創世記45
独り子を与える程の愛
創世記 22:14-19
14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。 15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。 16 御使いは言った。 「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。
神の恵みを見出す
愛する独り子イサクをモリヤの地で焼き尽くす献げ物にしなさい。この神の不条理な命令にアブラハムは信仰をもって従いました。
モリヤ山が近づいたところで召し使いの若者2人と分かれ、「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」と言いました。
イサクから「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」と聞かれたときには「きっと神が備えてくださる。」と答えました。
これらの言葉にアブラハムの信仰が表れています。
アブラハムがイサクを屠ろうとしたところで天使が現れ、アブラハムを引き留めます。
そこで目を上げると一匹の雄羊が見つかったので、それを焼き尽くす献げ物にしました。
アブラハムはその場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けました。
この出来事は信仰の父アブラハムの重要なエピソードとして語り継がれます。子孫たちはモリヤ山での出来事を覚え、「主の山に、備えあり」と言うようになったのです。
この備えると訳された言葉は、基本的には見るという意味で使われます。主の山で見出す、明らかにされるということです。
信仰で歩み出すときにわかる
この道を行けばどうなるものか
危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし
踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる
迷わず行けよ 行けばわかるさ

プロレスラーのアントニオ猪木さんが引退試合で引用した言葉です。猪木さんは一休さんの言葉だと言いましたが、清沢哲夫さんの「道」という詞のようです。
道というのは人が歩いてこそ道になるわけです。私たちが一足一足歩いて行くその歩みが道を作る。
だから歩み出せと。勇気をもらえるいい言葉ですね。
しかし本当に道を作るのは私たち人間なのでしょうか。
私たちの人生の中には、やむを得ない事情によって新しい道を進まなければいけない時があります。この先どうなるか想像もつかない。未知の道。
そこで一歩を踏み出し、新しい道を作る。
そのやむを得ない事情というのも神の手の中にあるわけです。
イスラエルの民は海の中を通ってエジプトを脱出しました。まさに新しい道を作りました。
その道を作ったのは彼らではありません。神です。
神があらかじめ用意した道がある。それを信仰者たちが見出すだけです。
イエス様が「沖へ出でよ」「舟の右側に網を打て」と言われます。
主の声に従うとき、大量の魚が捕れます。
沖や舟の右側といった場所をイエス様が指定している。
そこで主が備えてくださった恵みを見出すのです。
主の山に備えあり。行けばわかります。
あなたに備えられた豊かな恵み
モリヤ山
さて、この出来事が起きたモリヤ山。この後も歴史上の重要な場所として出てきます。
歴代誌下3:1には「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。」とあります。
ですからモリヤ山はエルサレムにあります。
エルサレムとべエル・シェバとは100㎞ほど離れていますから、3日ほどの道のり。距離的にも合っています。

そこは神殿を建築するためにダビデが準備しておいた場所でした。かつてオルナンの麦打ち場があり、そこをダビデが買い取ったのです。
麦打ちというのは、麦の穂を打って実の部分を外す作業です。棒で叩いたり、岩に打ち付けたりしました。
かつて神殿があった場所には大きな岩があり、それを麦打ち場にしていたのかもしれません。
今神殿は破壊され、建物としては西側の壁(嘆きの壁)だけが残っていますが、この岩も残されています。
今はこの岩を囲うようにイスラム教のモスク(岩のドーム)が建てられています。
それはムハンマドが天に昇ったとき、この岩から天までのはしごが架けられ、それを昇ったと伝えられているからです。
現存する岩は加工された跡がありますが、かなり大きく、上が平らになっています。
麦を広げて打つには良いし、はしごを架けても安定しそうです。
神聖な場所なのでできませんが、上に寝っ転がってもいい。
そう、ここに薪を並べていけにえをささげる祭壇にしても良さそうです。
アブラハムがイサクをささげようとした場所も、モリヤ山にあるこの岩の上だったかもしれません。
プロテスタントの信仰に聖地という概念はありませんが、やはりこの地は特別な場所なのだという感じがします。
歴史の舞台として、神様が備えておられた恵みがここにはありました。
味方である神がすべてを与えてくださる
アブラハムがモリヤ山で独り子イサクをささげようとしたように、神様は独り子イエスをお与えになりました。
少し場所はズレますが、エルサレムの郊外にあったゴルゴタの丘でイエス様は十字架に架けられます。
オルナンの麦打ち場についてもう少し掘り下げておきます。
ダビデは晩年、神を頼るのではなく軍の規模を頼る誘惑に陥ったことがありました。
その時、エルサレムを3日間疫病が襲い、7万人の市民が命を落としました。
そのとき主はオルナンの麦打ち場に祭壇を築けと命じます。
それでダビデはその場所を代価を払って買い取り、焼き尽くす献げ物をささげたのでした。すると疫病は止みました。
この場所は神の恵みによって人々が命を受ける場所、神こそが味方であることを思い起こさせる場所でした。
神が独り子の血によって私たちを生かしてくださいました。
御子を信じる信仰によって、私たちは義と認められました。
死んだ方、いや死の力を打ち破り復活された方が、神の右の座で執り成していてくださる。
それならば誰が私たちに敵対することができますか。
誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。
私たちは既に圧倒的な勝利者とされています。
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
ローマの信徒への手紙8:32
神はあなたの味方。天のお父さんはあなたに最善のものを最適なタイミングで与えてくださいます。
主の山にある、あなたのために備えられた恵みを受け取ってください。
祝福の誓い
天使は主なる神様からの言葉を伝えます。
主はこう言います。「わたしは自らにかけて誓う」
私たち人間は「天にかけて」とか「じっちゃんの名にかけて」とか、自分より偉大な存在にかけて誓うことがあります。そこで引き合いに出す対象が偉大であれば偉大であるほど、その誓いの真実味が増します。ヘブライ人への手紙6章を参照してください。
神様は至高の存在なので、自分より偉大な方にかけて誓うことができません。
神が自らにかけて誓うというのは、決して裏切られることのない絶対的な誓いだということ。
それをアブラハム個人に語るというのは驚くべきことです。
約束の再確認
ここで神が誓ったのは、子孫を空の星のように、海辺の砂のように増やすということ。
約束の子イサクをささげてしまったら、約束の子は途絶えてしまいました。しかし神はイサクを生かし、イサクから神の民が増え広がるというビジョンを再び示します。
そして子孫は敵の城門を勝ち取る。町を支配する。これは土地の約束です。
それから、地上の諸国民が祝福を得る。祝福の源になる。
子孫、土地、祝福の源という3つの約束をここでもう一度誓いました。
これはアブラハムのためでもありましたが、次の世代を担うイサクのためにも語られたのだと思います。共にいたイサクも神の約束を聞きました。
私たちにも受け継がれている
この神の誓いは世代を超えて受け継がれてきました。
信仰によって神の民とされた私たちにも受け継がれています。
神の民が増え広がり、町を支配し、周りの人が祝福される。
私たちは敵の城門を勝ち取るようなことはしませんが、今住んでいるこの町に神の支配が及ぶ。ここに神の国が臨みます。
そのために神の備えられた祝福があります。
神様の恵みを受け取るために一歩を踏み出していきましょう。
主の山に備えあり。迷わず行けよ、行けばわかるさ。



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