創世記41
言葉にならない祈り
創世記 21:9-21, 25:12-18
21:9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、10 アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」11 このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。12 神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。13 しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」14 アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。15 革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、16 「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。18 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。20 神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。21 彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。
25:12 サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである。13 イシュマエルの息子たちの名前は、生まれた順に挙げれば、長男がネバヨト、次はケダル、アドベエル、ミブサム、14 ミシュマ、ドマ、マサ、15 ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。16 以上がイシュマエルの息子たちで、村落や宿営地に従って付けられた名前である。彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。17 イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。18 イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。
七夕の祈り
7月7日は七夕でした。
お店の中にも笹の葉が飾られ、願い事を書いた短冊がかけてありました。
子どもの字で「〇〇になりたい」「〇〇がほしい」と書いてあったり、大人の人で「〇〇に行きたい」「〇〇に会いたい」と書いてあったり。とてもきれいな字で「病気が治るように」と書いてあるものもありました。
七夕は日本中で一番祈りがささげられる日かもしれません。
調べてみると、元々は機織りが上手だった織姫にあやかって、物事の上達を祈ったのだそうです。
織姫さん結婚した後メロメロになって働かなくなっちゃったので、それを模範にするのはどうかと思いますが。
誰に向かって祈るかは大事ですね。
買い物の間に見かけた短冊を読みながら、私も心を合わせて主なる神様にお祈りさせていただきました。
主は聞いてくださいます。
ハガルとイシュマエルの追放
からかう
主なる神様はアブラハムとサラに約束の子イサクを与えてくださいました。何年も何十年も願ってきた祈りがついに叶えられました。
こうしてアブラハム、サラ、イサクはいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
…となればいいのですが、早速トラブルが起きます。
アブラハムには先に、女奴隷ハガルとの間にイシュマエルという息子がいました。
この子がイサクをからかっているのを、サラは見ました。
ここで「からかう」という表現は、笑うとか遊ぶといった意味の言葉が使われています。「彼は笑う」イサクの名前の由来にもなった単語です。イサクの存在によって周りの人も笑うようになる。
でも笑いの中には、いじわるな笑いというのもありますね。体型や見た目をバカにしたり、真面目にやって失敗した人を笑ったり。このような笑いに喜びはなく、笑われた人の尊厳を深く傷つけます。
この頃イサクくんは2~3歳。イシュマエルは16~17歳くらいだったと思われます。
イサクくんはまだ幼いので、よく転んで泥だらけになるし、ごはんをボロボロこぼすし、おもらしもする。臭いし汚いですよ。
それを見てイシュマエルは10代で調子に乗ってるので、「臭っ、汚ねっ」とからかう。といった感じでしょうか。
兄の苦悩
母親は違っても年の離れた兄弟ですから、弟に優しくしろよと言いたくなります。
私も10歳離れた妹がいます。もうかわいくてかわいくて、妹が小さい時は私もお世話してました。
でも兄として、妹の誕生を喜べない部分もありました。
妹が生まれる少し前ですが、学校から帰ったら家の中が模様替えされていました。赤ちゃんを迎える準備ですね。
