詩編 126:1-6
1 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。2 そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。3 主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。4 主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。5 涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
子どもの健やかな成長を願う凧あげ
今日まで浜松まつりが開催されています。街なかでは御殿屋台の引き回し、ラッパを吹きながらの練りが行われています。海辺では凧あげが行われました。
この教会がある元浜町には、椿姫観音という御堂があります。
約450年前にこの地を治めた引間城の城主、飯尾連龍(いのおつらたつ)の妻 お田鶴の方がまつられています。
この夫婦に長男が生まれたときにそのお祝いとして凧をあげたことが、浜松まつりの凧あげの起源とする説があります。
子どもの誕生を祝いその健やかな成長を願う思いが、あの大凧に込められています。
今日5月5日はこどもの日ですね。一人一人の子どもたちがたくさん愛され、健やかに成長していくことを願います。
愛することに疲れてしまうこともある
親は子どもたちの幸せを願って、惜しみなく愛を注ぎますね。
子どもたちのために労苦し、時間を割き、お金を使う。自分のしたいことを後回しにし、子どものことを優先します。もちろん親も人間ですから、愛することができない時も多々ありますが。
こうして愛を注いだ子どもたちが、立派に成長し自立していってくれたら大きな喜びですね。
しかし子育ては簡単ではありません。こう育てればこう育つという公式は存在しません。
たくさん愛を注いだのに親を無視するようになり、子どものためにさせた塾や習い事も全く役に立たない可能性もあります。
割に合わないと思いますね。それで子どもに恩を押し付けて支配しようとしてしまうこともあります。愛することをやめてしまうこともあります。
愛の労苦は無駄にならない
涙と共に種を蒔く
今日はユダヤの人々がうたった詩を紹介します。
この詩の背景には、バビロン捕囚という事件がありました。南ユダ王国が新バビロニア帝国に滅ぼされ、住民がバビロンに連れ去られてしまいました。
人がいなくなり、国土は荒れ果ててしまいました。街は略奪され、野獣が住む。田畑には雑草が生え、作物が実らない。このようなところで生きていくことに希望が見えません。
それでも何人かの人々は涙と共に種を蒔きました。
しかしどんなに労苦してもわずかな収穫しか得られない。
荒れ果てた大地に涙がこぼれ落ちるが、そのような数滴の涙が大地を潤すことはない。
このような状況が何年も続けば、もう諦めて種蒔きをやめたくなります。
しかし彼らは何年も何年も、涙と共に種を蒔き続けたのです。
神は荒地に川を流す
彼らの労苦は本当に無駄だったのでしょうか。
いいえ、神様を信頼するなら、その労苦が無駄になることはありません。
聖書には、神様が私たちの涙を革袋に貯めるという表現があります。
私たちの流した涙は乾いた大地に空しく染み込むだけではない。神が受け取っていてくださる。
そして神は荒れ地に川を流し、不毛の大地に草花を芽生えさせるのです。
マリアは息子イエスを愛し続けました。
12歳の時にはイエスが迷子になりました。あちこち捜し回り、3日後にようやく神殿にいるところを見つけました。 そしたらイエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前でしょう」と言うんです。何を生意気なことを言っているんだ。
それでもマリアはイエスを愛し、育て続けました。
30歳のある日、結婚式のお祝いのワインがなくなったと話したら「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」と答えました。母親に向かって「婦人よ」とは何だ。
それでもマリアはイエスを信頼し続けました。
その3年後、イエスはマリアの目の前で殺されます。十字架で死刑になったのです。
マリアがイエスに注いだ愛は無駄だったのでしょうか。愛し続けた息子が最後は死刑囚として死ぬなんて。
これで終わりであれば確かにマリアの愛は空しいものになってしまうでしょう。
しかしイエスは死んで終わりではありません。復活したのです。
イエス・キリストは死にさえも勝利しました。
そしてこのお方を信じる者に、新しい命が与えられます。
主イエス・キリストに結ばれているなら、私たちの苦労は決して無駄になりません。
愛の実を刈り取る日が来る
人生の肥料
皆さんも不毛な大地に涙をこぼす日が来るかもしれません。
今までの労苦は何だったのかと空しくなる。
愛を注いだ家族との関係が突然こじれてしまう。
不慮の事故や病気に襲われ、今まで当たり前にできていたことを奪われる。
正しく善良に生きてきた人に理由のない苦難が襲うこともあります。
しかし空しさに心を奪われてはいけません。
閉じこもっていないで、外に出て行く。
そして周りの人々に愛の種を蒔き続けるのです。
涙があふれることもあるでしょう。
愚痴や文句を吐き出したくなることもあるでしょう。
それも一緒に注ぎだしてください。
神が受け止めていてくださいます。
相田みつをさんの詩を紹介します。
あのときのあの苦しみも あのときのあの悲しみも みんな肥料になったんだなあ じぶんが自分になるための
ぐちをこぼしたっていいがな 弱音を吐いたっていいがな 人間だもの たまには涙を見せたっていいがな いきているんだもの
喜びの朝が来る
暗い夜はいつか明け、喜びの朝が訪れます。
喜びの歌と共に、愛の結ぶ実を刈り取るのです。
その幸いにあずかることができるのは、涙と共に種を蒔いた人の特権。
死に勝利したイエス・キリストを信頼し、周りの人々に愛の種を蒔き続けてください。



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