神殿から流れる川

エゼキエル書講解52

神殿から流れる川

エゼキエル書 47:1-6

1 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。2 彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。3 その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。4 更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。5 更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。6 彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。

川の流れのように

 2018年もあと2日になりました。年末には紅白歌合戦のような歌番組が放送されます。今年は平成最後の年末ということで、平成を振り返る企画が多く放送されると思います。
 平成の最初の年に、日本の歌謡曲の歴史に名を残す歌手が亡くなりました。美空ひばりさんです。昭和を代表する歌手と言ってもいいでしょう。
 美空ひばりさんが最後に発表した曲は「川の流れのように」です。人生を歌っています。
 2番の歌詞はこうなっています。

生きることは旅すること 終わりのないこの道/
愛する人そばに連れて 夢探しながら/
雨に降られてぬかるんだ道でも いつかはまた晴れる日が来るから/
ああ川の流れのように おだやかに この身をまかせていたい/
ああ川の流れのように 移りゆく 季節雪どけを待ちながら 

 人生は旅のようです。
 自分の意思で始まった旅ではなく、仕方なく始まった旅です。どこに向かえばいいのかわかりません。
 雨に降られてぬかるんだ道を歩かなければならないときもあります。自分の力で歩いて行こうとすると疲れます。

 川を見てみるとどうでしょう。
 空から落とされた小さな雨粒が、木の根を伝い、せせらぎになる。
 やがて小川になり、岩にぶつかりながら急流を流されていく。大変です。
 しかしその川の流れに身を委ねるとき、おだやかに流れていくことができる。
 やがて大河となり、大海へと帰っていきます。

 2018年はどのような年だったでしょうか。
 よい年だったと感謝して終われる人も、大変な年だったと疲れ果てて終わる人もいるでしょう。
 神様は一人一人の人生に特別な計画を持っておられます。
 主に委ねて2018年を締めくくり、新しい年へ向かう私たちになることを願います。

神殿から流れる水の流れ

 今日の本文はエゼキエルが、神殿から流れる水が川となり大河となる幻を見せられる場面です。
 水は祭壇から流れてきます。
 初めはただ水が流れているだけですが、やがてくるぶしまでの深さの小川になります。さらに膝までになり、腰までの深さの川になります。
 そしてとうとう立っていられない深さの大河になります。

祭壇から出る水

 まず今日の本文の1節に『1 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。』 とあります。

犠牲の祭壇

 エゼキエルは青銅のように輝く人に連れられて、新しい神殿の幻を見せられました。
 最後に見た幻は、神殿から水が流れるところです。
 新しい都の真ん中に神殿が置かれるので、都の真ん中を水が流れていくことになります。
 その水はどこから出てくるのかというと、祭壇の南側だとあります。
 祭壇は神殿のちょうど真ん中にあります。
 ですから新しい都のど真ん中から水がわき出しているわけです。

 なぜ祭壇から水がわき出してくるのでしょうか。
 山の下の方であれば、水がわくことはあるでしょう。
 しかし神殿は山の上に立てられるのです。不思議です。

 これは仮庵祭と関係がありそうです。
 イスラエル三大祭りの1つである仮庵祭は、第7の月の15日から7日間祝われました。その間イスラエルの民は、荒野での生活を思い起こして仮庵を建てます。
 聖書に書かれてはありませんが、捕囚の後の時代から、ユダヤ人たちは仮庵祭の間にシロアムの池から水を汲んできて、祭壇に注いでいたようです。
 イエス・キリストの時代にもそのように祭りが祝われていました。
 イエス・キリストは仮庵祭の最終日に、このように言いました。

37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

ヨハネによる福音書7:37-38

 水はどこから来るのか。
 イエス・キリストを信じる人の内から流れ出てくると約束しています。
 ヨハネは、これは聖霊について言っていると説明しています。
 祭壇から流れる水とは、聖霊を意味しているわけです。
 神殿の真ん中から聖霊の水が流れ出してきます。

清めの水

 祭壇の本来の役割は、犠牲のいけにえがささげられるところです。
 そこには血が流され、祭壇の上ではいけにえが焼かれました。
 焼け跡には灰が残ります。いけにえを焼いた後の灰は、清めの水を作るために用いられました。
 祭壇は血が流されるところであり、そこから清めの水が作られます。

