創世記43
全焼の献げ物とせよ
創世記 22:1-8
1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
父を信じ身を預ける
先週の月曜日は川遊びに行きました。
行くのが青年だけになったので、予定していた小川ではなく、深みのあるところに行きました。大人でも足がつかないくらいです。
そこに若い夫婦と子どもたちが遊びに来ていました。
お父さんが先に深いところに入り、顔だけ出して子どもたちを招きます。
ちゃんと浮き輪をつけているので安心です。
でも怖いですよね。
子どもが「こわーい」と言うとお父さんは「怖かねえよ!」と怖い声で言いました。
そこはもっと優しく子どもたちの素直な感情を受け取ってあげたらいいのになと思いつつ、見守っていました。
するとやがてお姉さんがお父さんの手につかまって深いところへ。それを見て妹もお父さんの方に進んで行きました。
お父さんを信じてるんですね。
その後、ぷかぷかと浮かんで楽しそうに遊んでいるようでした。
わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
今年はこの御言葉を年間聖句にかかげてきました。
振り返ってみれば、神様はいつも良いお方であった。
だから父なる神様を信頼し、主を喜ぶことができます。
神はいつも良いお方か
アブラハムの生涯を見てもそうです。神様はいつも良いお方。
約束に応え、イサクを与えてくださった。
ハガルとイシュマエルとの悲しい別れがありましたが、神様が守ってくださると信じて次の朝早くに彼らを送り出しました。
井戸を巡る争いがあったときには慈しみをもって対応しました。神の慈しみがアブラハムの心に注がれていたからです。
振り返れば、主はいつも良いお方。これからも変わることはない。
べエル・シェバで安定した生活を送りながら、アブラハムはそう確信していたでしょう。
そんな信仰の父の背中を見ながら、イサクも大きくなりました。
イサクをささげよ
イサクが何歳頃のことかはっきり書かれていませんが、荷物を背負って山を登れるくらいの体格で、まだ子ども。小学校高学年から中学生くらいでしょうか。
神様がアブラハムに語りかけます。
「アブラハムよ」
「はい」
これまで神の言葉が語られるとき、このような呼びかけは記録されていませんでした。
ここでは神が呼びかけ、アブラハムが応答するところから始まります。
緊張感が感じられます。
そして神は驚くべきことを命じます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」
イサクと共に信仰の旅に出なさいと言うわけですね。
今回は行き先も示してくれている。
モリヤか、だいたい3日くらいの道のりだ。イサクはまだ少年だし、自分も年をとった。これくらいの旅がちょうどいいだろう。
神様はいつも良いお方。ちょうどいい難易度の試練を与えてくださる。
しかし神の命令はそれだけではありません。「わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
彼を、イサクを、焼き尽くす献げ物として、ささげなさい?
…ちょっと何言ってるかわからないんですが。
焼き尽くす献げ物というのは、生きている動物を祭壇のところに引いていき、その頭に人の手を乗せます。こうして人の罪を背負った動物は刃物で首を斬られ、その血で罪から清める儀式が行われます。
そしてバラバラに分割され、火のついた祭壇の上で焼き尽くされます。
立ち昇る煙は神の怒りを宥めます。
ささげられる動物は、ささげた本人の身代わりです。身代わりの動物が焼き尽くされることで、ささげた本人の神への全面的な献身を表します。
記録としては、ノアの時代には既に焼き尽くす献げ物がささげられています。アブラハムも焼き尽くす献げ物が何かは知っています。
知っているからこそ、わかりません。
犠牲にするのは動物ですよ。人の罪を取り除くために、動物が犠牲になります。
人をささげちゃダメでしょ。
レビ記20章などを見たら、神が人身御供を憎んでいることは明らかです。
それなのに人を、子どもをいけにえとして要求するんですか。
しかもイサクを?
