創世記44

独り子を与える程の愛

創世記 22:9-13

9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

行いによって完成する信仰

 神はアブラハムに「愛する独り子イサクをモリヤ山で焼き尽くす献げ物にしなさい」と命じました。神は本当に良いお方なのだろうかと疑いたくなるような命令ですが、アブラハムは100%の信頼で神に従います。犠牲の小羊はきっと神が備えてくださると信じて。
 信じて祈る人は、小さな変化を見逃しません。
 預言者エリヤは海のかなたから上ってくる手ほどの雲を、神様の答えとして受け取りました。
 アブラハムも注意深く、神様の答えを探し求めたでしょう。
 愛する独り子イサクをささげよとはどういうことか。
 犠牲の小羊は備えられているのだろうか。
 もしかしたら途中で羊が見つかるかもしれない。
 羊は普通、群れで行動する。こんなところに羊が一匹でいるのはおかしい。
 もしそんなことがあったら、それはまさしく神の恵みだ。

全き従順

 しかし結局羊は一匹も見つかりません。
 神が命じられた場所、モリヤ山に着いてしまいました。
 アブラハムはそこに祭壇を築きます。おそらく岩などを利用したのでしょう。
 イサクの背中から薪を下ろし、祭壇の上に並べます。
 次にいけにえを載せます。
 アブラハムはもう一度辺りを見回します。木の茂みや岩の陰に羊が隠れていないか。
 しかし姿は見えず気配も感じない。
 アブラハムは息子イサクの手足を縛ります。
 そして祭壇の上に載せました。
 イサクは抵抗しません。まだ少年とはいえ、相手は100歳上のおじいさん。少しでも抵抗すれば、振りほどいて逃げられますよ。しかし従順に従います。イサクも父の愛を100%信じています。
 それからアブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。
 アブラハムの動作が細かく描写されています。まるでスローモーションになったかのようです。緊迫した様子が伝わってきますね。
 利き手で刃物を持って振り上げる。
 反対の手はイサクを押さえる。声を出さないように口の辺りを覆ったと思います。
 顔はおそらくイサクの首を見ていた。
 でもずっと見ているのはつらい。目を閉じ、覚悟を決める。そんな場面が想像されます。

行いを伴う信仰

 もしアブラハムの心に1%でも疑いがあったらどうでしょう。
 ここまでできませんよ。イサクを縛る前にちょっと待ってと言って周りの茂みを探したり、ふもとの村に行って羊を盗んだりしたでしょう。
 だって愛する独り子ですよ。自分の命より大切な存在です。
 それを焼き尽くす献げ物にするなんて正気じゃない。
 アブラハムを動かしているのは、疑いの入る余地のない100%の信仰です。
 そして信仰というのは、行いによって本物と証明されます。

21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

ヤコブの手紙2:21-23

 口先で神を信じますというのは簡単です。しかし行いが伴わないなら、その信仰は死んでいます。
 イエス様はからし種1粒ほどの信仰があれば山も動くと言いました。
 目の前に山があるからと立ちすくんでいませんか。
 荒れ狂う海のような状況にしり込みしていませんか。
 信じるなら神が山を動かしてくださる。
 神が招くなら水の上に道ができる。
 どんな大きな問題が目の前にあったとしても、自分の弱さに打ちひしがれることがあったとしても、信じて動き出してください。

神を信じ全力を尽くす

神の介入

レンブラント「アブラハムとイサク」

 そのとき天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけました。ここも緊迫した感じがあります。
 「その子に手を下すな。何もしてはならない。」
 「ちょっと待ったー!」と慌てて止めに入ったような感じもあります。
 ここには主の御使いが言ったとありますが、主なる神様ご自身の言葉ととらえていいです。
 神様も「マジか、アブラハム。そこまでやるか。」と驚いたかもしれません。

 「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 「今」ようやくわかったんですか。
 行き先もわからず旅に出た時点でアブラハムは信仰の人でしたし、星を見ながらアブラハムは神を信じ、神様はそれを義と認めてくださいました。
 アブラハムには以前から信仰がありましたが、独り子すら惜しまずささげる行動によって、その信仰が本物であることが証明されました。

