命の主の喜び

エゼキエル書講解28

命の主の喜び

エゼキエル書 18:21-32

21 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。22 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。23 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。24 しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。25 それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。26 正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。27 しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。29 それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。30 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

マフィアのボスの愛人が来て礼拝が喜びに満ちる

Sister Act

 『天使にラブソングを』(Sister Act)という映画は日本にゴスペルブームを起こしました。
 今でも教会には来なくてもゴスペルは好きという人が多くいます。
 YouTubeを見るとゴスペルの歌詞を日本語に翻訳したものも多くありますが、神の愛をただの男女の愛にしてしまっているとんでもない翻訳もたくさん見つかります。形だけ残ってしまっているのが残念です。
 この映画の魅力は歌だけではありません。放蕩息子のたとえのような聖書的なテーマがよく描かれている映画です。
 ナイトクラブで歌手をしていたデロリスは、マフィアのボスの愛人でもありました。
 ある日デロリスは、ボスが裏切り者を始末する現場を見てしまいます。そのためマフィアから命を狙われる身になってしまいました。
 警察にかくまわれた彼女は、ボスの裁判の日で重要参考人として証言しなければなりません。それまで身を隠すために送られたのは修道院でした。
 今まで悪の世界で生きてきた彼女にとって、修道院の生活は堅苦しくて退屈です。シスターらしい生活は全くできません。
 しかし聖歌隊の指揮者を任されたことで、その賜物を発揮し始めます。
 聖歌隊のメンバー自身も生き生きと喜んで賛美するようになりました。すると礼拝も活気が出てきて、街の若者たちも教会に来るようになりました。
 そのような様子を見て、修道院長は腹を立てます。ナイトクラブの歌手によって礼拝が乱され、不良青年たちが教会に来て雰囲気を悪くしていると感じたのです。
 それでもこの修道院の働きは注目を集め、アメリカ訪問中のローマ法王もミサに参加することになりました。
 ところがその前日に、テレビの報道を見ていたマフィアがこの修道院で歌っているのがデロリスだと気付いてしまいます。そしてデロリスはマフィアに誘拐されてしまいました。
 これでシスターたちにもデロリスの素性がバレてしまいます。それでもシスターたちは修道院を飛び出し、マフィアのアジトに乗り込んでデロリスを助け出します。
 ミサの当日にはローマ法王自身も手拍子をしながら、ノリノリで礼拝をささげていました。
 デロリスは罪の世界で生きてきた悪人です。命を狙われ、死ぬべき存在でした。そのような彼女が教会に来ることで、礼拝が喜びに満ちていく。その様子を見て、それまでずっと正しく生きてきた修道院長は怒ります。果たしてその怒りは正しいのか。神の御心は何か。このような放蕩息子的なテーマは聖書の中で繰り返し語られています。
 私たちはそこから、父なる神様はどのようなお方なのかを知るようになっていきます。

何が命の主の喜びか

 今日の本文は主が罪の責任について語っている場面です。
 主はご自身を命の主であると言い、正しい人は生き、悪人は死ぬと約束します。
 しかし悪人の子でも正しく生きれば命を得る。悪人として生きてきた人でも悔い改めれば命を得ると約束します。
 主は悪人が生きることを喜びます。
 ユダヤ人はこのような主に対し、「主の道は正しくない」と怒りました。
 果たしてその怒りは正しいのか。主の御心を聞く必要があります。
 主と共に歩むとき、私たちの人生は喜びに満ちたものになります。
 命の主が喜ばれることは何でしょうか。

悪人が生きることを喜ぶ神

 まず今日の本文の21節から23節で『21 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。22 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。23 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。』 とあります。
 命の主は悪人が生きることを喜びます。

死ぬべき悪人

 18章全体で主はご自身が命の主であり、何が喜びであるかを語っています。
 4節で『すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。』 と語り、全ての命は主のものであると宣言しています。
 主は正しい人は必ず生きると約束します。正しい人とは、主の掟を守る人です。
 逆に、掟を守らない悪人は死ななければなりません。
 ところで悪人に子どもがいて、その子が正しく生きたらどうなるのでしょうか。