神様は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク」と言いました。アブラハムがイサクをかけがえのない息子として愛していることを知っていますよね。
だって神様が与えた息子ですよ。約束の地が与えられ、大いなる国民の父になり、世界の祝福の源になる。この神の約束は、信仰によって生まれたイサクに受け継がれるはずだったじゃないですか。
だいぶ大きくなって、親子で一緒にできることも増えてきた。モリヤまで親子で旅をしながら、川で遊んだり釣りをしたり、テントを張ってたき火をして夜空を見上げたり、一緒に楽しみたいこと、息子のためにやってあげたいことがたくさんあった。自分がしてきた旅の中で神様からいただいた恵みを分かち合い、主はいつも良いお方だってイサクに伝えたかった。
でも何ですかこの仕打ちは。
あなたはいつも良いお方じゃないんですか。
99%は良い方のフリをしているけれど、最後の最後、1%は悪魔以下の残酷さを見せる方だったのですか。
神がこの悲惨な世界の黒幕なのか
皆さんもこのように思ったことはありませんか?神様は99%良いお方。でも1%は残酷だと。

私が子どものとき、ゲームボーイで「魔界塔士Sa・Ga」というゲームがありました。スクエニのサガシリーズの元になった伝説のゲームです。めちゃくちゃ面白かったです。
塔を登りながら、玄武、青龍、白虎、朱雀という四天王を倒していきます。そして最後にアシュラというボスを倒すという流れです。
その行く先々でシルクハットの男が現れ、手助けしてくれます。
いい人だなと思っていると、実は彼がこの世界を造った神だということがわかります。
そして世界に混乱をもたらしアシュラや四天王を送り込んだのも神の仕業だということが明らかにされます。
余興として人々を苦しめていた。そんな残忍な神をラスボスとして倒すことになります。
やはり神は強いんですが、ある道具を使うとあっけなく倒せるという裏技があって…。
語り出すとキリがないですが、この世界を造られた神も同じじゃないかと。
神はなぜ理不尽な苦しみを与えられるのか。悪を放っておくのか。
神が愛だなんてウソなのではないか。
普段は良いお方ぶってるけど、神は人間が苦しんでいるのを見てほくそ笑んでるんじゃないかと。
私たちもラスボスとして神をぶった切らないといけないのでしょうか。
100%の信頼で神に従う
アブラハムは次の朝早く準備をして出発します。
イサクをささげることに抵抗はなかったのでしょうか。
いいえ、愛する独り子イサクをささげよと言われて苦しまないはずがありません。
それでも従うことができたのは、神を100%信頼していたからです。
1%でも疑いが残っていたら出発できません。
社会通念とかこの世の常識では、息子をささげるなんてありえないことです。そういったこの世の考えを捨てなければなりません。
自分の感情としては従いたくないでしょうあまりにもつらく、悲しい。神への怒りもわいてくる。そういった感情に支配されないよう、神にぶつけてしまう。
思い描いた将来の計画もあったでしょう。それよりも今神がなそうとしておられる計画を優先する。
これが神がアブラハムに与えた試練でした。
残り1%の疑いを捨てて従って来れるかと、神が招いています。
イエス・キリストも十字架を前にして、正直な思いを打ち明けました。そして最後は100%の信頼で神に委ねきります。
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
マルコによる福音書14:36
生けるいけにえとして献げきる
べエル・シェバからモリヤまで3日の道のりでした。
3日間、どのような思いで歩いたのでしょう。
息子はまだ生きていますが、もうすぐ死ななければならない。自分が手を下さないといけない。イサクはもう死んでいるようなものです。
アブラハム自身も生きた心地がしなかったでしょう。死に向かう旅です。
それでもアブラハムは引き返すことも立ち止まることもなく、モリヤに向かいます。
ただ神を信じて進んで行きます。
その苦しむ背中をイサクは見ました。
悩みながらも神を信じることを選び取った父の背中を見ていました。
We’ll be back
モリヤの地が近づいたときにアブラハムは若者たちをそこに残します。そして彼らに「わたしと息子はまた戻ってくる」と約束しました。
この言葉はただ気休めではありません。
確信をもった宣言です。
神は命を与える方だからです。