おむつやミルクなど新しいものがある。
その代わりに無くなったものもある。
それはぼくたちのおもちゃ。
ガンプラとかスーパーボールとか赤ちゃんが口に入れたら危ないですからね。理解はできるんですよ。
でも大事にしていたものをある日突然奪われるというのは、30年経った今でも忘れられないショックな出来事でした。
イシュマエルとしては、それまで父アブラハムからの愛情を独り占めできたわけです。
それがイサクの誕生以降、明らかにアブラハムの関心はイサクにばかり注がれている。
こうした妬みの感情も、イサクへのからかいという行動に表れていたのかもしれません。
肉の子が信仰の子を迫害する
イサクがからかわれているのを見て、サラはアブラハムに言いました。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」
ハガルとイシュマエルを「あの女とあの子」と言うところにサラの怒りが感じられますね。
前もサラがハガルを追い出させたことがありました。ハガルが妊娠して調子に乗った時です。あの時はブチ切れて衝動的に追い出してしまった感じがありました。
今回もブチ切れてはいますが、サラの発言には霊的真実も含まれています。
イシュマエルは奴隷の子で、人間の策略で生まれた子です。
イサクは自由な身分の子で、神の約束によって生まれた子です。
信仰なしに生まれましたイシュマエルは肉の子、信仰によって生まれたイサクは霊の子だと言えます。
私たちクリスチャンも信仰によって救われたのであり、霊の子です。
パウロはこう言っています。
けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。
ガラテヤの信徒への手紙4:29
肉の子は霊の子を妬み、迫害する。
キリストによって与えられた自由を奪い、律法の奴隷、この世の奴隷にしようとするのです。
そのような声に惑わされてはいけません。
イサクもイシュマエルも神が守る
サラが言うことは正しい。
でもアブラハムは悩みます。
イシュマエルも自分の大事な息子。まだ10代の彼を家から出して、どうなるだろうか。今はアブラハムの保護があるが、家から出してしまえば彼らを守るものは何もない。
それに、イサクはまだ幼い。乳幼児の死亡率が高い時代。この子がちゃんと大人になれるかどうかわからない。
そんなアブラハムに主が言われます。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
神様は肉によって生まれたイシュマエルも自分の息子として扱い、祝福してくださる。
それに、子孫の約束はイサクに受け継がれると神が再度語ってくださった。
何があっても神様がイサクを守ってくださると確認しました。
子どもの泣き声を聞く神
信仰の父アブラハムは、信仰の確信を得たら行動が早いです。次の朝早くにハガルとイシュマエルを去らせました。
前回は何も持たせないで追い出しましたが、今回はパンと水を持たせてお別れしています。
前回は関係を壊すかたちになってしまいましたが、今回は円満な別れだと言っていいでしょう。
すべてを失ったハガル
それでもハガルにとってはつらい別れです。
奴隷から解放されたので自由になりました。どこへでも好きなところに羽ばたいて行ける。
しかし自由というのは安全が守られてこそ良いものですね。
鳥かごに入れられた鳥がかわいそうだからと逃がしてあげたらどうなりますか。
カラスにやられて終わりです。
安全の保障なしに野放しにされることは、死を意味します。
何年も奴隷として仕えてきたハガルには、もうアブラハムの家の外に頼れる人はいないし、行く当てもありません。
それでべエル・シェバの荒野をさまようことになります。
とうとうパンを食べ尽くし、飲み水も無くなってしまいました。
後は死ぬのを待つだけです。
やせ細ったイシュマエルを茂みの下に寝かせ、少し離れたところに座り込みました。
そして悲しみのあまり、声を上げて泣きます。
もうほとんど水を飲んでいないのに、目から水が流れ落ちる。
貴重な水分が失われないように、空を仰ぎながら泣きます。
神はイシュマエルの泣き声を聞かれた
すると天から声が聞こえました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。」
ああ、神様は見守っていてくださった。イシュマエルがお腹にいた時にも神様は見てくださっていた。そうだ、主はエル・ロイ(見える神)だ。
そしてイシュマエル(神は聞いた)という名の通り、主はイシュマエルの泣き声を聞いてくださった。

ハガルが声を上げて泣いていたわけですが、神様はイシュマエルの泣き声を聞かれたのですね。
子供の声を聞かれた。もう祈りにはならないですね。どう祈ったらいいかわからない。祈る気すら起こらない。祈り方もわからなかったかもしれない。
でもそんな言葉にならない祈りを神様は聞いてくださる。
特に子どもたちの祈りを神様は聞いてくださる。
神様は幼いサムエルに語りかけました。