 私たちは血によって洗われました。
 イエス・キリストの十字架の血潮によって、私たちの罪は洗われました。
 今私たちは新しくされています。

25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

エゼキエル書36:25-27

枯れない水

 エゼキエルが見た新しい神殿はまだ完成していませんが、既に来ています。
 私たち一人一人が、その神殿です。
 イエス・キリストの血によって洗われた私たちの内に、聖霊様が住んでいます。
 そこから枯れることのない命の水がわき上がってきます。

 この世のものは一時的に私たちを満たすでしょう。
 しかし時間が経てばまた渇いてしまいます。そしてもっと多くのものを求めるようになります。
 この心の飢え渇きを、何によって満たそうとしているでしょうか。
 仕事、人からの評価、お金、お酒、たばこ、ゲーム、インターネット。

 サマリアの女は、男の人に満たしてもらおうとしていました。
 イエス・キリストは彼女の本当の飢え渇きを悟らせるために、このように言いました。

しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

ヨハネによる福音書4:14

 私たちの飢え渇きの根本的な原因は、命の水の流れを止めていることにあります。
 枯れることのない命の水が私たちの心の中心からわき出ようとしているのに、私たちはこの神殿の中に偶像を置いてしまいます。
 その偶像によって水が止められてしまいます。
 私たちの心を満たしている偶像を取り除いていくとき、私たちは本当の喜びを知り、命に満ち溢れていきます。

川になる

 次に今日の本文の2節から5節に『2 彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。3 その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。4 更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。5 更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。』 とあります。

初めは小さい流れ

 子どもの頃、家の庭に川を作って遊んでいました。
 土を掘って小さな山を作り、そこにジョウロで水を流します。
 水は山の斜面を降り、庭を流れていきます。繰り返し水を流すうちに、土が削られ、川のような水の通り道ができます。
 しかしその水はやがて地面に吸収され、見えなくなってしまいます。
 1か所から水を流すだけでは、川にはなりません。

 私たちの内からわき出てくる命の水は、やがて私たちの内から溢れだし、外へ流れていきます。
 しかしその小さな流れでは、隣の1人をちょっと濡らすことはできても、潤すことはできません。
 がんばって水を注ぎ出そうとすれば、周りを潤すことができるかもしれませんが、自分が枯れてしまいます。

小川が合わさる

天竜川

 浜松の東の端に天竜川という大きな川が流れていますね。
 この川は長野県の諏訪湖から流れ出しています。
 最初は1本の流れですが、途中で多くの川と合流しながら大きな流れになり、山の間を通り、太平洋に出て行きます。

 川というのはこのように生まれます。
 初めは小さな湧き水かもしれません。
 その小さな流れは他の小さな流れと合わさり、くるぶしぐらいの深さのせせらぎになります。
 そのせせらぎも他のせせらぎと合わさり、膝ぐらいの深さの小川になります。
 小川と小川が合わさって腰ぐらいの深さの川になり、川と川が合わさって大河になります。
 そうして川は山を越え、平野を過ぎ、海に注がれていくのです。

 エゼキエルが見た幻でもそのようになっています。
 1アンマは普通、約45㎝ですが、この幻の中では1トファつまり7.5㎝を加えて52.5㎝になっています。ですから一千アンマは52,500㎝。525mです。
 だいたい500m過ぎるごとに、水の深さがどんどん増えています。
 多くの流れが、そこに加わっていることがわかります。

 私たちは共に一つの流れを作ります。
 私たちは同じ一つの霊が与えられた、一つのキリストの体です。
 体に多様な部分があるように、私たちは多様な人が集まって一つの教会を作ります。
 共に礼拝する人がいて感謝です。祈り課題を分かち合い、共に祈る友がいることも感謝です。
 信仰の友から離れて孤立してしまうと、その人はやがて枯れていってしまうでしょう。
 これからますます多くの人が加わり、信仰の友だちができて、大きな流れになっていくことを願います。

