創世記52

運命にあらがう

創世記 25:19-26

19 アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。アブラハムにはイサクが生まれた。20 イサクは、リベカと結婚したとき四十歳であった。リベカは、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であった。21 イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。22 ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。23 主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」24 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。25 先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。26 その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。

祈り続ける

 イサクはアブラハムから財産を受け継ぎ、族長になりました。
 聖書の中でもアブラハムは表舞台から退き、イサクが主役です。
 しかし早くも次の世代が主役の座を狙って出てきます。

20年間の不妊

 今日の本文はイサクとリベカの間に子どもが産まれる場面。
 イサクは少年時代にモリヤ山で、主が父に約束された言葉を聞きました。「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。」
 リベカは嫁ぐとき、兄のラバンから祝福されました。「あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の城門を勝ち取るように。」
 神様がこの夫婦に多くの子や孫を与えようと願っておられることがわかります。
 さて、神様は彼らに何人の子を与えてくださったのでしょう。
 片手では収まらない。両手の指以上でしょうか。
 と思いきや、21節に「妻に子どもができなかった」とあります。20年近くです。
 おかしいですね。神様が子孫を与えると約束されたのに。
 イサクの両親もそうでした。アブラハムは75歳になるまで子どもが与えられる様子はなかった。それでもサラと寄り添い続けたので、納得していたのだと思います。子どもは与えられないんだと諦めていた。
 ところが75歳の時に、あなたを大いなる国民の父にすると神様が約束された。
 それから25年も待ちました。
 それに比べたら20年は短いです。
 でも長いですよね。20年前に子どもが生まれていたら、もう成人しちゃってます。アブラハムだったら養子を取ろうとしたり、他の奥さんを作ったりしますよ。
 しかしイサクはそんなことしません。一途にリベカを愛し続ける。
 かと言って、もう子どもは与えられないんだと諦めることもしませんでした。
 イサクは妻リベカのために祈りました。ずっと祈っていたと思います。
 この祈りを20年越しに主が聞いてくださり、リベカは身ごもりました。

あえて待たせることがある

 神様はイサクとリベカに子どもを与える計画を持っていました。
 それなのに20年も待たせました。
 何でそんな意地悪するの。
 リベカは高齢出産になって母子ともにリスクが大きくなります。
 イサクも大変。40歳でももう遅い方だけれど、60歳でお父さんに。子どもとお出かけしたら「おじいちゃん」って呼ばれてしまいます。
 そうやって年を重ねていく中で、妊娠の可能性は低くなっていきます。
 それでもリベカは身ごもった。
 そうすると、子どもというのはただ男女の関係でできるものではない。神様が与えてくださるのだと気付かされます。
 そして諦めずに祈り続けることの大切さを知ります。

運命だと言って諦めない

 皆さんは20年間、一つのことを祈り続けられますか。
 1年間だって祈り続けるのは難しいかもしれません。
 半年、一ヵ月、一週間…3日も続かないかもしれない。
 どこかで、祈っても何も変わらない。仕方がないという諦めがわいてきます。
 困っていた現状にも慣れてきて、このまま生きていくしかない。これが運命なのだと思うようになります。
 どうせ神様の御心だけが成るのです。すべてのことには神が定めた時がある。神のご意志の熟慮による永遠の決意ってやつ。だから人があがいても何にもならない。それを受け入れるのが信仰。
 そんな風に考えていませんか?
 そんなものは信仰ではありません。神について何も知らない人の態度です。

 ベトザタの池のそばに38年も病気で寝たきりの生活をしている人がいました。
 彼には信仰があります。
 池の水が動くのは天使が来たからだ。そこにいち早く飛び込んだ人は神の憐れみによって癒されるという信仰。
 そして自分は誰にも助けてもらえないから、癒されないんだという信仰です。
 彼のところにイエス様が来ました。イエス様は彼を見て、「良くなりたいか」と聞きます。
 良くなりたいに決まっています。
 しかし彼の心には諦めがある。この体はもう治らないのだと現状を受け入れている。
 そんな彼にイエス様は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と命じます。
 すると彼はすぐに良くなって、床を担いで歩きだしました。

 仕方ない、これが運命だと諦めることは信仰ではありません。
 もちろんすべての病気が癒されるわけではありません。病気になることも老いて体が衰えることも神様が恵みで与えてくださっています。
 しかし祈ることを止めないでください。
 つらい状況を諦めないでください。
 主の憐れみを求めて祈り続けるなら、神様の時に祈りの答えを受け取ります。

