慰めを与える正しい人

エゼキエル書講解21

慰めを与える正しい人

エゼキエル書 14:12-23

12 主の言葉がわたしに臨んだ。13 「人の子よ、もし、ある国がわたしに対して不信を重ね、罪を犯すなら、わたしは手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。14 たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ、と主なる神は言われる。
15 もし、わたしが悪い獣をその国に横行させ、それによって住む人がいなくなり、獣を恐れて通る人がないために国が荒れ廃れるなら、16 その中に、かの三人の人物がいたとしても――わたしは生きている、と主なる神は言われる――彼らは自分の息子、娘たちすら救うことができない。彼らは自分自身を救いうるだけであり、その国は荒廃に帰するであろう。
17 また、もしわたしが剣をその国に送って、『剣よ、この国を行き巡れ』と言って、その国から人も家畜も絶ち滅ぼすなら、18 たとえ、その中にかの三人の人物がいたとしても――わたしは生きている、と主なる神は言われる――彼らは自分の息子、娘たちすら救うことができない。彼らは自分自身を救いうるだけである。
19 また、もしわたしがその国に疫病を送り、わたしの怒りをその上に血と共に注ぎ、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすなら、20 たとえ、その中にノア、ダニエル、ヨブがいたとしても――わたしは生きている、と主なる神は言われる――彼らは自分の息子、娘たちすら救うことができない。彼らはその正しさによって、自分自身の命を救いうるだけである。
21 まことに、主なる神はこう言われる。わたしがこの四つの厳しい裁き、すなわち、剣、飢饉、悪い獣、疫病をエルサレムに送り、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすとき、22 そこに、わずかの者が残されるであろう。息子、娘たちは逃れて救い出され、お前たちの所に出て来る。お前たちは彼らの歩みと行いを見るとき、わたしがエルサレムにくだした災い、わたしがそこに臨ませたすべてのことについて慰められる。23 お前たちは、彼らの歩みと行いとを見て、それによって慰められ、わたしがそこで行ったすべてのことは、理由なく行ったのではないことを知るようになる」と主なる神は言われる。

それぞれの道を歩んでいった友に励まされる

 3月も半ばになりました。菜の花や木蓮など、色々な花が咲き始めました。春が来ました。うれしい季節です。
 3月は日本では別れの季節でもあります。卒業して新しい道へと進んで行く人たち、転勤などで新しい地へと旅立っていく人たちがいます。様々な別れがあります。寂しい季節でもあります。
 別れは全て悲しいものですが、クリスチャンである私たちの別れは永遠ではありません。また会う日がいつか必ず来ます。
 それぞれが行く先々で活躍する様子を聞くこともあるでしょう。
 私も数年前まで学生でした。もう10年以上会っていない友人もたくさんいますが、SNSなどで近況を目にすることがあります。それを見るととても励まされます。
 ある人は学校の先生をしていたり、大学の教授になっていたり、レストランのオーナーになっていたりします。スポーツや芸能の世界で活躍している人もいます。結婚し、お父さんやお母さんとして幸せな家庭を築いている人も増えました。中には総理大臣になるなどと夢を見続けている少年のような人もいます。
 私たちは神様の計画に従い、それぞれの道を歩んでいきます。
 その歩みと行いが互いの慰めとなるように、新しい一歩を祝福して送り出していく、そのような別れの季節となることを願っています。

不信の国に災いが下る

 今日の本文は不信の国に対して災いを告げる場面です。
 もしある国が主を信じないなら、主ご自身が手を伸ばして災いを下すと言います。その災いは飢饉、獣、剣、疫病の4つです。
 たとえその国の中にノア、ダニエル、ヨブがいても、彼らの正しさは自分自身を救うだけです。他の人は、息子や娘であっても救えません。
 主はその災いの中でわずかの者を残しておきます。彼らはエゼキエルたち捕囚民のところに来ます。彼らの歩みと行いを見るとき、人々は慰められます。
 そしてエルサレムに下された災いには理由があったのだと知るようになります。
 今日の本文を通して、神の正しさを信じ、信仰の歩みによって人々を力づけ、ビジョンを持って歩んでいく私たちになることを期待します。

