神に心を捕えられる

エゼキエル書講解20

神に心を捕えられる

エゼキエル書 14:1-11

1 イスラエルの長老数名がわたしのもとに来て、わたしの前に座った。2 そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ。3 「人の子よ、この人々は偶像を心に抱き、彼らをつまずかせる罪を目の前に置いている。それなのに、わたしは彼らの求めに応じられようか。4 それゆえ、彼らと語り、彼らに告げなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家の者で、偶像を心に抱き、つまずかせる罪を目の前に置いていながら、預言者のもとに来る者には、だれに対しても、主なるわたし自身が、彼の多くの偶像のゆえに答えよう。5 それは、偶像のゆえにわたしから離れ去ったイスラエルの家の心をすべて、わたしが捕らえるためである。
6 それゆえ、あなたはイスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。悔い改めて、お前たちの偶像から離れ、すべての忌まわしいものから顔を背けよ。7 イスラエルの家の者と、イスラエルの中に寄留している外国人のうち、わたしから離れて偶像を心に抱き、つまずかせる罪を目の前に置いていながら、わたしに尋ねようと預言者のもとに来る者には、だれに対しても、主なるわたし自身が答えよう。8 わたしはその者に向かって顔を向け、彼をしるしとし、ことわざとして、わが民の中から断つ。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。
9 もし、預言者が惑わされて言葉を語ることがあるなら、主なるわたし自身がその預言者を惑わしたのである。わたしは彼の上に手を伸べ、わが民イスラエルの中から絶ち滅ぼす。10 彼らは共に自分の罪を負う。尋ねる者の罪は、預言者の罪と同じである。11 それは、イスラエルの家がもはやわたしから迷い出ず、あらゆる背きによって二度と自分を汚さないためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と主なる神は言われる。

古い自分と決別し、新しく歩み出す

 2泊3日のYouth Campが恵みの中で行われました。3人の青年たちも一緒に参加してたくさんの恵みをいただいてきました。
 それぞれ決心したことがあります。ところが私たちはすぐに恵みを忘れてしまうのです。この世の生活に戻ると、何事もなかったかのようにこの世に流されてしまいます。キャンプのたびに、決心しては忘れることを繰り返してしまいます。
 毎週の礼拝でも同じです。主日に礼拝を通して力をいただいても、月曜日には忘れている。日々のQTで主の御声を聞いても、聖書を閉じれば忘れてしまう。
 何も変わっていない。私たちは日々新たにされているはずなのに、相変わらず古い自分に縛られ続けてしまいます。
 主は私たちをあらゆる束縛から解放したのです。キリストの十字架の血潮により、私たちは神のものとされたのです。
 だから古い自分と決別し、新しく歩み出す必要があります。

心に偶像を抱く長老たちの心を捕らえる

 今日の本文はエゼキエルの家に集まった長老たちへの預言です。彼らは主の御言葉を求めに来ながら、心に偶像を抱いていました。
 主は彼らの心を捕えます。そして悔い改め、すべての忌まわしいものから顔を背けさせます。
 それはイスラエルが神の民として、神と新しい契約を結ぶ日が来るからです。
 今日の本文を通して神に心を捕えられた奴隷として、主の方に方向転換し、主のもとに留まる私たちになることを期待します。

偶像を心に抱く人々

 まず今日の本文の1節から5節で『1 イスラエルの長老数名がわたしのもとに来て、わたしの前に座った。2 そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ。3 「人の子よ、この人々は偶像を心に抱き、彼らをつまずかせる罪を目の前に置いている。それなのに、わたしは彼らの求めに応じられようか。4 それゆえ、彼らと語り、彼らに告げなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家の者で、偶像を心に抱き、つまずかせる罪を目の前に置いていながら、預言者のもとに来る者には、だれに対しても、主なるわたし自身が、彼の多くの偶像のゆえに答えよう。5 それは、偶像のゆえにわたしから離れ去ったイスラエルの家の心をすべて、わたしが捕らえるためである。』 とあります。
 私たちは偶像を心に抱きながら礼拝してしまいます。

御言葉を求める長老たち

人はパンだけで生くるにあらず

 エゼキエルの家にイスラエルの長老たちが集まって来ました。
 8章でもそのような場面がありましたね。長老たちは主の御言葉を聞くために集まっていました。
 私たちには御言葉が必要です。申命記8章では『人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる』とあります。御言葉なしには生きられない。もし御言葉を聞くことができないなら、私たちは飢え渇いてしまいます。
 経験がありますか。1週間、主日以外に教会の集会に参加しない。聖書を開かない。祈らない。そのような生活を送ったとき、灯油の切れたストーブのように霊の火が小さくなっていき、ボボボボ…ボッと消えてしまうのです。
 私たちには御言葉が必要です。神殿も祭司もない捕囚の民にとって、預言者こそ主の御言葉を取り次ぐ存在でした。御言葉によって養う、魂の羊飼いでした。