神の憐れみを求めて

 リベカは身ごもり、数ヶ月経ちました。
 お腹が大きくなってきます。赤ちゃんが動いているのも感じられます。元気に育っています。
 元気すぎて、お母さんのお腹を蹴ることもあります。
 「うっ、元気な赤ちゃんね。男の子かしら。」
 「うおっ、今度はこっち?」
 お腹の中の子は一人ではないようです。
 しかも互いに押し合っている感じがします。
 「これでは、わたしはどうなるのでしょう」
 心配するリベカにイサクは「大丈夫、なんとかなるよ。」と言った…かもしれません。イサクは忍耐強いですからね。
 でも活動的なリベカはじっとしていられません。なんとかなりそうにない苦しみの中にいるリベカは夫から離れ、主の御心を尋ねるために出かけていきました。
 このように祈りに専念するために一時的に距離を置くというのも、夫婦には大事です。もちろん相手のところに帰って来ることが前提ですよ。

兄が弟に仕えるようになる

 祈りの中で主がこう言いました。「二つの国民があなたの胎内に宿っており 二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる。」
 やっぱり双子なんだ。
 そして兄が弟に仕えるようになる…。
 リベカはこの主の約束を心に留めました。

エサウとヤコブ

 出産の時が来ると、まさしく双子でした。
 先に生まれた子は全身が赤く、毛深い子でした。生まれた時からフッサフサの赤ちゃんいますよね。それで毛皮を意味するセアルから、エサウという名を付けました。
 このお兄ちゃんを引っ張り出そうとしますが、なかなか出てこない。
 引っ張ってみると、もう一人の赤ちゃんがお兄ちゃんのかかとをつかんでいます。
 それで弟の方はかかとを意味するアケブからヤコブという名を付けました。
 毛皮が名前の由来っているのも失礼な感じがしますが、かかとって…。
 これには、神様がかかとのところにいてくださるように。つまりすぐ後ろで守ってくださるようにという願いが込められているそうです。

運命にあらがうヤコブ

 この時代は長男が他の子の2倍の財産を受け継ぐなどの特権がありました。
 特にアブラハム、イサクと続く神の祝福を誰が受け継ぐかという問題があります。通常は長男になるわけです。
 この生まれてくる順番というのはどうしようもないですね。長男になりたくて長男になれるわけではないし、長男になりたくなくてもなってしまったら仕方ない。そういうものだと受け入れるしかありません。まさに運命。
 ところがヤコブはこの運命にあらがいます。
 もちろんここではまだ赤ちゃんですから、そういう意志はなかったでしょう。触れたものをつかむただの反射。
 しかしこれはヤコブの今後の人生を象徴しています。預言者ホセアはこのように言いました。

ヤコブは母の胎にいたときから/兄のかかとをつかみ/力を尽くして神と争った。(ホセア書12:4)

 長子の権利を巡って争い、神の祝福を受けるために格闘するヤコブの人生は、お母さんのお腹の中から始まっていました。

私を憐れんでください

 バルティマイは生まれつき目が見えませんでした。そういうものだ。仕方ない。受け入れるしかありません。道端で物乞いをして何とか生きています。
 そんな彼の前をイエス様が通りかかりました。
 十字架の道に進むためにエルサレムに行こうとしているところ。堅い決意をもって前へ進むイエス様を呼び止めても無駄です。周りの人は叱って黙らせようとしてきます。
 それでもバルティマイは叫び続けます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」
 するとイエス様が立ち止まり、彼を呼びました。そして「何をしてほしいのか」と問います。
 そこでバルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いました。
 するとイエス様は彼の目を開いてくださいました。

神の祝福を求める

 私たちにはどうしようもない問題があります。
 生まれる順番は選べません。どの国、どの時代、どの両親の下に生まれるかも選べない。性別もそう。そこでもう遺伝的、経済的なスタートラインが違うわけです。
 社会的な身分で根強い差別がある地域もある。
 初期条件で生きやすさが全然違います。
 生まれついて身体的、知的な障害を抱えなければならない場合もある。
 そこで助けを求めるにしても運悪くタイミングが合わないこともある。
 これも運命的なものに支配されている感じがします。

 そんな運命にあらがってください。
 主の憐れみを求めて叫び続けてください。
 うるさい黙れ、これがお前の運命だ、諦めろ。そんな声がどここから聞こえてきます。
 それでもイエス様に叫び続けるのです。

 ヤコブは次男として生まれました。二番手。
 長子権や神の祝福は長男のもの。どうしようもありません。
 しかし主はヤコブに祝福を用意していました。「兄が弟に仕えるようになる」と生まれる前から予定していたのです。
 これは神の自由の選びによるもの。人の意志や努力と関係なく、神の憐れみが注がれています。

 神様には計画があります。人にはそれを変更させることはできません。
 かといってそれを運命だと諦める必要はありません。
 神が願っているのは、私たちが神の計画に共に参加することです。
 それで「良くなりたいか?」「何をしてほしいのか?」と聞いてくださる。私たちの意志を尊重し、神の計画を体験するよう招いてくださる。
 祈りで応答するなら、主の憐れみと祝福を体験します。
 祝福してくださるまでは離さない。
 そのように神様の祝福を求め、運命にあらがっていってください。

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