ノア、ヨブ、ダニエル

 まず今日の本文の12節から20節で『12 主の言葉がわたしに臨んだ。13 「人の子よ、もし、ある国がわたしに対して不信を重ね、罪を犯すなら、わたしは手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。14 たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ、と主なる神は言われる。15 もし、わたしが悪い獣をその国に横行させ、それによって住む人がいなくなり、獣を恐れて通る人がないために国が荒れ廃れるなら、16 その中に、かの三人の人物がいたとしても――わたしは生きている、と主なる神は言われる――彼らは自分の息子、娘たちすら救うことができない。彼らは自分自身を救いうるだけであり、その国は荒廃に帰するであろう。17 また、もしわたしが剣をその国に送って、『剣よ、この国を行き巡れ』と言って、その国から人も家畜も絶ち滅ぼすなら、18 たとえ、その中にかの三人の人物がいたとしても――わたしは生きている、と主なる神は言われる――彼らは自分の息子、娘たちすら救うことができない。彼らは自分自身を救いうるだけである。19 また、もしわたしがその国に疫病を送り、わたしの怒りをその上に血と共に注ぎ、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすなら、20 たとえ、その中にノア、ダニエル、ヨブがいたとしても――わたしは生きている、と主なる神は言われる――彼らは自分の息子、娘たちすら救うことができない。彼らはその正しさによって、自分自身の命を救いうるだけである。』 とあります。
 正しい人とは自分の行いが正しい人ではなく、神の正しさを信じる人です。

不信の国

 主はエゼキエルに再び語ります。ある国が主に対して不信を重ね、罪を犯すなら。
 不信とはどういうことでしょうか。
 主がどのような方かを知らないことです。

かわいい子には旅をさせよ

 イスラエルの民は、主はこの地を見捨てられたと言って、偶像崇拝をしていました。預言者が告げた主の言葉に聞き従わず、自分の考えや偽預言者の言葉に従う人もいました。
 主の愛と正しい裁きが示されていたのに、それを受け取らなかったのです。
 不信は大きな罪です。
 子どもは親や先生から叱られることがあります。親になってからも上司から難しい課題を任されることがあります。どう感じますか。嫌ですね。愛されていないと感じるかもしれません。
 逆の立場で考えてみてください。あなたが誰かを育てようと思ったら、愛を示すでしょう。愛の示し方は、ありのままでいいよと存在を肯定するだけではありません。それは違う。こうした方がいい。ここまで来てみなさいと鍛錬するでしょう。これも愛です。
 正しい裁きによって示される愛があります。
 それなのに鍛錬される側が愛されていないと思うなら、大きな勘違いです。
 主の愛と正しい裁きを知らないというのは大きな罪なのです。

4つの災い

ノアの箱舟

 もしあなたのことを誰かが勘違いしていたらどうしますか。
 愛がないと思われたら、愛があることを示すでしょう。正しくないと思われたら正しいことを示すでしょう。
 もし人々が主なる神様のことを勘違いしているとしたらどうするでしょうか。主が主であることを示すでしょう。
 主は手を伸ばして4つの災いを下すと言われます。飢饉、獣、剣、疫病です。多くの人や家畜が苦しみ、死ぬことになります。
 歴史の中で主は何度も手を伸ばし、災いを下してきました。そのときに活躍した英雄たちがいます。ノア、ダニエル、ヨブです。この3人によって災いの中でも多くの命が救われました。
 ノアの時代の人は皆、悪いことをしていました。神は心を痛め、洪水を起こしました。ただ1人ノアだけは神に従っていました。そしてノアが神の言葉に従って作った箱舟により、ノアの家族と多くの動物が助かりました。
 ダニエルはエゼキエルと同じ時代の人です。ライオンの話が有名ですが、それは数十年後のことです。
 この時代に知られていたダニエルの活躍は、夢の説き明かしだと思われます。ネブカドネザル大王は不思議な夢を見ました。その夢の意味を知りたいと思いました。そして有識者を呼び、夢を言い当ててみよと言いました。夢の内容がわかれば意味を説明できるかもしれません。しかし夢そのものを言い当てるのは不可能です。有識者が答えられなかったので大王は憤慨し、国中の知識人を皆殺しにしようとしました。ダニエルも殺されそうになりましたが、王の前に進み出、神に祈ってから夢の説き明かしを行いました。これで大王の怒りは収まり、ダニエルはバビロンの大臣になりました。
 ヨブは一日のうちに子どもたちも財産も失いますが、それでも神を賛美しました。ヨブの3人の友人はヨブを慰めに来ますが、正しく語りませんでした。神は友人たちに災いを下そうとしますが、ヨブが友だちのために祈ったことで神は災いを下すことをやめました。
 この3人は正しい人の代表選手です。もしこのような人たちがいれば、国は滅びずに済みそうな気がします。
 しかし主は、彼らは自分の正しさによって自分の命を救うだけで、息子や娘の命も救えないと言います。
 私たちの正しさでは人を救えません。

