ごちゃまぜの教会

ごちゃまぜの教会

エフェソの信徒への手紙 2:18-22

18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

合格しなければ居場所がない社会

試験中の学生

 受験シーズンを迎えています。私立高校や私立大学の受験はちょうどこの時期です。
 多くの人が高校入試を受け、合格した高校に入ります。就職やアルバイトも、履歴書を出し面接を受け、合格して仕事を得ます。学生になるにしても社会人になるにしても、この社会の中で居場所を得るためには合格をもらわなければなりません。
 ある意味結婚もそうかもしれません。相手にとってふさわしい人間だとアピールして、プロポーズにOKをもらう、あるいはプロポーズしてもらう。
 私たちはこの社会にふさわしい人間だと認めてもらって、進学し就職し結婚します。
 ではこの社会で不合格とされた人に居場所はないのでしょうか。
 政治に携わる人から生産性がないとか見るのも嫌だなどと言われる人たちはこの社会で生きていてはいけないのでしょうか。

 教会はどうでしょう。
 教会も「あなたはふさわしい人だからどうぞ。」「お前のような罪人は入るな。」というメッセージを発していませんか。

どんな人でもイエス様に招かれている

 先週は教会が生きているキリストの体だということを見ました。
 体には多様な部分があります。
 世界各地にある1つ1つの教会はその部分だと言えます。ですから教会ごとに目指す方向性や雰囲気は違います。
 どうしてもこの雰囲気は苦手だという人が出てきます。
 カレーやチョコレートだって苦手な人がいるのですから。
 1つの教会がすべての人を受け入れることはできません。
 だからと言って「あなたは私たちの教会にふさわしくありません。他に行ってください」と追い出すようなことをするのは、教会のあり方として間違っています。

優秀でなければ歓迎されない教会

 大学生への宣教に力を入れて成長している教会がありました。優秀な大学生が救われ、リーダーになっていました。
 私は短い期間ですが、その教会で研修を受けていました。
 クリスマス前でコンサートを行うということで、大学生をターゲットに伝道をしていました。
 伝道会が終わって祈り会をしているとき、その教会のスタッフがこう祈りました。「ふつうの学生に出会わせてください」
 このふつうの学生とはどのような学生のことでしょう。本当に平凡な学生なら、そのように祈る必要はありません。
 その教会にとってふつうの学生は、優秀でリーダーになれる学生です。
 平凡な学生やクセの強い学生は求められていません。
 この教会につまずき去っていく人、傷つけられる人が多くいました。

ただそこにいる存在が大切

 私も大学生の時に教会に行き始めました。もし私の行った教会が優秀でリーダーになれる学生ばかりを歓迎する教会だったら、私はすぐ去っていたでしょう。
 私が安心して教会に行き続けられたのは1人の女性の存在が大きいです。
 私が初めて行った教会は韓国人宣教師が開拓した教会で、韓国人や韓国系中国人の人が集まっていました。彼らは優秀で社交的な人たちでした。日本人で人間に興味がない私とはタイプが違います。
 そこに1人の日本人女性がいました。彼女は軽い知的な障がいがありました。
 彼女が毎週毎週教会に来ていたので、私もここにいていいのだと感じられました。
 彼女はただそこにいただけです。ただそこにいるその存在が、私を教会に留まらせてくれました。

そのままのあなたにイエス様はプロポーズしている

 教会のメンバーになるにはイエスを主と信じ洗礼を受ける必要があります。
 しかし教会に来るのに、洗礼の有る無しは関係ありません。
 履歴書も受験も面接も必要ありません。プロポーズしてもらえるような魅力的な人間になる必要もありません。
 そもそも神様の前に進み出るのにふさわしい人間などいないのです。誰もが問題ある罪人です。
 そんな私たちにイエス様はプロポーズします。
 「あなたを愛しています。あなたの存在が必要です。私の家族になってください。」
 イエス様に招かれていない人はいません。

教会の門はすべての人に開かれている

神との間に隔ての壁があった

 教会は初めから多様な人を受け入れてきたわけではありません。
 ユダヤ人の間で生まれた教会は、ユダヤ人を主なターゲットに伝道をしてきました。割礼を受けたユダヤ人男性こそ聖なる神の民だと信じていました。
 ユダヤ教の神殿は外側から異邦人が入れるエリア、ユダヤ人女性が入れるエリア、ユダヤ人男性が入れるエリアに区切られ、その中の聖所も垂幕によって仕切られていました。異邦人は神から遠く離されています。
 しかし教会の歴史の中で割礼のない異邦人も救われて教会につながり、異邦人宣教が始まっていきます。

隔ての壁は破られた

 今日の本文は、異邦人宣教を行ったパウロがそのような異邦人クリスチャンに向けて書いた手紙です。
 今日の本文の前の個所でパウロは、あなたがた異邦人には希望がなかったとさえ言っています。神と異邦人の間には越えられない壁がありました。
 その隔ての壁を打ち壊したのがイエス・キリストです。
 イエス様が十字架で死んだとき、神殿の垂幕が真っ二つに裂けます。
 それで、このキリストによってユダヤ人も異邦人も一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
 何人だろうが関係なく、聖なる民に属する者、神の家族とされています。