 イスラエルにはこのようなことわざがありました。
 「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」
 つまり先祖がしたことの結果は子孫にも受け継がれる。先祖が罪を犯したために子孫が苦しむという教訓です。
 私たちが捕囚になったのは、マナセ王のような悪い王の時代に先祖が罪を犯したからだ。私たちがこんなに苦しまなければならないのは、アダム、あいつが罪を犯したからだ。この人の目が見えないのは誰が罪を犯したからなのか。本人か、それとも両親か。

 このような考え方は古代イスラエルだけではなく、私たちにもあります。
 日本には昔から差別を受けてきた部落がありました。犯罪のため、職業のため、病気のため、様々な理由がありますが、先祖のために差別を受けてきた人たちがいます。
 今では表面的にはほとんど見られませんが、部落出身ということで結婚や就職に影響することが時々あります。
 また在日韓国人、朝鮮人に対する差別も相変わらず続いています。
 まるで彼らの存在自体が悪であるかのように、露骨な差別をしたり、排除する運動をする人たちもいます。
 在日朝鮮人の子どもたちが通う朝鮮学校が全国にあります。この朝鮮学校は日本政府からの補助金が出ないため、日本で暮らす他の子どもたちと同じ水準の教育ができません。教育の機会均等は憲法で保障された権利です。同じ日本で暮らしていながら、親の国籍のために子どもの基本的な人権が奪われるということが公然と行われています。

主に立ち返れば生きる

 主はたとえ悪人の子でも正しく生きるなら、正しい人と同様に必ず生きると約束します。
 罪は個人的な問題なのです。
 先祖が罪を犯したから子孫がその責任を負わなければならないということはありません。先祖の罪は先祖のものです。
 言い換えると、子孫の罪は子孫のものです。先祖が罪を犯したから自分が苦しんでいるのではありません。
 自分の不幸は親のせいではありません。
 私たちが死ななければならないのはアダムのせいではなく、自分の罪のためなのです。
 だから私たちは自分の罪に対して責任を取らなければなりません。
 死ななければならないのです。

 しかし命の主の願いは、私たちが死ぬことではありません。
 『悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。』と約束しています。
 どんな悪人であっても、悔い改めれば生きると言います。
 仮に強盗や殺人のような犯罪を犯しても、人生の99%を悪人として生きてきて死の間際に悔い改めたとしても、その人は生きるのです。

独り子を与えるほどに願う

 これが命の主の喜びです。悪人が死ぬことは喜びではありません。悔い改めて生きることこそ喜びです。
 まだ生きている父から遺産を要求した上にそれを無駄遣いして使い果たしてしまうような放蕩息子でも、父は遠くから見つけて走り寄り、抱きしめ、口づけをし、指輪をはめ、小牛を屠って宴会を開きます。どんなひどい息子でも、「よく帰って来た」と受け入れるのです。
 事実、父なる神は私たちが生きるために最大の犠牲を払いました。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネによる福音書3:16

 神が愛された世とは、罪に汚れたこの世界、罪人である私たちです。
 私たちが悔い改めて生きることを願っています。
 だから私たちは罪を全く犯さない完全な人間になり、律法を守っていきましょう。ということでしょうか。
 残念ながらそれは不可能です。
 私たちに要求されているのはただ信じることです。
 放蕩息子も、よい行いをしたから子として受け入れられたのではありません。ただ心を変え、父の方に向き直っただけです。
 律法の要求は全てイエス・キリストが満たしてくださいました。十字架により、私たちの贖いは既に完全に成し遂げられたのです。
 だから私たちはただ、このイエスを主と信じるだけで救われるのです。これが主の御心です。
 命の主の喜びは、イエスを信じ救われることです。

主の道は正しくないのか

 また今日の本文の24節から29節に『24 しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。25 それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。26 正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。27 しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。29 それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。』 とあります。
 私たちは神の寛大さが気に入りません。

神の不公平

 悪人が生きることを喜ぶという主に対して、ユダヤ人の反応は『主の道は正しくない』でした。
 なぜ子は親の罪を背負わなくていいのか。なぜ悪人として生きてきた人が悔い改めて生きることができるのか。なぜただ信じるだけで救われるのか。
 この世界は因果応報の世界です。だから100%正しく生きた人には100%の祝福があり、1%だけ正しく生きた人には1%の祝福があればいいと思います。
 朝から夕方まで働いた人は夕方ちょっとだけ働いた人より何倍も多い給料を受け取るのが公平というものです。
 ところが神は、ずっと正しく生きてきた人と死の間際に悔い改めた人が受ける報いが同じだと言います。しかも99%正しく生きた人でも1%の罪のゆえに死ぬとも言っています。夕方だけ働いた人にも朝から働いた人と同じ1万円の給料を払ってしまうのが神なのです。
 これはこの世の原理からすると、全く不公平です。このような『主の道は正しくない』と思います。