砂漠に川を作る

 大きな川は力があります。
 山の間にも道を作り、大地を潤し、海に至ります。
 大量の水があれば砂漠にも川を流すことができます。

 キング牧師は公民権運動の中でアモス書の言葉をよく引用しました。

正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。

アモス書5:24

 私たちを通してこの世界が潤されていきます。
 教会が一つとなってこの地に正義と恵みの業を行うとき、罪によって荒れ果てたこの世界に大河が流れます。
 一人の力ではできません。
 家庭の中で夫婦が信仰で一つになるとき、その家庭が変えられていきます。
 信仰の友と一つになるとき、その職場や学校が変えられていきます。
 地域の教会が一つになるとき、この街が変えられていきます。
 やがて水が海を覆うように、全地は主を知る知識で満たされていくのです。

自分の足で立てない

 最後に今日の本文の6節に『6 彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。』 とあります。

川に押される

 エゼキエルは幻を体験しました。
 青銅のように輝く人は「人の子よ、見ましたか」と言います。
 目で見る。視覚から入ってくる情報は大きいです。
 彼はエゼキエルに水の流れを見せただけでなく、水の中を渡るように言いました。
 言葉を聞く。耳から入ってくる情報も大事です。
 そしてエゼキエルは水の中に入りました。そして肌で水の流れを感じました。
 このようにエゼキエルは五感で神の恵みを受け取っています。

 よく見なさい。よく聞きなさい。そして実際にやってみなさい。
 聖書の言葉を体験するのです。
 そうすると神の恵みがより深くわかります。

 エゼキエルは何を見たのでしょう。何を体験したのでしょう。
 皆さんは川遊びをした経験があるでしょうか。
 川の中に立っていると、水の流れを感じます。
 くるぶしくらいなら気持ちいいでしょう。
 膝までくると、踏ん張らないと辛いです。
 腰まで来たら、何かに捕まらないと危ないと感じます。
 さらに深くなると、立っていられないです。

 私たちは自分の力で立とうとします。
 川の外ではもちろん自分の力で立てます。
 川に一歩入ったくらいの時は気持ちよさを感じます。
 しかしさらに深みに進もうとすると、川の流れに抵抗を感じます。

 私たちが神の恵みを体験しようとするとき、ちょろちょろと浅瀬のような周辺では気持ちよさを感じます。
 しかしさらに深く恵みを体験しようとすると、自分を押し流そうとする大きな力を感じます。
 その主の導きに抵抗し自分の力で立ち続けようと踏ん張るなら、それは苦しいことです。

川に身を委ねる

 抵抗するから苦しいです。
 流れに身を委ねれば楽です。
 自分の力で立とうとせず、気持ちよく泳げばいいのです。

 流れるプールがあります。
 その流れに逆らって泳ぐ人は疲れるし、他の人とぶつかって互いに不快な思いをします。
 浮き輪でもつけてぷかぷか浮かび、流れに身を委ねる。それが流れるプールの楽しみ方でしょう。

 神の導きに対し、相変わらず自分の考えを優先するから苦しいのではありませんか。
 イエスはペトロに沖に出て漁をしなさいと言います。
 漁師のペトロは「大工の息子のあなたに何が分かる。魚のとり方は俺がよく知っている」とは言わず、イエスの言葉に従いました。
 あなたも「こうでなければならない」というこだわりを捨て、神の恵みの深みに身を委ねてください。

聖霊に委ねる

 流れに身を委ねるというのは、神に丸投げして自分で何もしないということではありません。
 自分の力で生きようとするのではなく、聖霊の力で生きるのです。

 私たちは聖霊によって立ち上がります。
 エゼキエルはそのように召命を受けました。

彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。

エゼキエル書2:2

 エゼキエルは自分の足で立ち上がりますが、その力は聖霊によるものでした。

 神に身を委ねても、個性はなくなりません。
 むしろ個性が活かされます。
 沖に漕ぎ出して神の恵みの深みを体験したペトロに、イエスは「人間をとる漁師にしよう」と言いました。
 魚をとる漁師だったペトロの人生をイエス様は用います。

 神はあなたが見てきたこと、聞いてきたこと、体験してきたことを用います。
 あなたが失敗したと思った経験さえも、神の恵みの流れは逆転させます。
 神様はあなたを用いて新しいことを起こそうとしています。
 主の導きに身を委ね、より深みへと漕ぎ出してください。

 私たちはイエス・キリストの血と水と霊によって新しくされました。
 私たちの内から枯れることのない命の水がわき上がってきます。
 その水は兄弟姉妹と一つになって、川になります。
 聖霊の力で立ち上がり、恵みの流れに乗り、新しいことをこの地に起こす2019年になることを願います。

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