創世記34

天使をもてなす

創世記 18:1-15

1 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、3 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。4 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。5 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」6 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」7 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。8 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、10 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。11 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

人々に仕えることでキリストに仕えた人

 昔々、ローマ帝国のある町にレプロブスという人が住んでいました。
 キリスト教に改宗した彼は、イエス・キリストに仕えることを決意しました。
 隠者に相談すると、人々に仕えなさいと勧められました。そして隠者は流れの急な川を示し、その川を渡る人々を助けてはどうかと提案しました。
 レプロブスは彼の言う通りにし、川を渡る人々を無償で助けました。

ヒエロニムス・ボス「聖クリストフォロス」

 ある日、小さな男の子が川を渡りたいと言ってきました。レプロブスは快く引き受けて男の子を背負って川を渡り始めます。
 ところが川の中を進んでいくと、男の子がどんどん重くなっていきます。
 大人よりはるかに重たくなり、レプロブスは倒れそうになりました。
 彼が男の子に名前を尋ねると「イエス」と答えました。
 そう、レプロブスが背負ったのはイエス・キリストだったのです。その重さは、全世界の人々の罪の重みでした。
 川を渡りきるとイエス・キリストはレプロブスを祝福し、彼にクリストフォロス(クリストファー)という名前を与えます。「キリストを背負った者」という意味です。
 クリストフォロスは見ず知らずの旅人を助ける中で、キリストに仕え、その愛を人々に伝える者になったのです。

アブラハムのもてなし

 先週はアブラハムが割礼を受ける場面を見ました。
 その日、神はサラに男の子が産まれると予告していました。これを聞いたアブラハムは、どうやってそんなことが起こるのだろうと不思議に思い、笑いました。
 人には理解できなくても、全能の神は命を与えることができます。
 アブラハムは神を信じ、一族そろって割礼を受けました。
 私は割礼を受けたことがないので完全に想像ですが、滅茶苦茶痛いはずです。数日間は全く動けなかったでしょうね。

見知らぬ旅人をもてなす

 それからしばらく経って、割礼の傷は癒えてまた動けるようになってきました。
 その日は天気が良く、午前中からとても暑くなりました。アブラハムは自分の天幕の入口に座っています。
 昼になり、そろそろ食事にしようかと目を上げると、アブラハムの目の前に3人の人が立っていました。見知らぬ人です。
 皆さんだったらどうしますか。とりあえず挨拶をして、「何か御用ですか?」「どちら様ですか?」と自分と関りがある人なのか確かめるのではないでしょうか。
 アブラハムは意外な行動に出ます。走り出し、地面にひれ伏したのです。99歳のおじいちゃんが。族長という身分の高い人が。割礼を受けたばかりで痛みがあるだろうに。
 そしてこう言います。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」
 見知らぬ旅人を客として迎え、足を洗い、木陰で食事をしていってくださいと言うのです。
 それに対し旅人たちは「では、お言葉どおりにしましょう。」と当然のようにアブラハムの申し出を受けます。
 ヘブライ人は家畜を飼って旅をする遊牧民でしたから、自分たちが旅人になることもよくあるわけです。それで旅人をもてなす文化がありました。
 それにしてもアブラハムのもてなしは破格です。
 お昼時ですから、既に昼食の準備ができていたかもしれません。それとは別に、サラにパン菓子を作らせます。指示した量は小麦粉3セア。1セアが約7.3ℓなので、22ℓくらいになります。22ℓの小麦粉で一体何人分のパンを焼くというのでしょう。食パン1斤で0.5ℓの小麦粉を使うとすると、44斤焼けます。明らかに3人が食べる量ではありません。
 それからアブラハムは牛の群れのところに行きました。その中から柔らかくておいしそうな子牛を選び、料理させました。
 そしてヨーグルト、ミルク、子牛の料理などをお客さんに提供します。
 彼らが食事をしている間、アブラハム自身がそばに立って給仕をしました。
 まるで王様に対するかのようなおもてなし。
 ここまで旅人たちは自分たちが何者であるのか、何をしにマムレの樫の木のところに来たのかなど情報を明かしていません。
 アブラハムはそれに構うことなく、彼らを重要なお客さんとして扱います。

見習うべき信仰の姿

 この18章は「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。」という一文で始まります。主がアブラハムに現れる話です。
 ところがまだ主は登場していない。現れたのは3人の旅人だけ。
 実はこの3人の内の1人が主なる神様であったということが後でわかります。残りの2人は天使でした。
 アブラハムはそうとは知らず、見ず知らずの旅人をもてなすことで主と天使をもてなしたのでした。
 神の民はこの信仰の父の行動を見習うように勧められています。
 それは新約時代の教会にも受け継がれています。

旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。

ヘブライ人への手紙13:2

神を愛することと人を愛することは不可分

 私たちの教会は「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する教会」になるというビジョンが与えられています。
 神を愛することと自分を愛することと隣人を愛することは別々の話ではなく、つながっています。
 目の前の人を愛することができない人は、目に見えない神を愛することなどできません。
 目の前の他者を愛する時、私たちは知らず知らずの内に神への愛を実践しています。
 その愛は、自分自身が神から遠く離れていた時に神から愛されていたというキリストの愛を受け取ることであふれ流れてきます。
 ですから私たちの教会も、初めて来てくださった方、遠くから来てくださった方、見ず知らずの困っている人に愛の手を差し伸べていきたいと願います。彼らは主が送ってくださった大切なお客さんです。