聞けイスラエル

聖句の入った小箱などを身に着けて祈るイスラエルの兵士

 そこで主は、「聞け、イスラエルの家よ」と呼びかけています。この言葉はユダヤ人にとってとても意義深い言葉です。
 「聞け」はヘブライ語でシェマと言います。
 ユダヤ人はこのシェマ、あるいはシェマイスラエルと書かれた紙を家の門に付けたり、腕に結んだり、箱に入れて頭の上に載せたりしました。今でもユダヤ教徒はそうしています。
 シェマの頭文字ש(シン)をタトゥーとして腕に彫る人もいます。
 ユダヤ人はなぜこのシェマをそれほど大事にしているのでしょうか。それはこの言葉が最も重要な掟だからです。

4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

申命記6:4-5

 イエス・キリストもこれが最も重要な第一の掟であると言われました。
 主は今、このことを思い出させようとしています。
 先祖が救われたのは、彼らが正しかったからか。
 カデシュ・バルネアでイスラエルの第1世代は皆主を信じなかった。その不信の罪のゆえに第1世代は死んでしまった。しかしその子どもたちは死ななかったではないか。子は親の罪を背負わなくていいのだ。
 また荒野で不平不満を言ったとき、イスラエルの第2世代も死ぬべきだった。しかしモーセが木の上に架けた青銅の蛇を見上げれば、救われたではないか。
 よい行いで救われるのではない。必要な犠牲は私が払った。罪の呪いはもう木に架けられた。この贖い主を見上げよ。ただ信仰によって救われるのだ。
 このように愛を示してきたではないか。だからあなたは自分に向けられているこの愛を受け取りなさい。
 私はあなたに与えたのと同じ愛を、公平に全ての人に与えたいのだ。

自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

マタイによる福音書20:15

 神の公平さはここにあります。私たちの行いによる条件付きの愛ではなく、無条件の愛だということです。

御国の宴に招かれている

 放蕩息子の父はあまりに寛大な父でした。ろくでなしの息子を無条件に受け入れ、小牛を屠って宴会までする。
 その姿を見て兄は怒ります。自分はずっと父の家にいて正しく生きてきた。それなのに自分は子山羊1匹すらもらっていない。それで宴会に加わることを拒んでしまいます。
 果たして兄の怒りは正しいのでしょうか。
 この兄は自分が正しいと思って生きてきましたが、結果として父の心がわかっていません。

31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

ルカによる福音書15:31-32

 兄は既に、報いを充分に受けていたのです。
 父と共に生きている。その愛の交わりの中に既に入っている。子牛どころか、父のものは全部兄のものでもあるのです。
 しかしそれが見えていません。
 救われた私たちは神の寛大さを受け入れることができず、それを拒んでしまうことがあります。
 私のように正しい人間と、あいつのような汚れた人間が一緒にいるなんてありえない。私はあいつと違う。教会の交わりには加わりたくない。
 あるいは、信じるだけで救われるなどという都合のいい話はありえない。自分のような罪深い者が受け入れられるはずがない。自分の弱さ、足りなさ、汚さを見透かされたくない。もう教会には行きたくない。そのように反発してしまうことがあります。
 自分が正しいと思うことで、主の道は正しくないのだと怒ります。
 結果として主に背いてしまいます。
 主は放蕩息子の兄も共に、一緒に喜ぼうと招いています。
 父なる神は私たちに、父の愛を知り、一緒に喜ぼうと招いています。
 命の主の喜びは、私たちが神の無条件の愛をただ受け取ることです。

誰の死も喜ばない

 最後に今日の本文の30節から32節で『30 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。』 とあります。
 主は私たちと一緒に喜びたいお方です。