偶像を抱いて礼拝できるか

 主はそこに集まった長老たちのことを指して、『この人々は偶像を心に抱き、彼らをつまずかせる罪を目の前に置いている』と言っています。
 彼らは主の御言葉を聞きに来ているではありませんか。それなのに偶像を心に抱いていることなどありえるでしょうか。
 言い換えれば、礼拝をささげに来ているのに心が主ではない別の方を向いていることなどできるのでしょうか。

 できますね。私たちもそうしてしまいます。
 主の御言葉に集中して聞き従わなければならないのに、他のことが気になってしまいます。
 今日はあの人は来ていないのだろうか。明日からの仕事をどうしようか。早く上に行って遊びたい。お腹が空いた。スマートフォンに通知が来ていたけど何だろう。
 私たちはそのように、平然と偶像を心に抱きながら礼拝できてしまいます。
 これで私たちは主の御言葉を聞き分けることができるでしょうか。

 羊は羊飼いの言葉に集中していなければなりません。
 羊が食べることや遊ぶことに夢中になっていたらどうなりますか。羊飼いの声を聞き逃します。それは羊にとって、死を意味します。

 主は生きておられます。私たちとの人格的な交わりを求めておられます。
 偶像を心に抱きながら御言葉を求める人々に、主は応じてくださるでしょうか。他のことを気にしながらささげる礼拝を、主は受け取られるでしょうか。

 主はエゼキエルに、『彼らと語り、彼らに告げなさい』と言われます。
 ただ言いなさいと言われたのではありません。語り告げなさいと言われました。違いは何でしょう。
 この口からただ音を出すのではなく、相手に向かって情報を伝達しなさいということです。
 主は私たちと語る神です。神の言葉は私たちに向かって語られています。
 だとすると、考えてみてください。もし私たちが誰かに語るとします。聞く相手が耳にイヤホンをしたままだったり、遊びながら聞いていたりすると、「聞いてる?」となりますね。愛を伝えたいのに、全然振り向いてくれなかったら、悲しいですよね。
 私たちの礼拝態度もそのように主を悲しませてはいないでしょうか。

主に捕えられる

 そこで主は、イスラエルの家の心を捕えられると言われます。
 前の箇所で主は私たちの心をあらゆる束縛から解放すると約束されました。私たちの魂は解き放たれました。もはやこの世の奴隷ではありません。
 では私たちの所属は何になったのでしょうか。
 この世から解き放たれたら、この世は私たちの居場所ではない。では私たちは無所属になってしまったのでしょうか。みなしごになってしまったのでしょうか。
 いいえ、私たちは神の子とされました。私たちは神のものとなり、神の国の民としてこの世の中で生きていきます。
 主は『イスラエルの家の心をすべて、わたしが捕らえる』と言われます。主が私たちの心を捕えて離さない。すると今、私たちは主に結ばれたものです。
 主から離れられません。キリストの奴隷となっています。
 先週、私たちには完全な自由が与えられていると言いました。完全に自由なのに奴隷。矛盾しているように感じます。
 羊は羊飼いから離れれば自由ですか。それは死です。
 羊は羊飼いに完全に従うとき、本当に羊らしく生きられます。羊飼いの声が、羊を自由にします。
 私たちもキリストに結ばれたものとして御言葉に聞き従うとき、本当の自由を得ます。本当に人間らしく生きられます。
 私たちは自由です。はいと言う自由もいいえと言う自由もあります。
 私たちを再び目の前の問題、過去の失敗、傷に縛り付けようとするこの世に対しては、毅然とした態度でいいえと言える自由があります。
 そして主の招きに対しては喜んではいと言う自由があります。
 神は私たちの心を捕えます。
 もちろん父の御言葉、キリストの模範、聖霊の導きに対してもいいえと言う自由があります。再びこの世に束縛されることを選ぶ自由もあります。
 しかし何が善であるか、何が神の喜びであるか、私たちは知っているはずです。
 何をためらう必要があるでしょうか。心の偶像を捨て去り、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして生きる自由が私たちに与えられているのです。

忌まわしいものから顔を背ける

 また今日の本文の21節から25節で『6 それゆえ、あなたはイスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。悔い改めて、お前たちの偶像から離れ、すべての忌まわしいものから顔を背けよ。7 イスラエルの家の者と、イスラエルの中に寄留している外国人のうち、わたしから離れて偶像を心に抱き、つまずかせる罪を目の前に置いていながら、わたしに尋ねようと預言者のもとに来る者には、だれに対しても、主なるわたし自身が答えよう。8 わたしはその者に向かって顔を向け、彼をしるしとし、ことわざとして、わが民の中から断つ。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。』 とあります。
 私たちは方向転換が必要です。