 皆さんの家庭にもお客さんが来ることがあるでしょう。
 皆さんの場合、見ず知らずの人が来ても家に上げちゃダメですよ。必ず用件と相手の身分を確認してくださいね。
 親戚や友だちなど、知っている人が来たとしましょう。おもてなしチャンスです。
 彼らは天使ではなく人間ですね。
 それでも彼らに愛を実践してみてください。食事を提供したり、宿を貸したり、お土産を渡したり。自分のできる範囲で愛を実践していく。
 こうして私たちは神の民として成長していきます。

全能の神の力を体験する

男の子の誕生がサラに告げられる

 食事をしている間、旅人たちの内の1人がアブラハムに尋ねました。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
 なぜサラの名前を知っているのでしょう。
 まあ美しい女性ですからね。ファンも多いでしょう。彼らはサラに用があったのか。
 色々と気になりますが、アブラハムはただ「天幕の中にいます」と彼らの質問に答えます。
 すると彼らの内の1人が「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」と言います。
 同じような話を数日前にも聞きました。割礼を受けたあの日、主がアブラハムに語られたことです。
 どうやらこの3人は天からの使いのようだとアブラハムも気づいたはず。
 しかし数日前に聞いて信じた話をもう一度聞かされる理由がありません。
 これはアブラハムに対してではなく、天幕の後ろで聞いていたサラに対する言葉でした。

 サラが男の子の誕生を告げられるのは、これが初めてではなかったでしょう。
 アブラハムからも聞かされていたはずです。
 ある日突然家中の男たちが割礼なる儀式を始めて数日間もだえているわけですから、何があったか当然聞きますよね。
 そこでサライからサラに名前が変わったこと、1年後にイサクという男の子を産むことになるということを聞いていたはずです。
 しかし彼女は信じませんでした。
 自分の体のことは自分がよく知っています。もう子どもは与えられないのです。そんなことはもう13年前に諦めていますから。自分が身ごもることも、自分がお腹を痛めて産んだ子を抱くことはもうないのだと。
 サラはひそかに笑いました。乾いた笑いです。声を出してはいないし、その顔を見ている人はいませんでした。

神に不可能はない

 ところが旅人の1人がこう言います。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
 誰にも見せなかったサラのひそかな笑いを見抜いている。
 声には出さなかったサラの思いを聞き取っている。
 これでアブラハムは確信しました。この方は主ご自身だ。

 主が言われる通り、全能の神に不可能はありません。
 主が命を与えてくださいます。
 神にできないことは何一つない。
 神様の目から隠れることのできるものは何もありません。ひそかな笑いも見ておられる。孤独に悩む人、人々から見捨てられたような小さな者にも神は目を留めておられる。
 神様の耳が拾うことのできない声はありません。奥まった部屋でつぶやくような祈りも天の父は聞いている。声に出さなくても、表現できない声なき声にも神は耳を傾けている。
 神様の手が届かないところはありません。垂幕で隔てられていても神がその力強い御手で支えていてくださる。失われた1人を探して救うように、主は捕らわれた人に救いの手を差し伸べておられる。
 神様が足を踏み入れることのできない場所はありません。私たちがどこにいても、インマヌエルの神は共におられる。人生のどん底のさらに底、枯れた骨の谷でも神は生きて働く。
 なぜなら私たちの主イエス・キリストは十字架で死んで墓に葬られ、復活されたからです。
 最も低く暗く冷たく寂しいところにも、キリストは共にいる。
 主に不可能なことはありません。

主が私たちの前を通り過ぎていく

 皆さんもこのような全能の神の力を体験したいですか。
 アブラハムにとって、この主なる神様との出会いは必然だったのでしょうか。
 主と2人の天使が地上に来た目的地は、ヘブロンではなくさらにその先にありました。ソドムとゴモラの様子を見るために来たのです。
 その途中でアブラハムの天幕の前を通った。それをアブラハムが主と天使とは知らずに呼び止め、この出来事が起こりました。

 こういうことは私たちの人生にも起こります。
 主が私たちの前を通り過ぎていく。私たちに会うためではなく、別の目的を持って道を進んで行かれる。
 そうとは知らず目の前の小さな者の1人に愛の手を差し伸べるとき、見知らぬ旅人を「どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。」ともてなすとき、主をもてなしているかもしれない。
 そして主の恵みをいただくことになります。

『そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

マタイによる福音書25:40

 目の前の人に愛を表すなら、イエス様はそれをご自分への愛のわざとして受け取ってくださいます。

 恵みの機会はいつやってくるかわかりません。
 それをつかむ一つの方法は、旅人をもてなすことです。
 神様からいただいた愛に応え、人々への愛を実践する。
 その時、全能の神の力を体験します。


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