神が求めているのは神と共に歩む人生そのもの

 やはり神様はイサクを献げ物として要求したわけではありませんでした。

6 何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。7 主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。8 人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。

ミカ書6:6-8

 神様は律法で動物の献げ物を要求していますが、動物の肉が欲しいわけではありません。献げ物の質も量も、それ自体はどうでもいい。
 まして人の子どもなんて神様が喜ぶはずがない。
 神様が求めているのは、神様を信じ、神と共に生きること。
 そしてその信仰が正義や慈しみといった具体的な行動で表れることです。

すべてが自分次第であるかのように行動し、すべてが神次第であるかのように信じなさい

 独り子をささげることを惜しまなかったアブラハムの生き方は、神への愛を表しています。
 100%の信仰をもって神に従ったアブラハムから、神への100%の愛が表れてきます。
 そしてその愛は人々の間でも具体的な行動で表れてきます。

 イエズス会の創設者イグナチオ・デ・ロヨラは「すべてが自分次第であるかのように行動し、すべてが神次第であるかのように信じなさい」と言いました。
 今目の前に任されていることに全力で打ち込む。
 独り子イサクを焼き尽くす献げ物にしなさいと命じたなら、全力でそうする。
 その心には神への信頼があります。
 全力で神を愛し、全力で人を愛するのです。

 神様が何とかしてくれるという神頼みの姿勢は、信仰があるようで不信仰です。
 具体的な行動に表れないからです。
 神が雨を降らせてくれると信じるなら、何もしないで待つのではなく、雨に備えるのです。
 神が地の果ての民を救ってくれると信じるなら、そこに福音を伝えるために動くのです。
 こうしてイグナチオ・デ・ロヨラと共にイエズス会を創設したフランシスコ・ザビエルは東の果ての日本まで来て宣教をしました。
 神を信じつつ、目の前の任されたことに全力を尽くしてください。

神が与えた犠牲によって命を得る

犠牲の羊

 アブラハムは振り上げた手を下ろします。
 イサクを押さえていた手も放す。
 一呼吸おいて、顔を上げる。
 そしたらガサガサという音が聞こえてきます。
 目を凝らして辺りを見回すと、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。
 いつからそこにいたのでしょう。
 何もないところに動物が突然現れるはずがありません。前からこの付近にいたのです。
 しかし全く気付きませんでした。
 神様があらかじめ備えてくださっていました。今ようやく目が開かれて、見ることができました。
 アブラハムはこれを神様からの恵みとして受け取り、イサクの代わりに焼き尽くすいけにえとしてささげました。

死から命へ

 神に従って家を出たときからこの3日間、イサクは死んだも同然でした。
 しかし生かされました。
 死者の中から帰ってきたようなものです。

17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

ヘブライ人への手紙11:17-19

 アブラハムは、神が命を与えるお方であると信じていました。

独り子を与える程の神の愛

 神が与えた犠牲によって、人は命を得ます。
 アダムは罪を犯して死ぬべき存在になりました。しかし神はアダムに毛皮の服を与えました。アダムの罪を覆って生かすために動物が血を流し死んだのです。
 こうして人の罪を覆うために動物が血を流し死ぬという儀式が繰り返されてきました。
 その究極の形として、世の罪を取り除く神の小羊が血を流し死なれました。
 罪なき神の独り子イエス・キリストが、すべての罪人のために十字架で死なれたのです。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネによる福音書3:16
ファン・エイク兄弟「ヘントの祭壇画(神秘の子羊)」

 神はその独り子をお与えになりました。
 独り子をささげるというのは本当に残酷なことです。
 神がそうしたのは、私たちを罪から救う方法がそれしかなかったからです。
 私たちを生かすための、究極の愛だと言えます。

 独り子を与える程の神の愛。
 それほどまでに愛した世とは、あなたのことです。
 神様ご自身が、あなたに対して100%の愛を示してくださいました。
 この神の愛を受け、私たちも100%の愛で神様に応えていきたい。
 口先だけの愛ではない。具体的な方法で愛を表すのです。
 今目の前に与えられた人を愛する。そうして愛を実践していくとき、神への信仰、愛も本物だとわかります。


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