一緒に天幕にいた祭司エリに神の声は聞こえませんでしたが、サムエルは神様とお話しできました。
神様が子どもたちに特別に語りかける声があり、神様は子どもたちの声を聞いてくださいます。
神様と語り合う
祈りは神様とお話しすることです。
皆さんもぜひ神様とお話ししてみてください。
「〇〇になりたい」「〇〇がほしい」「〇〇に行きたい」「〇〇に会いたい」「病気が治るように」このような願いを話すのもいいです。神様にはそれを叶える力があります。
しかし誰かと話すとき、自分の願いばかり話す人がいたらどうですか。
イヤですよね。
願い事聞いてあげてるんだからちょっとは感謝してほしいな。
ちょっと関係がギクシャクしちゃう。だから「ごめんね」と謝って仲直りもしたい。
それよりもっと日常の些細な話をしたいじゃないですか。
最近こんなことがあったんだよとか、この先どんなことが楽しみだとか。
そんなどうでもいい話ができる関係だからこそ、大事なことをお願いできるし、不安や恐れを吐き出せるし、心に秘めた汚い部分も見せられます。
だから神様に日常の些細なことでもお話してください。
でも私たちは時に、話す気力さえ失うことがあります。
あまりの悲しみに、声を出せない。
大きな不安に襲われ、何と言っていいかわからない。
あるいはこの世の中で奴隷のように抑えつけられ、話す力を奪われている。
そんな時でも、神様は私たちの思いを知っています。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。
詩編139:4
神様は話す前から知っている。
その上で「どうしたいのか」「どうなりたいか」と聞いてくださる。
それは私たちと愛の関係を築きたいからです。
安心して神様に自分の思いを打ち明けてください。
祈りの中で気づかされる
聖霊の執り成し
祈りで大事なのは、神様に自分の願いを叶えさせることではありません。神様の御心が行われることです。
神様との関係の中で自分が変えられていくことを経験します。
そのために聖霊の助けが必要です。
聖霊様が私たちの祈りを助けてくださいます。
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
ローマの信徒への手紙8:26
この聖霊の働きによって私たちは、祈ったことが既に成し遂げられていることを知ります。
そして新しい希望をもって立ち上がります。
ハガルは誰も頼れず、行く当てもなく、パンも水もなく、ただ空を仰いで泣くことしかできませんでした。
そんなハガルに神は答え、こう言います。「立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
誰も頼れる人がいない。
しかし主が共にいる。
どこに行ったらいいかわからない。
ハガルが行く場所はただ一つ。泣いている息子を抱きしめてやれ。
そこで立ち上がったハガルは見つけます。べエル・シェバの井戸を。
空っぽになった革袋に再び水を満たすことができる。
空っぽになった心に神の恵みが注がれます。
神はイシュマエルにも共にいてくださる
その後イシュマエルは立派に成長し、荒野で弓を射る者になりました。
ハガルは故郷エジプトからお嫁さんを迎えます。
12人の息子が生まれ、その息子たちもそれぞれが部族を形成するほどに大きくなっていきました。
そしてイシュマエルは137歳まで生きます。
生まれる前から危機があり10代の時に死の寸前まで行った。そんな彼が137歳まで生かされる。
それは神が共におられたからです。
肉によって生まれたイシュマエルでしたが、神が見捨てることはありませんでした。
アブラハムの家を立ち去ることは大きな悲しみでした。
しかしそのおかげでイシュマエルは荒野で大きな国民を築くことができました。
いずれは去るべきだった。
それにはふさわしいタイミングがありました。
神様の一番良いタイミングがあるのです。
祈りの中で私たちは、神様の最善が最もふさわしい時に成し遂げられることを知ります。
ただ、10代の大事な時期に父親から引き離され荒野で戦わざるを得ない状態になったことはイシュマエルに大きな傷になったはずです。
安心して帰れる家はなく、支えてくれる父親もいない。
それでイシュマエルは野生のロバのようにいつも戦闘モードで生きることになります。
それが子どもたちにも受け継がれ、息子たちは互いに敵対するようになりました。
16章12節を見ると、それも含めて神の計画通りだったことがわかります。
私たちの人生のすべてにおいてインマヌエルの神が共にいてくださいます。
小川のほとりでも人ごみの中でも、荒野でも。広い世界のどこにいても神は私たちの祈りを聞いてくださいます。
祈る力さえ起きない時でも神様は私たちのことを知っていて、言葉にならない祈りを受け止めてくださいます。
だから空を仰いで神様に語りかけてみてください。そうしたらわかります。
神様は今も私たちを見守り、祈りを聞いてくださるお方であると。


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