人の正しさ

 親のことを勘違いしている子どもは、叱られなければなりません。
 その中で一人が親の正しさに気付いて謝ったとしても、他の兄弟の受ける罰がなくなるわけではありません。
 もちろんそのような子どもも、親にとって愛する子どもとして受け入れられていることには変わりありません。しかし叱られるべき子どもを放っておくことは、正しいことではありません。
 親の怒りを免れる唯一の方法は、一人一人が親の正しさを知ることです。
 私たちは罪を犯し、神から離れて行きました。私たちには正しく生きる力はありません。
 愛の神は私たちをありのままで受け入れました。そして罪なき神の独り子イエスが神の正しい裁きを引き受けました。そして神は死に至るまで従順だったイエスを復活させ、全ての名に勝る名をお与えになりました。これが十字架と復活です。
 十字架と復活で示された神の愛と義を信じるとき、私たちも無償で義とされるのです。

すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

ローマの信徒への手紙3:22

 正しい人とは、行いが正しい人ではありません。そのような人はいません。
 神の愛と正しい裁きを信じる人こそ、正しい人です。

信仰で生きる

 また今日の本文の21節22節で『21 まことに、主なる神はこう言われる。わたしがこの四つの厳しい裁き、すなわち、剣、飢饉、悪い獣、疫病をエルサレムに送り、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすとき、22 そこに、わずかの者が残されるであろう。息子、娘たちは逃れて救い出され、お前たちの所に出て来る。お前たちは彼らの歩みと行いを見るとき、わたしがエルサレムにくだした災い、わたしがそこに臨ませたすべてのことについて慰められる。』 とあります。
 私たちは信仰で生きる人を通して慰められます。

残りの民

 主は、4つの災いの中でもわずかの者が残ると言われます。
 主が願っていることは人が滅びることではなく、生きることです。

テスト勉強

 学校を卒業するためには試験を受けて必要な単位を取らなければなりません。高校や大学などでは、試験の成績が足りず落第することもあります。
 それは苦しめるためではなく、よく学ぶようにするためです。私も必修の単位を落としてしまったことがあり、再履修をしてよく勉強させてもらいました。
 主は愛する子に試練を与えます。
 試練を乗り越えた人は必要なことを身に付け、余計なものを捨てた人たちです。

注目すべき生き方

 不信の罪に対する4つの災いを乗り越えた人たちはただ運がよかっただけではありません。生き延びる理由がありました。彼らが主を知り、信じたからです。
 正しい人は信仰で生きます。

見よ、高慢な者を。
彼の心は正しくありえない。
しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

ハバクク書2:4

 神は決して人を欺きません。正しい裁きを行います。
 そのような主の正しさを忍耐強く信じる者が救われるのです。

慰めを与える

 そのわずかな残りの者たちが「お前たちの所に出て来る。」と語られています。
 バビロンの捕囚民たちは彼らを見て何を感じるでしょうか。
 エルサレムは滅び、神殿は破壊された。その中でこの残りの人たちが生き残った理由がある。彼らは主を信じて生き延びた正しい人々なのだ。
 彼らの歩みと行いを見るとき、この人たちは何か違う、この人たちは信仰で生きる人たちなのだとわかります。
 そのとき彼らは慰められます。
 慰めとは、立ち上がらせる力です。

死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

詩編23:4

 「力づける」と訳されている言葉は、別の訳では「慰める」となっています。
 羊飼いの杖が羊を立ち上がらせるように、神の慰めは私たちを力づけます。

 別れは悲しいです。ここから出て、それぞれの生活の場所へ出ていきます。遠くへ引っ越す人もいます。
 しかし行く先々で信仰で生きる姿を見て、私たちは慰められます。

神の計画

 最後に今日の本文の23節で『23 お前たちは、彼らの歩みと行いとを見て、それによって慰められ、わたしがそこで行ったすべてのことは、理由なく行ったのではないことを知るようになる」と主なる神は言われる。』 とあります。
 すべてのことには理由があります。主が見せてくださる大きなビジョンを持つことが大事です。