すべての民の祈りの家

 多様な人が招かれるというのは神様の約束の実現です。
 イザヤ書56章で神は異邦人や宦官に呼びかけます。どちらも神殿の中で礼拝することが許されなかった人たちです。

わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

イザヤ書56:7

 わたしの家はすべての民の祈りの家。
 祈りの家は旧約時代は神殿のことでしたが、今は教会に引き継がれています。
 教会の門はすべての人に開かれています。

愛によって結び合わされる

礼拝で神の家族の結びつきは深められていく

 「あなたを愛しています。あなたの存在が必要です。私の家族になってください。」というイエス様からのプロポーズを受け取りましたか?
 プロポーズを受けてご結婚される場合は、婚姻届けを提出するだけでなく式を挙げてください。結婚式を経て、1つの家族になります。
 私の妹は予定していた結婚式がコロナで延期しなければならなくなり、先に入籍だけ済ませました。
 入籍したら法的には結婚が成立しています。しかし兄としては、妹が新しい家庭を築いたという実感は全くありませんでした。
 実感がわいたのはやはり、年賀状が届いたとき、ではなく1年後に挙げられた結婚式の時です。
 神の家族になる時も洗礼式という儀式があります。
 洗礼の時、1つの神の家族として結び合わされたのだという感動があります。

 家族というのは互いに関係しながら、だんだん家族になっていきます。
 夫婦も結婚して互いにぶつかり合いながら家族になっていきます。
 親子も様々な触れ合いを通して家族になっていきます。出産したら自動的に親子になるわけではありません。特に父と子は。
 神の家族も互いに関係しながら、だんだん家族になっていきます。
 特に1つのテーブルを囲んで食事をすることは大事です。
 イエス様は私たちと家族としての関係を深めたいと願っています。それで喜びの祝いに集わせます。それが毎週の礼拝です。
 またイエス様は1つのパンを裂き、1つの杯を回しました。聖餐式を通して神の家族の結びつきは深められます。

互いに愛を表現する

 神の家族を互いに結び合わせるのは愛です。

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

エフェソの信徒への手紙4:16

 キリストの体の部分部分が互いに関わり合いながら、体全体を成長させます。
 互いに愛を表現するように努めてください。

 あいさつすることも立派な愛の表現です。
 バレンタインデーがありますね。愛を表現するチャンスです。バレンタインデーは男性とか女性とか関係なく、愛を表現する日にしてください。
 あなたと出会えてうれしいです。あなたと一緒にいられて幸せだと伝えるのです。

世から捨てられたキリストがすべての人の居場所を建てる

 教会はすべての人に開かれ、愛によって結ばれる場所。
 しかし1つの教会がすべての人を受け入れることはできない。ではすべての人に開かれた教会はあり得ないのか。

ごちゃまぜの場所

 それを実現している場所が石川県白山市にあります。社会福祉法人佛子園が運営するB’s行善寺です。
 ここには保育園、高齢者デイサービス、レストラン、スポーツジムなどがあります。周辺には障がい者グループホームが12棟あります。行善寺という名前の通り、お寺さんの社会福祉法人です。
 B’s行善寺では子どももお年寄りも障がいのある人もない人もごちゃまぜで生活します。
 そこで互いに関わり合う中で変化が生まれます。

 重度心身障害の青年と認知症のおばあちゃんが出会いました。
 おばあちゃんはデイサービスでもらったゼリーを青年に食べさせようとします。しかし彼は体を自由に動かせません。
 それを繰り返していくうちに、首を少し動かしてゼリーを食べられるようになりました。
 専門家が関わってもなかなかできなかったことが、認知症のおばあちゃんとの関りでできるようになりました。
 そのおばあちゃんは徘徊が問題になっていましたが、「私が行かないと彼が死ぬ」と思い込んでおり、デイサービスに通うためによく寝るようになり、徘徊が減りました。

家を建てる者が捨てた石が隅の親石となる

 人は互いの関係の中で生きます。
 それは勉強ができる人や仕事の能力が高い人ばかりではありません。
 自分では何もできない人も、体が衰えて働けなくなってしまった人もです。

 この人は生産性がない。見るのも嫌だ。
 だから山に捨てよ。集団自決しろ。ガス室に送れ。
 人はそうしてある人々をふさわしくない人だと排除してきました。

 このような罪深い私たちのために救い主イエス・キリストが来ました。
 完全な人間であるイエス様はどんなに立派な人間だったでしょう。
 むしろイエス様は、自分では何もできず一人ではすぐ死んでしまう赤ちゃんとしてこの世に来られました。
 神が人との関わりを求めておられます。
 そしてキリストは宗教指導者たちから排除され、十字架で捨てられました。この社会から捨てられました。
 家を建てる者が捨てた石が隅の親石となって新たな家が建てられるように、この世から捨てられたキリストがかなめ石となって教会が建てられています。

あなたの存在が欠かせない

 教会こそごちゃまぜの場所であるべきです。
 子どももお年寄りも障がいのある人もない人もごちゃまぜで生活していく。ただあなたがいてくれてうれしいと、愛を表現する場です。
 教会に必要ない人はいません。
 1つでもピースが欠けていたらジグソーパズルは完成しません。
 神の家族、神の家を建て上げていくために、あなたの存在が必要です。
 互いに愛を表現し、受け入れ合っていきましょう。

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