悔い改めよ

 主はイスラエルの民に、『悔い改めて、お前たちの偶像から離れ、すべての忌まわしいものから顔を背けよ』と言われます。
 私たちはまず自分の罪を認める必要があります。罪の自覚がないのに悔いることはできません。
 相変わらず心に罪を抱き続けてきた。恵みが与えられていながら、それを拒んできた。私たちはそのように罪に汚れ、悲惨な存在です。
 ここまでは「悔い」です。悔いるだけで終わってしまってはいけません。罪責感に支配され、絶望します。
 主が求めていることは悔い改めです。悔いて改めるのです。
 何を改めますか。行いですか。
 残念ながら行いを改める力は私たちにありません。もっと聖書を読まなければ、祈らなければ、証しをしなければ、交わりをしなければ、伝道をしなければならない。いつも喜び、祈り、感謝しなければならない。喜ぼう、喜ぼう。それでは喜べませんよね。

方向転換

 悔い改めという言葉はギリシア語のメタノイアから来ています。これは視点、考え、思いを変えるという意味の言葉です。
 私たちが改めるべきものは、人生の方向性、焦点です。
 どこに目を向けるのか。
 主は、忌まわしいものから顔を背けよと言われました。
 私たちが置かれている現在の状況や、目の前の問題ではありません。過去の失敗や傷でもありません。
 そのような忌まわしいものから顔を背け、主を見上げるのです。
 これが悔い改めです。
 もちろん行いも変わらなければなりません。しかしこれは悔い改めの結果としてついて来るものです。

失敗例から学ぶ

 主は私たちに悔い改めの機会を与えてくださいました。
 悔い改めれば赦される。
 だからと言っていつまでも同じ過ちを繰り返していいのでしょうか。主が7の70倍も赦すなら、7の70倍も主に罪を犯していいということでしょうか。
 私たちは学ばなければなりません。過去の失敗を繰り返してはならない。
 また過去の人類が犯してきた失敗も、繰り返してはなりません。

 主はこの当時の人々を私たちのしるしとし、ことわざとすると言われます。
 心に偶像を抱きながら主の御言葉を求める者がどうなるのかという教訓です。
 私たちは聖書を通して、過去の失敗例を学ぶことができます。私たちは彼らから学ぶことができます。
 聖書にはあらゆる失敗のパターンが記録されています。信仰の先輩たちも失敗をしてきました。アダム、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデ、ソロモン、エリヤ、ペトロ、パウロ、コリント教会の信徒たち…彼らも罪を犯し、失敗し、倒れてきました。
 人間の歴史を学んでも学ぶことが多くあるでしょう。戦争により悲劇を繰り返してきた人類の歴史を忘れてはなりません。
 今日(2018年3月11日)で東日本大震災から7年です。これはまだ過去の話ではありません。町は復興の途中にあり、人の心はまだ癒しきれない状態にあります。津波や原発の悲劇は大切な教訓として語り継がれる必要があります。

 私たちは自分の失敗の経験からも学ぶことができます。
 何度同じことを繰り返すのか。
 私たちは罪のために堕落しています。ここから立ち上がるために、主が救い出してくださらなければなりません。
 それがイエス・キリストの十字架と復活です。
 主が贖われました。だから私たちはまず自分の悲惨に気付かされます。
 ところがこのような罪深い自分に向けられた、驚くべき神の愛があることを十字架は示しました。
 そしてイエス・キリストは復活し、私たちに新しい命を与えました。
 だから私たちは罪と決別し、悔い改めることができます。
 私たちはすべての忌まわしいものから顔を背け、主を見上げることができるのです。

主から迷い出ない

 最後に今日の本文の20節から23節で『9 もし、預言者が惑わされて言葉を語ることがあるなら、主なるわたし自身がその預言者を惑わしたのである。わたしは彼の上に手を伸べ、わが民イスラエルの中から絶ち滅ぼす。10 彼らは共に自分の罪を負う。尋ねる者の罪は、預言者の罪と同じである。11 それは、イスラエルの家がもはやわたしから迷い出ず、あらゆる背きによって二度と自分を汚さないためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と主なる神は言われる。』 とあります。
 主は私たちが主の民として、主のもとに留まることを願っています。

迷い出る者の罪

 主は偶像を心に抱きながら預言者のもとに来る者の罪を指摘しています。『彼らは共に自分の罪を負う。尋ねる者の罪は、預言者の罪と同じである。』それは偽りを語る預言者と同じ罪です。

