十戒2 救いの神との約束

十戒2

救いの神との約束

出エジプト記 20:2

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

時代が変わっても変わらない約束

 世の中には、なぜこんなルールがあるのだろう?と思うような謎ルールがあります。
 特に学校の校則では、髪の毛や服装について細かすぎるルールが定められていることがあります。そのルールのために髪の毛を切ることを強要されたり、自分の髪質を証明する書類を書かされたり、わざわざ髪の毛を黒く染めたりする人もいます。
 なぜそこまでしなければならないのでしょう。その校則が決められた時には正当な理由があったと思いますが、時代の変化によってその意義が失われ、むしろ人権を侵害してしまうこともあります。
 そのような古いルールは見直されるべきです。

 十戒こそ古いルールですね。
 しかし十戒には、時代が変わっても変わらない意義があります。
 それは十戒が、人の決めたルールではなく、救いの神と結んだ約束だからです。

十戒を与えたのは神、主、救い主

 十戒の条文に入る前に、十戒を与えるのは誰かということが語られています。
 それは私たちの神、私たちの主、私たちの救い主です。

愛の神との約束だから守る

 まず、神は私たちの神です。
 見ず知らずの人から「これを守れ」と約束を押し付けられたら困りますね。「ここで商売するなら場所代を払え」と要求してくるヤクザのようです。
 十戒は見ず知らずの人に押し付けられた無理難題ではなく、愛の神との約束です。
 神は私たちに向かってこう呼びかけます。

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。

イザヤ書41:10

 すべてを治めている神様が私たちと共にいて助けてくれます。神様は天地創造の前から私たちを愛し、見守っています。
 私たちに十戒を守る力はありませんが、全能の神様がその手で支えてくれます。
 自らの足で歩き、高い壁を乗り越えようとする子どもを親は後ろで見守ります。その愛に支えられて子どもは新たな一歩を踏み出していきます。
 愛の神は私たちの成長を願い、背中を押してくれます。
 その愛に支えられ、私たちは十戒を守ろうとします。

主の権威ある命令だから従う

 次に、神は私たちの主です。
 私たちは権威に弱いです。
 子どもが訴える言葉は聞き流してしまうけれど、有名な人が言う言葉は信用してしまうということはないでしょうか。
 もちろん子どもの声にも耳を傾けるべきです。
 有名な人が言ったとしても、それが本当に正しいのか注意すべきです。
 権威ある方の正しい言葉なら、従うべきですね。
 それなら主なる神様の言葉にはなおさら従うべきです。

4 主の御言葉は正しく/御業はすべて真実。5 主は恵みの業と裁きを愛し/地は主の慈しみに満ちている。6 御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。

詩編33:4-6

 神の言葉はいつも正しく、その通り実現します。
 その神が命じた言葉ですから、主への畏れをもって十戒に従います。

奴隷ではなく神の民として生きる

 そして神は私たちの救い主です。
 私たちの行動は、自分を何者だと思っているかに左右されます。
 自分をみにくいアヒルの子だと思っていると、みにくいアヒルの子として生きます。みじめな扱いを受けても仕方ないと思い、自分なんていない方がいいとさえ思えてきます。
 しかし自分が白鳥だと知るとき、白鳥として優雅に生きられます。
 私たちも自分を無価値な存在だと思っていると、無価値なものとして生きます。
 自分を尊い者だと思えば尊い人生を生きます。

 イスラエルの民はかつてエジプトの奴隷でした。奴隷として主人の道具として扱われるのが当たり前だと思って生きてきました。
 主はそこから救い出しました。小羊の血によって死の災いを過越し、水の中を通ってエジプトから脱出しました。
 彼らはもう奴隷ではありません。過去は過ぎ去り、新しく生まれました。
 神の宝の民、祭司の王国、聖なる国民になったのです。
 だから神の民として生きよ、と神の民としての生き方を神は提示します。
 そうして与えられたのが十戒であり律法です。

 私たちもかつては罪の奴隷でした。罪の中に生きることが当たり前でした。奴隷のように、使い捨ての道具、社会の歯車として利用されても仕方がない。愛される資格などない。こんな自分なんていなくなってもいいと思わされてきました。
 主はそこから救い出しました。神の小羊、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちは新しく生まれました。もう罪の奴隷ではありません。過去は過ぎ去り、新しく生まれました。
 王の系統を引く祭司、聖なる国民、神の宝の民になったのです。

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

ローマの信徒への手紙6:4

 だから私たちは神の民としての新しい生き方をします。
 罪の奴隷としての古い自分は脱ぎ捨ててください。
 救われた者として、私たちは十戒の指し示す生き方をします。

救いの恵みで生き方が変わる

 十戒は救いの神との約束です。
 十戒を守る動機を間違えてはいけません。十戒は救いを勝ち取るための条件ではありません。十戒を守れなければ救いが取り消されるという禁止事項でもありません。
 しかし私たちは十戒のような律法を救いの条件にしてしまいます。
 イスラエルの民もそのように勘違いしてしまいました。

 このような間違った考えは教会の中にも入ってきます。
 救われるためには、まずクリスチャンらしく生きるべきだ。正しく清い人間になってから教会に来なさい。身だしなみを整えなさい。毎週日曜日に教会に来て礼拝を守りなさい。礼拝中は静かに座っていなければなりません。聖書を読み、祈り、献金をしなさい。それができたら教会のメンバーとして認めてあげます。
 そのような雰囲気を作っていませんか。

 私たちは誰も正しく生きられません。
 だから正しい生き方を救いの条件のように考えていると、何とかして正しく生きようと無理をすることになります。表向きはいつも感謝し喜んでいるように見えても、裏で人の悪口を言っているかもしれません。正しく生きられない部分をごまかすのです。
 そして正しく生きられない人を見つけては、聖書の言葉を使って裁きます。

 そもそもイスラエルの民は律法を守ったから神の民になったのでしょうか。
 いいえ、十戒が与えられたのは救われた後です。
 何の行いもなく、ただ恵みで救われました。
 私たちも十戒を守ること、正しく清い生き方をすることで救われるのではありません。
 私たちが罪人であったときにイエス・キリストが十字架で死んで救ってくれました。
 ただ恵みにより信仰によって救われたのです。

 あんな罪深い人が教会に来るなんて、と眉をひそめたくなるような人が教会に来るかもしれません。
 そのような人もイエス様が招いてくださった人です。
 自分だってそうだったではありませんか。正しく清い人間になったから教会に入れたという人はいないはずです。
 キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。私はその罪人の頭です。パウロでさえそう言っています。
 まずイエス様が招き、教会につながる(belong)。
 そして信じる(believe)。
 それから生き方(behave)が変えられていきます。
 この順番を間違えてはいけません。

 神が私たちの神、主、そして救い主であることを覚え、神の民として救いの神との約束を生きていきましょう。

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