捕囚の理由

 残りの民を見て、主が理由もなく災いを下したのではないと知るようになります。
 4つの災いには理由があります。バビロン捕囚にも理由があります。

こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。

歴代誌下36:21

 歴代誌は捕囚から帰ってきた人たちによってまとめられたと考えられています。
 ですから後で振り返ってみて、バビロン捕囚はこういう意味だったのだとイスラエルの民が言い伝えてきました。
 その意味というのは、約束の地が安息を得るということです。

 神様は土地に対しても計画を持っています。
 その地は人間のために与えられました。ですからそこに住む人間のためにも神の計画があります。
 神の計画は全被造物に及ぶ大きなものです。
 一人一人に神の計画があります。
 人の考えをはるかに超える神の計画があります。
 罪によって離れた人間が神のもとに帰って来る。それで終わりではなく、創造の目的、神の国の完成へと向かっていくビジョンが備えられています。
 その計画の中で、災いや捕囚のような出来事も起こってきます。
 私たちはまだ神の計画の方針を見たことも聞いたこともありません。
 それを信仰の目で見ることがビジョンです。

全てに理由がある

 私たちの人生で経験したことにも理由があります。
 学校で学んだこと、この町で経験してきたこと、出会った人たちは、神様が与えてくださいました。
 つらい出来事や、苦手な人間関係もあったかもしれません。それも神様の大きな計画の中で与えられたものです。

ビジョンを持つ

 ノア、ダニエル、ヨブの正しさとは結局、神を信頼し、その人生を御手に委ねたことです。
 ヨブは苦難を経験する前から正しい人でした。しかし苦難を通して気づきました。正しいのは自分ではない。神が正しいのだと。

あなたは全能であり/
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

ヨブ記42:2

 新改訳聖書では、「あなたにはすべてができること。あなたはどんな計画も成し遂げられることをわたしは知りました。」とヨブが告白しています。
 主は正しく、どんな計画も成し遂げる。
 ノア、ダニエル、ヨブは主の正しさに人生を委ねました。

 主は私たちにビジョンを見せてくださいます。そのビジョンを忘れないでください。
 時には、この環境ではできない、今の状況では無理だと思えるかもしれません。
 問題は環境や状況ではありません。
 神様の正しさに自分の人生を委ねているかどうかです。

 横浜にエスペランサというサッカーチームがあります。関東リーグ2部に所属しています。
 監督は元アルゼンチン代表のオルテガ氏。

エスペランサSC

 オルテガ監督はビジョンの人です。
 オルテガ監督がサッカースクールを始めたとき、小さなグラウンドを借りていました。
 ある日、オルテガ監督は「あの山を買う」と言い出しました。
 その周りは住宅地があります。しかしそこはあまりに荒れて住宅地を造ることができず、放置されていました。
 オルテガ監督は教会に頼んでその土地を買ってもらいました。そうやって土地を買う教会もすごいですね。
 そして何もない荒地を開発し、グラウンドを造りました。
 それからサッカースクールは発展し、社会人のチームもでき、エスペランサから2人のプロの選手も出ました。
 オルテガ監督は言います。「神様は中途半端なことはしない。今はグラウンドがあるだけだが、私はそこにスタジアムを建てる。そしてエスペランサをプロチームにする。」
 ビジョンが壮大過ぎて、実現しそうには見えません。
 しかし神様がオルテガ監督に、荒地にスタジアムを建て、エスペランサをプロチームにするというビジョンを与えました。
 神様が与えたビジョンは必ず成し遂げられます。
 環境や状況が問題ではありません。
 荒地でも、主がスタジアムを建てると言ったら立ちます。荒地に川を流すと言ったら流れます。
 私たちもそのようなビジョンを持って歩んでいきたいです。
 私にはビジョンがあります。それは皆さんが浜松に留まらず、日本に留まらず、世界に出ていって活躍してほしいと願っています。

 主は私たちの考えをはるかに超えて大きなビジョンを持っています。
 すべてのことには神の計画があります。
 主が与えてくださるビジョンを受け取り、恵みのチャンスをつかんで逃さないでください。

 正しい人は信仰で生きる。
 神の計画に従い、この世界で大きく用いられる私たちになることを願います。

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