 北イスラエルのアハブ王は南ユダのヨシャファト王と同盟を結びました。そして全イスラエルの連合軍を率いてアラムに攻撃を仕掛けます。ギレアドを奪還するためです。
 ヨシャファトはアハブに、まず主の言葉を求めるよう勧めます。
 そこで100人の預言者が集められました。彼らは口々に「攻め上るべきです」と答えました。アハブ王は願った通りの答えが聞けて満足です。
 しかしヨシャファトは何か違和感を感じて「他に主の預言者はいないのですか」と尋ねます。
 そこに連れて来られたのはミカヤという預言者でした。彼はいつもアハブに災いを預言していたので、王から嫌われていました。
 ミカヤも「攻め上ってください」と言いました。ほっとしたアハブは、「ようやくわかったか、これからも今日のように真実を告げるんだぞ」と念を押します。
 ところがそこでミカヤは、実はこの預言が偽りの霊によるものであることを明かします。
 主ご自身が、アハブを倒れさせるため偽りを語らせました。それはアハブがバアル崇拝により北イスラエルを惑わしたからです。
 結局アハブはギレアドに攻め上り、そこでたまたま飛んで来た矢に射抜かれて死んでしまいます。
 主から離れている者は求めても何も得られないのだということを悟らされます。

神のもとに留まる

 私たちは自分の力で何かを得ようとします。
 しかし全ては主の恵みです。主が与えてくださらなければ、私たちは何も得ることができません。
 自分の計画に従って舟を漕ぎだし、自分の力で魚を獲ろうとします。
 主が許してくださらなければ舟を出すことはできず、主が与えてくださらなければ魚は手に入らないということを忘れてはなりません。

 Youth Campの期間中、長男は妻の実家で預かってもらうことになっていました。ところがYouth Campに出発する朝、連絡が入りました。長男が夜中と朝、吐いてしまったと。もしかするとインフルエンザかもしれません。もしそうなら、実家では預かれません。高齢のおばあちゃんも住んでいて、もし移ったら大変です。すると長男を連れて帰り、妻が浜松に残って看病しなければなりません。妻がYouth Campに行けない可能性も出てきました。しかし私の心は平安でした。主が何とかしてくださる。主の御心だけが成る。
 9時になりました。出発時間です。しかしたまたま、参加者が全員そろっていませんでした。まだ出発できません。しばらくして全員そろいました。
 祈って出発しようとしたとき、電話が鳴りました。一番に病院で診てもらい、ただ冷えていただけだと分かりました。
 安心して全員そろってYouth Campに参加できました。
 本当に主の恵みがなければ、恵みの機会に与ることもできないのだとわかりました。

 私たちがこうして礼拝をささげることも、主の恵みがなければできません。
 生きていること自体が主の恵みです。私たちの力でこの世に出てきて、私たちの意思で心臓を動かしているわけではないのです。だから恵みに感謝できます。
 恵みの機会を決して逃さないようにしていきたいものです。
 パウロは難破しそうな船の上で、感謝の礼拝をささげました。
 主が共にいてくださるなら、環境や状況がどうであれ、感謝できます。
 主のもとに留まるとき、私たちは力づけられます。そこに命の源があるからです。

神の民として生きる

 主は私たちをキリストの十字架の血潮によって買い取りました。
 これは神と人との間に結ばれた、新しい契約の血潮です。
 「こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」私たちは神の子とされました。私たちは新しい創造されたものです。
 ギリシア語には命を表す言葉が2つあります。ビオスとゾーエーです。
 ビオスは生物の命を意味します。土の塵から造られた、朽ちる命のことです。
 ゾーエーは霊的な命、神の命です。朽ちることのない永遠の命。
 アダムはビオスとゾーエーの両方がありましたが、罪を犯してゾーエーは失われ、霊的に死にました。
 イエス・キリストは第2のアダムとしてビオスとゾーエーの両方をもってこの地上に来られました。十字架でビオスは失いましたが、今は朽ちることのないゾーエーをもって栄光の体で生きています。
 このキリストにつながるとき、私たちも新しい命、神の命をもって生きるのです。
 私たちの存在そのものが神の栄光となります。私たちが神のもとに留まるとき、私たちから神の命、祝福が溢れ流れる。そして周りのものが生き返る。私たちの生活の現場に、神の国が臨みます。

 私たちは主ではないものを心に抱きながら礼拝することもあります。主は私たちの心を捕えます。だから古い自分を捨て、主を見上げましょう。決して主から離れず、神の民として生きることを決意する私たちになることを願います。

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