る

 マザー・テレサは「いつもお互いに笑顔で会うことにしましょう。笑顔は愛の始まりですから。」と言いました。
 私たちが人と笑顔で接すること。そこから愛が表れていきます。
 人と会う前に笑顔の練習をしておいてください。

 昨日は名古屋でファミリースポーツフェスティバルがありました。色々な教会の人と協力して子どもたちが楽しめるイベントを無料で提供し、たくさんの笑顔が見られました。
 終わった後、このような感謝を分かち合ってくれました。
 来てくださった方の中に、学生時代には教会に行っていたけれど今は行っていないという方がいました。
 彼はこのイベントが教会の主催だと知って「これが教会ですか?」と驚きました。

 この言葉が答えです。
 私たちが神から来る喜びに満ちあふれるとき、そこに神の国が来ます。
 教会は難しい教えを勉強するところではないし、真面目なフリをして「感謝です」と作り笑いを浮かべるところでもない。
 神によって喜びがわき上がって来るところ。それが教会です。

 皆さんも日頃から楽しいこと考えてください。
 ジョイマン風のダジャレを考えてみてはいかがでしょうか。「梅雨 for you」とか。
 暑い夏にはこれくらいがちょうどいいかな。
 面白いのができたら教えてください。

 神様が笑いを与えてくださいます。神様を見上げ、神様に感謝しましょう。
 そのことに気づかせてくれたイサクさんにも感謝しなければいけませんね。いつか天国でお会いしたら感謝を伝えたいです。
 「イサクさんのおかげでいい作品ができました。」


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