そもそもイサクは生まれるはずがなかった。100歳の自分と90歳のサラ。赤ちゃんを身ごもる機能は死んでいる。その死んだような者に、神は命を与えてくださった。それが神。
今イサクも死にかけている。
神はこのイサクに、もう一度命を与えることがおできになる。
その確信をもって「また戻ってくる」と宣言したのでしょう。
屠り場に引かれる小羊のよう
そこから先はアブラハムとイサクの2人で進みます。
焼き尽くす献げ物の儀式に必要な道具を手分けして持ちます。
イサクは薪を背負いました。
この薪の上でイサクは屠られ、焼き尽くされる予定です。
自分を死に至らせるための木を、イサクは自ら背負います。
そして自分の命を奪おうとするお父さんについて行きます。
まるで屠り場に引かれる小羊のように。
小羊は自分を殺そうとする飼い主に黙ってついて行きます。
それは、自分を愛してくれた飼い主を100%信頼しているからです。
イサクも自分を愛してくれるお父さんを100%信頼しています。お父さんへの疑いなど微塵もない。少年イサクの信仰が見えます。
この姿はイエス・キリストにも重なります。
イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
ヨハネによる福音書19:17
イエス・キリストは自分を死に至らせるための木を自ら背負います。
黙ってゴルゴタの丘に向かいます。
それは自分を愛してくれる天のお父さんへの100%の信頼があったからです。
きっと神が備えてくださる
それでも黙って歩き続けるのは気まずいですね。
イサクは前を歩くアブラハムに「わたしのお父さん」と呼びかけます。
アブラハムは「ここにいる。わたしの子よ」と答えます。
そこにいることは知っていますよ。目の前にいるんだから。
でもアブラハムがこう言ったのは、振り返らずに答えたからではないでしょうか。
振り返れないです。息子の顔を見ることができない。
くしゃくしゃになった自分の顔を、息子に見せることができない。
そんな父の背中に向かって、イサクは聞きます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
当然の疑問です。
そこでアブラハムは言います。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」
これから起こることをアブラハムも知りません。まだ見えていません。
しかしきっと神が備えてくださると信じています。
望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する。そんな信仰の告白です。
自分を焼き尽くす献げ物にする
私たちも100%の信頼で神に従うことが求められます。
私たちが神を100%信頼できないのは、まだ自分が生きているからです。
この世の価値観の中にある自分が生きている。
自分の感情が神に抵抗する。
自分の計画を手放せない。
そういう自分と神が衝突するので、神が間違っているという思いがわいてくる。
自分という存在はもちろん大事です。神様に造られたユニークな作品ですから。
自分の思い、感情、計画は基本的に良いものです。
しかし神の招きに抵抗して握りしめている自分は、神様に造られた本当の自分ではなく、自分の理想像という偶像です。
それを手放し、焼き尽くすことで神に従うことができます。
そうして自分を捨てて神に従うとき、神に造られた本当の自分の人生を生きられます。
そこで聖書は私たちに言います。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」
生きているいけにえですから、祭壇から降りることも可能です。
でも100%の信頼をもって、祭壇の上で焼き尽くされることを選び取ります。
それが私たちのなすべき礼拝。信仰者の生き方です
皆さんの一番大切なものは何ですか。
自分の命が大事だという人もいますね。
親にとっては、自分の命より子どもの命の方が大事かもしれません。
アブラハムにとっては、イサクが一番大切な存在でした。
それを焼き尽くす献げ物としてささげなさいと命じられました。
私たち一人ひとりにも神が招いています。あなたの一番大事なものを焼き尽くす献げ物にしなさいと。
そうして自分が死ぬとき、私たちは100%の信頼をもって神に従います。
そこから、神に造られた本当の自分の人生が始まります。


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