信仰の道を走り抜く

 私たちはこのように、自分の正しさのゆえに神に背くこともあります。
 行いによって神の好意を得ようとする律法主義は自然な考えであり、魅力的です。
 この世界はテストの点数や仕事の結果など、成績によって評価されます。自分の存在価値が数字で評価されます。
 だから神も私たちを見張り、よい行いをして点数を稼げば喜んでくれる。悪いことをしたら恐ろしいことが起こると考えてしまいます。
 しかし私たちの信仰生活というのは初めから終わりまで信仰です。
 霊によって始めたことを肉によって仕上げようとしてはいけません。

1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

ヘブライ人への手紙12:1-2

 信仰の創始者はイエス・キリスト。信仰の完成者もイエス・キリストなのです。
 だから律法主義という背きを投げ捨てて、走り抜くのです。

新しい霊によって

 この信仰は自分の努力で得られるものではありません。
 どうして罪人であった私たちが主に立ち返ることができるのか。
 聖書を読んだからか、祈ったからか、誰かが祈ってくれたからか。これでは結局、人の行いによって救いを勝ち取ったことになってしまいます。
 私たちの行いにそのような力はありません。自らの力で新しい心と新しい霊を造ることはできません。
 イエスを主と告白することさえ、聖霊によらなければできません。
 表面的な行いではなく、聖霊によって新しくされる必要があります。

生きよ

 もちろん行いが全く必要ではないということではありません。信仰は行動が伴います。
 よい行いによって信仰が成長するのではありません。神の愛を知ることで、その応答として行動が出てきます。
 それは神と共に生きることです。
 イギリスの牧師であったジョージ・ハーバートは「愛」という詩を残しています。

『“愛”が私をあたたかく招き入れてくださったのに、私の魂はしりぞいた。ちりと罪にまみれていたから。
 しかし敏い目をお持ちの”愛”は、私のためらいに気づかれた。私が戸口に入ったそのときから。
 私に近づき、優しくたずねてくださった。何か足りないものがあるのか、と。
 ここにふさわしい客人がいないのです、私は答えた。“愛”は言われた。おまえがその客なのだよ。
 薄情で恩知らずな私がですか?ああ、愛しい方よ。私にはあなたに目を向けることもできません。
 “愛”は私の手を取り、微笑みながらお答えになった。誰がその目を造ったのか、わたしではないか?
 そのとおりです、主よ。しかし私はそれを汚してしまいました。私は恥を受けるにふさわしい者です。
 おまえは知らないのか、”愛”は言われた。だれがその咎を負ったのかを。
 愛しい方よ、では私があなたにお仕えいたします。
 “愛”は言われた。おすわりなさい、そして私の食事を味わいなさい。
 そこで私はすわり、それをいただいた。』
"Love bade me welcome: yet my soul drew back, Guilty of dust and sin. 
But quick-ey’d Love, observing me grow slack From my first entrance in, 
Drew nearer to me, sweetly questioning If I lack’d anything.
A guest, I answer’d, worthy to be here: Love said, You shall be he. 
I the unkind, ungrateful? Ah, my dear, I cannot look on thee. 
Love took my hand, and smiling did reply, Who made the eyes but I? 
Truth, Lord, but I have marr’d them: let my shame Go where it doth deserve. 
And know you not, says Love, who bore the blame? 
My dear, then I will serve. 
You must sit down, says Love, and taste my meat: 
So I did sit and eat." (ジョージ・ハーバート「Love (III)」) 

 主は何を求めておられるのか。ただ一緒にいることです。
 殉教が最高の信仰とは言えません。主は誰の死をも喜ばないのです。
 繰り返し「生きよ」と言われる主は、私たちと共にいたいお方です。愛の交わりをしたいのです。
 御言葉と祈りで主と交わる。そして兄弟姉妹と共に礼拝をささげ、主の宴会に共に加わる。
 私たちがそのように命の喜びに満ち溢れて生きることを、命の主は喜びます。

 命の主の喜びは、私たちが生きることです。
 私たちが罪人であるにもかかわらず、神は独り子イエスを与えるほどに、私たちが生きることを願っておられます。
 イエス・キリストを信じて神の子とされた私たちはその父なる神の愛を受け、一緒に喜ぼうと招かれています。
 その招きに答え、兄弟姉妹と共に主の愛の交わりの中で、喜んで生きる私たちになることを願います。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください