教会のビジョン2 私たちは自分を愛する

教会のビジョン2

私たちは自分を愛する

コリントの信徒への手紙二 3:18

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

成長し続ける野球界

 先週は野球の世界大会World Baseball Classicの決勝が行われ、日本が優勝しました。
 決勝の相手はアメリカ。野球の本場です。日本に野球を伝えたのもアメリカからでした。日本の野球はアメリカに憧れを抱いてきました。日本で活躍した選手がアメリカに行くと、「メジャーに挑戦する」と言われます。アメリカは常に格上、憧れの対象でした。
 そのアメリカ代表との決勝戦。決戦の舞台もアメリカ。日本は挑戦者の立場に見えます。

 その試合前、ロッカールームで大谷翔平選手は言いました。
 「憧れるのを、やめましょう。今日、超えるために、トップになるために来たんで」
 メジャーリーグでも投手と打者の二刀流で活躍し、あのベーブ・ルース以来104年ぶりに二桁勝利、二桁ホームランを記録した大谷選手。アメリカは憧れの対象ではなく、超えるべき相手です。
 そして日本代表は3対2の1点リードで9回を迎えます。
 9回表、アメリカの攻撃。日本のピッチャーとしてマウンドに上がったのは大谷翔平。
 最後の選手から三振を奪い、勝利を勝ち取りました。

 常に上を目指して成長を続ける選手たち。
 彼らの活躍を見た少年少女たちが、また彼らをも超えていくでしょう。

 皆さんは誰かに憧れを抱いていますか。あの人のようになりたい。あるいはあの人を超えたい。そのような存在がいますか。
 誰かに憧れを抱いてその人を見つめ続けるなら、私たちは常に成長を続けることができます。
 どこまで成長できるのか。
 キリストのようになるまでです。

自分を大切にする

 教会のビジョンの2回目です。
 前回は神を愛するということを考えました。私たち一人一人が神様との関係を大切にすること、礼拝者として生きることが求められています。
 神様を愛する人は、神様が大切にするものを大切にします。
 神様はあなたを救い出すために独り子イエス・キリストを与えてくださいました。あなたは神様の傑作品であり、高価で尊い宝物です。
 それなら皆さんは、神様の宝物である自分自身を愛するべきです。

ダイヤの原石

 自分自身を愛するために、皆さんは何をしていますか。
 皆さんが宝物を持っているとしたら、それをどのように扱いますか?
 もしダイヤモンドの原石を持っているとしたら?
 悪い者に奪われないように金庫に入れて守ることも大事ですね。
 そのままでも高価で尊いですが、余計なものを削り取り磨くことでダイヤモンドの持つ本来の輝きを放つことができます。
 もし皆さんが皇居や王様の前に招かれたなら、ダイヤを原石のままにせず、磨き上げ着飾って行くでしょう。
 皆さんはダイヤの原石です。
 私たちは自分を磨くことで、隠されていた神のかたちが取り戻され、神の栄光の輝きを放つ者になります。

キリストに似た者になるまで成長する

 今日の本文でパウロは言います。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
 エフェソ書では「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」と言っています。
 イエス様も山上の説教で「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と求めています。
 私たちはどこまで自分を磨くべきか。
 その目標は完全な人間、イエス・キリストです。
 めちゃくちゃ高い目標!絶対無理です。心折れます。
 7の70倍赦せと言われても、同じ失敗を2回繰り返しただけで嫌になります。右の頬を打たれたら左の頬を差し出す前に手が出ます。

 これは人間の力でできることではありません。主の霊の働きによることです。
 聖霊の働きによって、日々新しくされていきます。
 そしてイエス様が再び来られるとき、私たちはついにキリストに似た者になります。

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

ヨハネの手紙一3:2

 キリストに似た者に成長成熟する鍵は、イエス様に出会うことだとわかります。

神との出会いによって神の栄光を現わす者に変えられていく

 今日の本文はモーセの顔が光って覆いを被せたという話がベースになっています。
 モーセは神様と友だちのように語り合いました。
 そして神様と語り終えたモーセの顔はテカテカと光っていたのです。テカテカだとあまりキレイな感じがしないのでピカピカにしておきましょうか。
 神様との出会いによって私たちは神様の栄光を鏡のように映し出す者になります。

 神様と出会うために聖書を読んで神様の言葉を聞き、祈りで語り合うことが大事です。また礼拝は神様と出会う機会です。
 神を愛することで、私たちはキリストに向かって成長していきます。
 自分を愛することと神を愛することはつながっています。

1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

詩編1:1-3

 神を愛する人は流れのほとりに植えられた木のように豊かに成長し実を結びます。
 私たちは神を愛する教会。
 そして私たちはキリストに向かって成長していく。
 私たちは自分を愛する教会です。

心も体も休ませる

 自分を愛するという時に、私たちは自分に休みを与えるということを考えてみなければなりません。

神を愛することと隣人を愛することの間に自分を愛することがある

 十戒の第一戒から第三戒までは神を愛することが命じられています。第五戒から第十戒は周りの人を愛することが命じられています。
 間の第四戒は安息日の戒め。これも神を愛することが命じられているとも言えますが、自分を愛することが命じられているとも言えます。
 申命記5章によると、安息日の根拠はエジプトの奴隷状態から救われたことです。
 エジプトで休みなく働かされていたが、神が救い出し肉体も心も安息を得られた。だから安息日を守れ。そうすることで周りの人にも休みを与えられる。
 神を愛することと隣人を愛することの間には自分を愛することがあります。

礼拝で力を得る

 皆さんは安息していますか。
 イエス様も「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と招いています。
 神様は私たちに休みを与えたいと願っています。

 日曜日が休みの人が多いですね。
 そのせっかくの日曜日に礼拝があって休めないと感じている人はいませんか。
 だとしたら礼拝のささげ方、教会での過ごし方を間違えています。
 教会に来たらリラックスして力を得てほしいです。

彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

ネヘミヤ記8:10

 今日は喜びの日です。
 主を喜び祝うことこそ力の源。
 そしておいしいものを食べて体にも力を蓄えるのです。

 今日の昼はブラジル料理のパステウ。おいしいものを食べて力を得てください。
 休んで力を得るところから新しい一週間が始まります。

心を守る

 そして心を守ることも意識してください。
 心は外部からの情報に影響されます。
 仕事の情報を得れば心は仕事モードになります。過激な情報を得れば心は興奮します。
 自分の心を守るために、目や耳から入る情報に気をつけてください。

 情報機器の発達によって私たちはいつでもどこでも仕事ができるようになりました。
 家族と過ごす家庭にいながら、仕事のことで心を忙しくしてしまうこともできてしまいます。
 休む時間を決めて、その時間には仕事の情報を遮断するように意識する必要があります。
 緊急事態に対処しなければいけない職業の人もいますから、そういう人は仕方ありませんが、可能ならスマートフォンを見ないようにすることも必要です。

 きれいな景色を見たり音楽を聴いたりして、良い情報を取り入れて心をリフレッシュさせる。
 心を静めると、神様の恵みの中で休めます。
 そして神様の愛を心に蓄えていきます。

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。

箴言4:23

 あなたの心に神様の愛が蓄えられていないなら、心は枯れます。
 そして周りの人に優しくすることができなくなります。

 教会で休んで力を得ていってください。
 日曜日だけではありません。平日もどうぞ。

打ち砕かれ回復していく

 自分を愛するということは自分を甘やかすことではありません。
 ダラダラ休んでバクバク食べるような怠惰な生活をしていくと活力を失います。このような生活は自分をダメにします。自分を愛することにはなりません。
 自分を愛することは原石を磨くことのようです。打ち砕かれ、削られ、磨き上げられていくことで神のかたちが回復していきます。

イエス様に出会うと自分の罪が見えてくる

 私たちはイエス様と出会う中でキリストの似姿に変えられていきます。
 イエス様と出会う時、私たちの心には恐れが生じます。
 光に照らされて隠されていた汚れが明らかにされるように、自分の罪深さ汚さが見えてしまうからです。

 ペトロはイエス様に出会ったときにこのように反応しました。

これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

ルカによる福音書5:8
ラファエロ「奇跡の漁」

 自分の罪深さや汚さが見えたとき、自分を守ろうとして逃げてはいけません。
 罪を犯したアダムは神様を避けて隠れました。そして罪の責任を女のせい、神のせいにしました。
 他人や環境状況のせいにせず、自らの罪を認めてください。逃げ隠れせず、イエス様のもとに進み出てください。
 完全に人間になられたイエス様は、私たちの弱さも痛みもすべて知っています。
 だから安心して自らの罪や汚れをさらけ出せます。

古い人は死に新しい命に生かされる

 病気の人が医者のところに行って診てもらいます。そこで自分の弱さや痛みを正直に話しますね。癒しはそこから始まります。
 私たちがイエス様のところに進み出る時、イエス様は私たちの罪を明らかにします。神の言葉が鋭く突き刺さり、メスのように隠れていた部分まで明らかにします。そこから回復が始まっていきます。
 イエス様に出会うとき、古い人は死にます。そして復活のイエス様と共に新しい命に生かされます。
 そうして私たちは日々新しくされ、栄光から栄光へとキリストに似た者になっていくのです。

 あなたの変えられた姿は神の栄光となります。
 隠れていた神のかたちが回復し、神の栄光の輝きを放ちます。
 そして周りの人を照らす世の光になります。
 私たち一人一人が自分を愛し磨き上げていくとき、私たちの周りの人を照らすことができます。
 私たちは自分を愛する教会です。

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